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黒沢清の「震災後三部作」~『岸辺の旅』・『ダゲレオタイプの女』・『散歩する侵略者』~

1、

 黒沢清は、東日本大震災についてどのように考えているのだろうか。この野暮な問いから始めようと思う。
 野暮と書いたのは、震災のような大きな出来事は、その出来事がもつ社会的な意味の大きさや、そこにつきまとう言説の膨大さゆえに、強力な磁場をもってしまうからだ。「道徳」や「当事者性」という磁場にからめとられた語りは、多くの場合多様性や細部を失う。黒沢自身は震災について積極的に発言をおこなってはいない。そして、一昨年(二〇一六)に大ヒットしたふたつの映画、『シン・ゴジラ』や『君の名は。』のような、わかりやすく震災ないしは自然災害に応答するような作品を作っているわけでもない。それならば、黒沢と震災をつなげて言葉を立ち上げようとしたところで、そこで出来上がるものは磁場にとらわれた広がりのない議論になりかねないのではないか。
 しかし、そんな疑念を抱きつつもなお、黒沢には冒頭の問いを投げかけてみたくなる。それは、黒沢映画のなかで重要なモチーフのひとつが幽霊だからだ。幽霊と東日本大震災は不可分の関係にある。その関係を探るために、Buzz Feed Japanの記者である石戸諭の著書『リスクと生きる、死者と生きる』を参照したいと思う
 『リスクと生きる、死者と生きる』のなかではこのようなエピソードが紹介されている。二〇一六年の冬、ある大学生の書いた卒業論文がネット上で議論を起こしていた。その論文は、被災地で耳にされていた、タクシー運転手が幽霊を乗せたという噂についての聞き取り調査をおこない、論文としてまとめたというものであった。ネット上では、その論文が学術的なものとみなせるかといったことが争点になっていたが、そのような議論に違和感をもった石戸は、執筆者である学生の所属するゼミにコンタクトを取る。そして当の卒業論文の指導教官であった社会学者の金菱清は、石戸に対して以下のように語っている。

「生きている人と死者の中間に、行方不明に象徴される『あいまいな死』があります。当事者の間でも、生と死はきれいに分かれてはいない。遺体が見つからないため、死への実感がわかず、割り切れない思いを持っている人の気持ちとどう向き合うのか。幽霊現象から問われているのは慰霊の問題であり、置き去りにされた人々の感情の問題なのです。」(『リスクと生きる、死者と生きる』、p.108)[i]

 「あいまいな死」は、生き残った人たちに、「あの人は本当に死んでしまったのか」という問いをつきつける。その問いは同時に、「死を受け入れられない」という感情の表れでもある。そのような感情を否定することなく、「あいまいな死」と向きあうなかで起きたのが、タクシー運転手たちの幽霊に関する語りであり、そこに被災地の現在の死生観が表れているというのが、金菱の考えである。
 さきに引用した一節は、東日本大震災以後を生きる現実の人々が直面している問題だ。しかし、黒沢清という名前と一緒にこの一節を読んだとき、ある映画の場面が浮かんでは来ないだろうか。2013年制作の『岸辺の旅』の冒頭で描かれる、失踪した夫、薮内優介(浅野忠信)の帰りを待つ妻の瑞希(深津絵里)の姿である。

2、
 『岸辺の旅』は、失踪した夫の帰りを待ち続け三年がたったある日、幽霊になった夫が突如姿を現すところから物語が始まる。優介は、自分は富山の海で死んでおり、死体もすでに蟹に食われて跡形もないと言う。最初、瑞希は戸惑うものの、その後優介に連れられ、彼が失踪してから亡くなるまでに訪れた土地を辿る旅に出て、それぞれの土地で彼と関わった人たちに出会っていく。
 夫である優介は幽霊として現れる。しかし、画面内に描かれる優介の姿は、一般的にイメージされる幽霊の姿と大きく異なる。彼は瑞希のつくった白玉団子をふつうに食べるし、荷物をもつしバスにも乗る。旅先で出会う人びととも当然のようにコミュニケーションをとるし、瑞希と情事に及ぶ(と明らかに思われる)場面すらある。映画批評家の渡邉大輔も、映画における幽霊について述べた論考のなかで、『岸辺の旅』における優介という幽霊の特異性を以下のように述べている。

たとえば、黒沢の近作『岸辺の旅』がかれのホラー系の過去作と明らかにテイストがことなるのは、ひとことでいえば、登場する幽霊たちがまったく怖くないことによる。[…]夫の幽霊(浅野忠信)は、かつての『CURE』の萩原聖人や『叫』の小西真奈美のような不穏で陰惨なたたずまいはほとんど感じさせない。寝食を含め人間=生者の妻と同じ行動を取り、なおかつ情事まで演じてしまう浅野の幽霊は、観客の目には妻のいる現世といかにもフラットに馴染んでいるように思える。(『ゲンロン5 幽霊的身体』、p.168)[ii]

 さきほど東北の被災地における「あいまいな死」を示したが、優介の死もまたあいまいなものだ。彼の遺体が発見されることはなく、亡くなる場面が明確に描かれることもない。なにより、幽霊であると言いつつも生きているようにしか見えない彼の存在自体が両義的であいまいなものである。彼が海のなかで死んでいるという点も示唆的だ。
 『岸辺の旅』の二年後に制作された『ダゲレオタイプの女』においても、ふたたび「あいまいな死」を経由した幽霊が現れる。奇しくも、その死が決定的になるのもまた水のなかだ。
 「ダゲレオタイプ」という旧式の撮影技術に強いこだわりをもつ写真家のステファン(オリヴィエ・グルメ)の亡き妻、ドゥーニーズ(ヴァレリ・シビラ)と、ステファンのもとに助手としてやってくる主人公ジャン(タハール・ラヒム)と恋に落ちるステファンの娘、マリー(コンスタンス・ルソー)。このふたりが『ダゲレオタイプの女』で幽霊として現れる。ドゥーニーズは物語が始まる段階ですでに亡くなっており、ジャンやステファンの前にときおり姿を現す。一方マリーは、前半分では生きている存在として描かれる。彼女が幽霊性を獲得するのは、階段から落下する場面からだ。ドゥーニーズの呼びかけ(幻聴?)を聞いたステファンは、幻影に導かれるまま家のなかを徘徊する。その様子を奇怪に思い、マリーはステファンを追う。その後ステファンが登った階段をマリーも登り、階段だけが映されたのち、マリーが階段を転げ落ちる。ステファンはマリーに駆け寄るものの、気が動転しており何も対処ができない。慌ててやってきたジャンが、額から血を流し気絶しているマリーを車に乗せ、病院へと向かう。しかしその途中、車のドアからはみ出した、マリーにかけられた毛布の一部分が地面の枝木に引っかかったような描写ののち、マリーが姿を消してしまう。ジャンが車を降りて辺りを探していると、マリーが何事もなかったかのようにあらわれ、家に帰ろうとつげる。その額には傷も血も残っていなかった。
 この後の場面で、ステファンはマリーが死んでしまったと言い張る。ジャンはマリーを屋根裏部屋に隠し、ふたりは新たな生活のため、土地開発業者のトマ(マリク・ジディ)と協力し、ステファンに土地と家を売却させようと画策する。しかしその途中で、ジャンもまたマリーがすでに死んでいるのではないかと疑いを持つようになる。露骨に、マリーの死体が川のなかにあるのではないかと思わせる場面もある。ドゥーニーズとマリー、ふたりの幽霊に精神的に追い込まれたステファンは、最終的に頭部を撃ち抜いて自殺する。ステファンの死体を目にし、土地売却の目的も潰えさらには人を死に追いやってしまうったという自責の念からジャンは混乱し、その後やって来た土地開発業者のトマを射殺してしまう。
 ジャンとマリーは車で逃亡し、さびれた教会でふたりだけの結婚式を挙げる。そして神父が立ち退くように告げたのち、マリーは姿を消し、ジャンと観客に対して、マリーが本当に幽霊であったことが突きつけられる。
 『岸辺の旅』の優介が、冒頭から自分は死んだと明言し、幽霊であることが確定された存在として現れるのに対して、『ダゲレオタイプの女』におけるマリーという幽霊は、生者の世界と死者の世界、本当はどちらに属しているのかが、さらに捉えがたい。物語の筋を素直に追えば、マリーが死んだのは階段から落ちてから川の近くで姿を消すという場面のあたりだ。しかしその後もマリーはジャンと生活を続けるし、一度家を査定にきた業者も、マリーと思しき人影を見かけたとジャンに告げる。それでは、やはりマリーはずっと生きていたのかといえば、そんなこともない。彼女は教会ではっきりと姿を消してしまうのだから。記憶を思い返し、彼女が生者/死者のどちらかであったかをはっきりさせようとするほど、マリーの両義性は捉えがたさを増していく。

3、
 長編最新作である『散歩する侵略者』においては、「あいまいな死」や幽霊はどのように現れているだろうか。『散歩する侵略者』で中心となるのは、加瀬鳴海(長澤まさみ)と加瀬真治(松田龍平)の夫婦だ。真治は地球を侵略にやってきた宇宙人に体を乗っ取られている。宇宙人は侵略の前段階として、地球人について知るために彼らの概念を奪っていく。概念を奪われた地球人は、その概念を喪失する。例えば、真治によって「家族」という概念を奪われた明日美(前田敦子)は、姉である鳴海に対して、あたかも他人であるような冷たい振る舞いをするようになる。真治を乗っ取った宇宙人のほかにもふたり、地球に前もって潜入している宇宙人がおり、彼らの方が着実に侵略の準備を整えていく。彼らの準備によって刻一刻と地球全体へ危機が迫っているさまと、真治に向き合う中で苦悩する鳴海という局所的な世界が、対比される形で物語は進行する。
 真治は宇宙人に体を乗っ取られているが、彼自身の肉体は生きており活動しているため、『岸辺の旅』と『ダゲレオタイプの女』における死んだパートナーとまったく同じ状況ではない。しかし、死者/生者のどちらにも定義しきれないようなさきの二作における幽霊と、地球人/宇宙人の両面がひとりの人物において重ね合わさっている真治はあきらかに対応している。そのためここでは(真治が元通りの地球人になることはないという点も含めて)、彼を死者として扱う。
 そのように整理すると、『岸辺の旅』、『ダゲレオタイプの女』、『散歩する侵略者』においては、あいまいな死者と残された者という二者関係が共通してみられる。しかし同時に、『ダゲレオタイプの女』と『散歩する侵略者』の間には切断線もある。それは、さきの二作がパートナーの死という、夫婦や恋人、ないしは家族という範囲のなかで発生する危機を描いていたのに対し、『散歩する侵略者』においては、鳴海と真治の夫婦間の問題も描かれながら、それと同時に宇宙人による地球侵略という、人類全体に関わる危機も描かれているからだ。ここでもまた東北の震災のイメージは回帰する。物語の終盤、無数の宇宙船が飛来し地球を襲う場面は、鳴海と真治が海にたたずむ光景から始まるのだから。
 幽霊というモチーフを扱うことで個人の関係性における「あいまいな死」を絶えず主題としつつ、危機の問題を個人から集団へ拡大させる。そのように枠組みを変化させることで、黒沢は少しずつ震災のイメージへと近づいている。それでは最後に、黒沢がその枠組みにおいて東日本大震災にどのような応答をしていると考えられるのか。
 繰り返しになる部分もあるが、改めて強調する。ここで取り上げた三作における死者は、いずれも残された者に自らが死ぬところをまったく見せていない。優介は失踪したまま富山の海で死んでしまう、マリーはジャンの知らないとこで階段から転げ落ち川にも落ちてしまう、真治は鳴海の前から姿を消し気づいたら病院で再開している。残される者は、相手がいつどこでどのように死んでしまったのかを知らない。残された者に与えられたのは、大切な人の「あいまいな死」だけだ。だから、死者は残された者の前に幽霊として姿を現すのである。黒沢がそのような幽霊を描くのは、そのような方法によってしか、訳も分からず死んでしまった大切な人と交流する術が残されていないからだ。そして注目すべきは、黒沢映画において現れる幽霊と残された者が、どのように関係をむすんでいるかである。
 死者のことが思い返されるとき、死者は多くの場合亡くなったときの姿をしている。それは、生者にとって死者は閉ざされて変化することのない時間にとどまっているからだ。しかし、黒沢清の「震災後三部作」で描かれる死者(幽霊)の姿は、このイメージに大きく揺さぶりをかける。さきに引用した渡邉が指摘するような死者と生者のフラットさ、死者が生者と見分けがつかないくらい身近に感じられることが重要なのではない。死者と生者の時間が相互的な関係性のなかで同時に更新され続けていることがなによりも重要なのだ。『岸辺の旅』で、瑞希と過ごす中で、死者である優介自身の時間もまた更新されていく。終盤では、彼は瑞希にその死を知られることなく、彼女に最後に謝ることができなかった優介ではない。『ダゲレオタイプの女』のマリーもまた、本当にひと時であれ、ジャンと共に二人で生きるという時間を経験する。『散歩する侵略者』の優介も、地球を滅ぼす侵略者から、鳴海に寄り添う夫へと大きな変容を遂げる。
 一般的に思い描かれているのは、固定された時間のなかにいる死者/変化する時間のなかにいる生者という隔絶された二項対立のなかで、死者と交流しつつ、生者だけが変容していくという世界観である。しかし、黒沢が『岸辺の旅』、『ダゲレオタイプの女』、『散歩する侵略者』で描いた死者は、生者との関係において、死者自身の時間もまた更新されていく。変容する死者/変容する生者という関係性が、その関係性自体も絶えず変化していくような世界観、これが黒沢が震災後の映画において提示したものであり、まもなく7年前の出来事として位置づけられる震災への応答である。それは、『君の名は。』や『シン・ゴジラ』が危機の解決というカタルシスによって東日本大震災を完結した「過去」――まさに固定された死者!――のように扱ってしまったことに比べて、はるかに真摯な応答になりえているのではないだろうか。

[i] 石戸諭、2017、『リスクと生きる、死者と生きる』、亜紀書房

[ii] 渡邉大輔、2017、「『顔』に憑く幽霊たち――映像文化と幽霊的なもの」、『ゲンロン5 幽霊的身体』所要、ゲンロン

文字数:5901

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