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self-montageする観客

 映画にはモンタージュ(montage)と呼ばれる手法がある。もともとはフランス語で「(機械の)組み立て」を意味したこの言葉は、映画において、「複数の映像の断片を組み合わせてひとつの連続したシーンを作る方法」[1]と定義される。モンタージュが用いられた映像の例としてよく挙げられるのが、ソビエトの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインが1925年に作成した『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段」という場面である。

 モンタージュは現在の映画においても盛んに用いられている。昨年日本で大ヒットした新海誠監督『君の名は。』(2016)などは、モンタージュによって作品の緩急が効果的に演出されていたものの一例であろう。しかし、そのような、モンタージュが生かされた映像表現が依然として人気を持つ一方、モンタージュ的な演出から離れるような映像表現も現れてきている。その一つが、VR的な映像表現だ。

 2016年はVR元年と呼ばれる。Oculus Riftのコンシューマー版やHTC Vive、PlayStation VRといったVR鑑賞用のデバイスが発売され、個人的な鑑賞のレベルでもVRにアクセスしやすくなったことが、そのように呼ばれる所以だろう。また、ネットサイト「電ファミニコゲーマー」に掲載されている記事[2]が紹介しているように、VR的な360度の視点をもったプロモーション動画なども現れてきている。

 自動車やパソコンの発明がそうであったように、テクノロジーの発展は人間の生活様式を大きく変える。そうであれば、VR的な映像表現はその受容者である観客にどのような影響を与えるのか。そのことを考えるために、この新しい表現の特徴を確認する。
 一目見てわかるように、VRにおいては一般的な映画に見られるような視点の移動は起こらない。一人称として映像を見ている私は、私以外の人物の視点を得ることもないし、いわゆる「神の視点」と呼ばれるよな、どの登場人物にも属さない視点を獲得することもない。そのような映像体験において現れてくるのは、私たちが現実において目にするような、地続きに広がるのっぺりとした空間だ。その映像体験は一応スクリーン的な枠でくくられているものの、その枠外には連続した光景が広がっており、従来の映像と違い、その姿を実際に目にすることができる。もちろん、こののっぺりとした空間が、VR映像において支配的なわけではない。しかし、モンタージュ的な映像の切り替わりという映画特有の技法を手放すような志向性が、VR映像の中にはあるように思う。
映像の中において、現実における風景のようなのっぺりとした空間が現れるという点は、近年制作数が増えていると言われるスローシネマにも見出すことができる。アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『光の墓』(2015)に見られるような、変化に乏しい風景を画面に映し続ける手法などは、リアリティの有無ではなく、現実の風景の似姿という意味においては、VR以上に現実に近いと言える。
 VR映像とスローシネマ。この二つを、映像の枠内において現実のようなのっぺりした空間性が垣間見えるものとしてまとめよう。モンタージュのような、動的手法が力をもった映画という表現において、上記のような静的な表現が現れ始めている。それでは、私たちの現実はどうなっているだろうか?

 私たちの日常には、区切られた無数の画面が存在している。言うまでもなく、iPhoneやタブレット端末、パソコンなどに囲まれた環境だ。画面があるだけではない。YouTubeなどのプラットフォーム、さらにはSNSによって、夥しい量の映像がその画面には流れ込んでいる。記号学者の石田英敬は、情報技術の発達によって人びとの時間のなかに絶えず情報が流入してくる環境によって、「ハイパーアテンション(過剰注意)」という状態、さらにそれによって「注意力不全」の状態に人びとが陥ってしまうという懸念を示している。[3]
確かに、「Pokémon GO」がリリースされたのち、ゲームに熱中するあまりおきたトラブルや事故などが端的に表すように、ディスプレイに意識が多く向けられることで生じる「注意力不全」の状態は、実生活において弊害をもたらす場合もある。しかし、この無数のディスプレイが存在し、かつそれを同時に、あるいは短い間隔で使い分けることが可能な近年の情報技術が、じつは映画などの映像を前にした観客の新しい受容体験を立ち上げるための足掛かりになるのではないだろうか。

 そのカギになるのは、AmazonビデオやNetflixなどのストリーミング配信だ。しかし、映像が持ち運べるという点が重要なのではない。一つのディスプレイにおいて、複数の映画、あるいは映画とそれ以外の映像を併存させられるような環境を作れるということが重要なのだ。そこにおいて可能になるのは、観客によるモンタージュである。従来、モンタージュとはあくまで映画の作り手が用いる手法であった。それゆえ、観客はその技法がほどこされたアウトプットをそのまま受容するしかなかった。しかし、コンピューターのディスプレイ上に、映画のストリーミング、YouTube(あくまで一例)、Twitter(こちらも一例)が並立しながら、それぞれを行き来しつつ目に映る映像をつなげその都度の鑑賞を立ち上げるという行為が行われるとき、それは観客が自らの鑑賞のために行うモンタージュ、いわばセルフ・モンタージュ(self-montage)と呼ぶことができるのではないだろうか。これは、VRとは異なるインタラクティブな映像体験として位置づけられる。
 しかし、一つの大きな問題がある。それは、「観客」という名詞は単数形でもあり複数形でもあるということだ。一個人の体験というレベルで言えば、セルフ・モンタージュによる映像体験はすでに至るところで行われているだろう。けれどそれはあくまで画面と一対一の関係にある個人の鑑賞において立ち上がる体験でしかない。それをどのようにして複数形の「観客」の体験として立ち上がらせるのか。ぼくはそこに明確な解をいまのところ持っていない。しかしそのヒントは、さまざまな論者がそのアーキテクチャに批評的可能性を見ていた、ニコニコ動画にあるように思われる。
 近年、ニコニコ動画の衰退感は否めないが、映像と並行して視聴者のコメントが流れるというアーキテクチャに可能性を見た人たちは少なくなかった。先に引用した石田英敬もその一人である。ニコニコ動画で流れるコメントは、ある意味でノイズだが、個人的な「私」を超えたレベルでの偶発的なインタラクティブ性を持ち込む可能性がある。その点において、複数形の「観客」による映像のセルフ・モンタージュの契機がそこにあるのかもしれない。

[1] モンタージュ | 現代美術用語辞典ver.2.0

http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5

[2] もはやゴーグル要らずのVR? 最先端のVR映画が問う“鑑賞体験の未来”とは――キャメロン、スピルバーグ、ノーランが鳴らす“警鐘”にどう応える?【オススメVR映像3選も!】
http://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/170912

[3] 石田英敬、『大人のためのメディア論講義』、2016、筑摩書房

文字数:3191

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