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「蓮沼執太」論―他者の内部に宿る外部性の探求

蓮沼執太は2006年、アルバム『Shuta Hasunuma』でミュージシャンとしてデビューした。その後インスタレーションや演劇など多様な分野での活動も見られるが、彼のアイデンティティは音楽にあると言えるだろう。

ミュージシャン蓮沼執太の活動をデビューからから現在までを俯瞰したときに、そこには大きな切断線が3つ存在する。『Pop Ooga』(2007)、『時が奏でる』(2014)、『メロディーズ』(2016)という3つのアルバムのリリースが、その切断線を引いている。そこには、ミュージシャン蓮沼執太が自らの音楽を奏でるためのメディウムを変化させたという共通点がある。まず『Pop Ooga』で、蓮沼は蓮沼執太グループを結成。その後、そのグループが中心となりつつ蓮沼執太フィルが結成され、『時が奏でる』がリリースされる。そして昨年の『メロディーズ』では、蓮沼執太フィルのメンバーを軸にしつつもフルートやハープを加え、これまでともまた違うバンドの形式を取っている。もしあるメロディーが頭に浮かんでいたとして、それを声で歌うのか、バイオリンで奏でるのかでは、実際の演奏は大きく異なる。それくらい、音楽における演奏とその際にどのようなメディウムが用いられるかは重要だ。ましてや、バンドやオーケストラというのは、それ自体がメディウムでありつつも、複数のメディウムを内包している。環境音のサンプリングとミキシングという、その気になれば1人で継続できるスタイルからスタートした彼が、なぜ蓮沼執太フィルのような、ラージアンサンブル、あるいはオーケストラという大がかりな形式を取るにいたったのか。そこには何か重要な契機があったのだろうか。

その通りなのかもしれない。しかし、もしそうではなかったとしても、この変化は避けがたくに起きていただろう。というより、蓮沼はデビューから一貫して問いを抱えており、その問いを徹底させた結果上述したような変化が起きたように思われる。そこで蓮沼が問題にしていたのは、おそらく「音楽」の外部とどう向き合うかという問いだ。

ここで「音楽」とカッコをつけたのは、いわゆる「音楽」とされるものとそうでないものの線引きを便宜的にするためだ。例えば、わたしたちはベートーベンの交響曲を聴くときに、耳に入る音を「音楽」として自明視している。しかし、スプーンと食器がぶつかる音や、風が木の葉をゆらす音は「音楽」として認識にない。そのような、非音楽的な音を「音楽」へと変換するのが、蓮沼のルーツである環境音楽の持つ一側面だ。それは、「音楽」を認識する枠組の拡張を目指す試みとして考えられる。

そして、「音楽」を認識する枠組みの拡張というのは、J.S.バッハによる西洋音楽の(一時的な)大成以降絶えず行われたきたことだ。バロックから古典派、ロマン派、調性の崩壊から十二音音楽の発明、偶然性の音楽などの流れは、おおざっぱにくくれば、まだ「音楽」とは名指されていない「音楽」を獲得する試みの歴史だったと言える。その一つの極点が、J.ケージの『4分33秒』だ。ケージは有名な「無響室の体験」を通して神経系統の作動音と血液の循環音を聞き、世界には音が遍在していることを知った。つまり、私たちが認識できていないだけで、世界にはまだ見ぬ(聴かぬ?)音が無数に溢れているということである。それを作品として実体化させたのが『4分33秒』である。

そのように整理すると、蓮沼が展開している活動はきわめて伝統的な音楽の文脈に属していると言える。しかし、伝統的であるということは当然良い面だけではない。伝統はその歴史性ゆえに、特有の磁場、あるいは重力ともいえる力を持つものだ。西洋音楽の歴史で言えば、『4分33秒』はいまだ強い磁場を形成している。

蓮沼もまた、その磁場に引き付けられて『4分33秒』的な「音楽」を生み出してしまうのだろうか。少なくとも今までの蓮沼の「音楽」を聴くかぎり、そのような心配はないだろう。ケージと蓮沼のこの差異はどこから来るのか。それは、ケージの目指した外部は他者を滅却したが、蓮沼の目指す外部は他者を存在させているからだ。ここでいう他者とは、自分以外の人間くらいの意味に理解していただければと思う。

ケージの外部には他者がいなかった。もう少し言えば、ケージは他者がいられるような「音楽」という地平を破壊したのだ。『4分33秒』が達成した一つの側面は、「音楽」的な音の完全な滅却である。そこには、音を発する何かさえあれば、それを受け取る人、すなわち音の送り手にとっての他者など必要ないのである。ケージは「音楽」の外部を突き詰めた結果、人間という音の受け取りてたりうる基盤を放棄してしまった。一方で、蓮沼の外部には他者がいる。なぜか。それは、蓮沼が外部を他者のうちにおいて見出そうとしたからだ。

蓮沼は、ケージのようなノンヒューマン的世界観に向うのではなく、むしろ自分の演奏のなかにどんどん他者を取り込んでいった。そのことが意味するのは、蓮沼が自らの音楽を演奏するメディウムのなかに、蓮沼自身にはコントロールしきれないような「歌」を取り込むということである。ここでいう「歌」は、いわゆる人間の声によって歌われるものだけを意味しない。それは、各々の人間が固有にもつメロディーでもあり、リズムでもある。それは声によっても奏でられうるし、楽器によっても奏でられうる。

そのような外部の「歌」を取り込んだ最も秀逸な曲が、『時が奏でる』に収録された「ZERO CONCERTO」である。5拍子のマリンバ、無拍子的な管楽器のロングトーン、3拍子のキーボード、6拍子のスチールパン。さまざまな音色の楽器で奏でられる不穏なまでに統一性から逃れるようなこの曲の序盤は、演奏者が少しでも油断すれば崩壊してしまいそうなほどだ。それはベースラインが入ったことを契機に次第に6拍子へと収斂を見せていく。しかし、その先でも単純な収斂を拒絶するような仕掛けはたえず現れる。それは、木下美紗都の声や環ROYのラップなど。

このように、蓮沼は自分が作曲をした、ある意味で蓮沼の手が隅々まで行き届いた枠組みを持つ音楽を、蓮沼執太フィルという彼の名が冠せられたメディウムを通して奏でつつも、そのうちに自分ではない他者、異なる「歌」を持つ演奏者を取り込み続けているのである。

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