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『三月の5日間』、あるいは「21世紀の『エロティシズム』」

二〇一七年十二月、チェルフィッチュの代表作である『三月の5日間』(以下、『三月』)が、リクリエーションというかたちで再演される。その意味を問うことから、始めなければならないだろう。

『三月』は、日本の現代演劇における一つのメルクマールとして語られる。2003年の渋谷にいた若者たちの話し言葉をそのままトレースしたような俳優たちのセリフは、平田オリザの「現代口語演劇」を更新したと評され、チェルフィッチュの演劇は「超現代口語演劇」と名指されるようにもなった。演劇という、そもそも何かの模倣(あるいは再現)という虚構性をもつメディウムでありながら、同時代の現実をかぎりなくリアルに映し出したことが、『三月』が評価された一因だった。

しかし、同時代と強く結びついたリアリズムというのは、諸刃の剣でもある。二〇一七年を生きる観客が、二〇〇三年の渋谷を舞台にした物語をまえにして、どれほどのリアリティを感じられるだろうか。そこには、イラク戦争という、いまだに語られるべきグローバルな問題も含まれているが、一組の男女がラブホテルでセックスをし続けるという筋書き自体は、きわめてローカルだ。そうであるならば、『三月』は、歴史的には十分に価値があるのかもしれないが、二〇〇三年から十年以上経てしまった現在、あるいはさらに未来において再演されたとしても、初演されたころのようなアクチュアリティは持ちえないのかもしれない。『三月』とリアリズムをむすびつけて語る以上、これはおそらく逃れ難い問題だ。そこには、再演することへの問いかけがつねにつきまとってしまう。

しかしこの疑念は、リアリズムが問題にされるゆえに強烈に発生するものだ。それなら、リアリズム以外の切り口で『三月』を語るのであればどうだろうか。実際『三月』には、セックスや戦争など、従来の演劇、あるいは文学などにおいても用いられてきた強いモチーフがいくつもある。そのモチーフが、単独で、あるいは相互に関係するなかで発生させている象徴的な意味を読み解くことで、初演当時の評価とは全くことなった『三月』の姿があらわれるかもしれない。

 

 

象徴という点から『三月』を考えるときに、もっとも重要な登場人物が、物語の終盤、路上で排便するホームレスの男性だ。それまでの話で主要な登場人物であったユッキーという女性が、その排便を目撃する。彼女は、そこで強い吐き気をもよおし、トイレを探して駆けだすが、結局はがまんしきれず路上で嘔吐してしまう。彼女が嘔吐したのは、他人の排便を見てしまったからではない。そのホームレスの男性を、一瞬でも犬と見間違えてしまったからだという。

このホームレスの登場と、そこからユッキーが嘔吐する一連の場面は、それまでのストーリーに対してあまりに唐突だ。ここからまた物語が展開をしてもおかしくなさそうな場面であるが、この場面は特に意味が与えられることなく、物語は終わる。このホームレス、あるいは彼があらわれたことによる

一連の出来事は、ただの空白なのだろうか。おそらくそうではない。なぜならこのホームレスが、「六本木のライブハウスで出会った男女が渋谷のラブホテルでセックスし続ける」という、きわめて簡潔に説明できてしまう『三月』のなかに組み込まれた複数の象徴的なモチーフが収斂する場として機能しているように思えてならないからだ。

そのことを明らかにするために、『三月』のなかのモチーフを確認していきたいと思う。

 

 

『三月』のなかで最も強いモチーフは、セックスだ。ミノベとユッキーという一組の男女が、渋谷のラブホテルでセックスを続ける。その一方、遠い異国では戦争が勃発し、多くの人が死んでいる。ミノベはホテルのなかで、自分たちが過ごしているこの時間をうんこみたいな時間だと言う。たしかに、傷ついた子どもたちのプラカードを掲げて反戦デモをする人もいるなかでセックスに耽る二人は不謹慎なことをしているのかもしれない。しかし、二人のこの不謹慎な行為(禁止の侵犯!)こそが、デモの行進よりもよほど戦地で亡くなる人々へ肉薄していると考えることはできないだろうか。

セックスと死。この二つをむすぶための補助線を与えてくれるのが、ジョルジュ・バタイユという人物だ。バタイユは、「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。」[i]という有名な書き出しで始まる著作、『エロティシズム』のなかで、生殖(セックス)と死は密接につながっていると主張する。このことを主張するためにバタイユがしきるに用いるのが、「存在の連続性」、「存在の不連続性」という言葉だ。「存在の不連続性」とは、ひらたく言えば、人間はみんな一人一人が個別の存在として生きているということだ。私は私であり、あなたはあなたである。バタイユは、セックスと不連続性の関係をまず述べる。セックスをする当事者は二人の異なった人間である。そして、その結果うまれる存在もまた、セックスをした二人とは異なった存在だ。この三者は決して同一ではなく、大きな溝が三人を分かつ。バタイユはこの溝を深淵と呼ぶ。しかし彼は一方で、セックスと連続性の関係も主張する。その際に例示されるのが、受精だ。受精においては、不連続な存在である精子と卵子が合体することで、新しい存在があらわれる。そこでは、二つの不連続な存在が死に、融合するという連続性が発生している。それゆえ、セックスは存在の連続性とも結びついているというのが、バタイユの議論だ。

この「存在の連続性」が蝶番になり、セックスと死はむすびつく。バタイユは死と連続性に関してこのように言う。

 

「(中略)…人類は太古の昔から、(中略)…自分たちを自由にする連続性に到達しようとしてきた。この問題は死を前提に提起された。というのも死こそ、見たところ、不連続な存在を存在の連続性へ放り込むからである。」[ii]

「(中略)…存在の連続性は個々の存在の根源にあるのであって、死は存在の連続性に到達しない。存在の連続性は死に依存していない。しかしそれでいて、死は存在の連続性を露に示すということだ。」[iii]

 

ここでもいまだ、「存在の連続性」がなにを示すかは漠然としているが、それでも議論を進めることはできる。死を通して「存在の連続性」に直接いたるわけではない。死を通しておきるのは、ほんらい個別な存在である私たち(不連続な存在)に対して、「存在の連続性」が垣間見えるということだ。そして、この連続性へと開かれた状態がエロティシズムにおいて重要だとバタイユは言う。

ミノベとユッキーの行動は現実から乖離しているように、表面的には感じられる。しかし、バタイユの議論にのっとれば、二人は少しも現実から乖離していない。現実に起きているイラク戦争、そしてそこで起きている死と、二人のセックスは、「存在の連続性」を共有している。

そのように考えれば、『三月』の背景には、エロティシズムと「存在の連続性」が隠れていると言える。そしてこれは、物語の内容に限った問題ではない。「存在の連続性」というテーマは、物語だけでなく、上演における手法を通しても現れている。それを可能にしているのが、「超現代口語」とあわせてチェルフィッチュの代名詞である、「移人称」だ。

『三月』では、物語における登場人物と俳優が一対一の関係で対応してない。いわゆる普通の演劇であれば、○○という役は誰が演じるということが固定されている。しかし、『三月』では、一人の俳優がミノベにもアズマにもなるし、ときにはナレーターにすらなる。これが、「移人称」と呼ばれる手法だ。移人称はこの個別な対の関係を解体する。移人称とは、役柄と俳優という対応関係の固有性(存在の不連続性)を消去する手法である。そこでは、役と結びついた俳優(不連続な存在)がたびたびそのむすびつきから離れる。それは固有性の死であり、そこには「存在の連続性」があらわれるのではないだろうか。

 

セックス、死、存在の連続性/不連続性、移人称。これらすべてが、最後にあらわれるホームレスの男性に集約されている。さらに彼が行う排便、そしてそれを見たユッキーの嘔吐もこれまで論じてきたテーマやモチーフとむすびついている。バタイユは『エロティシズム』のなかで以下のようにも言っている。

 

「死体に対して抱く恐怖感は、私たちが人間の下腹部の排泄物に対して抱く感情に近い。(中略)…性器の管は排泄物を出している。私たちはこの管を《恥部》と形容し、また肛門と関連づけている。」[iv]

 

つまり、ホームレスの男性の肛門から出てきているのは、糞便であると同時に、死体のメタファーでもある。そして糞/死体を排出するホームレスは、ユッキーの目に映るとき、犬であり人であった。彼は、劇中における移人称的主体だ。そこには、一人の人物に人間/犬(動物)/死体といういくつもの層が重なっている。それはもはや、存在の臨界であり、無に等しいものなのかもしれない。そんなものを目にしたゆえ、ユッキーは嘔吐したのだ。

 

「私たちの嘔吐感とは空無感なのだ。吐き気で気を失いそうになるとき、私たちは空無を感じているのである。」[v]

 

『三月』は、リアリズムという観点だけによって日本の現代演劇におけるメルクマールになったのではない。そこには、さまざまなモチーフによって「存在の連続性」という問題が隠れている。そして、その問題を言語だけではなく俳優の物理的な身体というレベルで実装した「移人称」という手法がある。『三月』という作品が持つ強度は重層的に支えられている。ここに、再演する意義がある。

[i] バタイユ、G.、『エロティシズム』(酒井健訳)、筑摩書房、p.16

[ii] 同書、p.35

[iii] 同書、p.36

[iv] 同書、p.92

[v] 同書、p.93

文字数:3995

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