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シャーマン的身体―〈いまここ〉ではない人格を憑依させる演劇的想像力

1、
シャーマンと呼ばれる人たちがいる。一種の霊能力者のような存在だ。日本においてはイタコなどがその一例である。シャルル・ステパノフとティエリー・ザルコンヌは共著『シャーマニズム』[i]のなかで、シャーマンをこのように説明している。

「シャーマン」という言葉は、もともとシベリアに住むエヴァンキ族の言語(エヴァンキ語)に由来し、ロシア語にとり入れられたあと,1699年にフランス語に導入された。彼または彼女たちは占い師であり、治療を行う医師であり、人間世界と精霊が住む目に見えない世界の仲介者である。北アジアと中央アジアのシャーマンは、キリスト教、仏教、イスラム教と混合しながら社会のなかで生きのび、多くの宣教師、旅行者、学者たちを不安がらせると同時に魅了してきた。[ii]

ここでは、シャーマンが「人間世界と精霊が住む目に見えない世界の仲介者である」という点に注目したいと思う。というのも、一見すると精霊や目に見えない世界というのはいまの私たちにとって縁遠いもののように感じられるかもしれないが、実際は、それと真逆の状況がうまれているからである。いま、わたしたちは霊にとりかこまれている。
ここでいう霊は、オバケなどのような幽霊ではなく、インターネット上をさまよう幽霊のことだ。スマートフォンの登場以降、わたしたちは電話を携帯するというよりは、小さなコンピューターを持ち歩くという状況のなかにいる。インターネット上に氾濫する情報たちは、それだけでも幽霊的なものだが、より幽霊的といえるのは、Twitterなどのソーシャルネットワークサービス(SNS)によってうみだされる個々人のアカウントだ。
SNSでアカウントを作るということは、インターネット空間にもうひとりの〈わたし〉という人格をうみだすことである。ネット上の〈わたし〉は、〈ここ〉に束縛されることなく大量の情報にアクセスすることができる。そして、この人格はたえずネットの情報にひたされ、そこからうける影響というのは現実のわたしにも作用してしまう。
ここで、もう一度シャーマンの特徴について確認したいと思う。シャーマンは人間世界と目に見えない世界の仲介者であると説明したが、実際に仲介が行われるのは、シャーマン特有の儀礼が行われる場面においてである。そしてその儀礼においては、シャーマン自身の身体が重要な要素となる。儀礼においては、シャーマンは自らの身体に精霊などをやどすことで、神や精霊の言葉を代弁する。この状況においては、当然ながら霊的な人格がシャーマンの肉体や人格に影響を与える。
現代のわたしたちがネット上にアカウントをつくることは、シャーマンが儀礼をおこなうことに近いのかもしれない。アカウントの作成によって、わたしたちは目に見えない情報の世界と現実のわたしの身体を仲介する人格を獲得することになる。それゆえ、スマホによってネット上のアカウントがつねに携帯されている現代のわたしたちの物理的な身体は、シャーマン的身体とでも呼びうるのかもしれない。
このシャーマン的身体は、シャーマンが霊から影響を受けるように、目に見えないネットという世界から具体的に影響を受けている。その一例が、ネトウヨと呼ばれる集団だ。
批評家の村上裕一は、著書『ネトウヨ化する日本 暴走する共感とネット時代の「新中間大衆(フロート)」』[iii]のなかで、ある情報を前にしたとき、人々は臨場感にもとづいてその重要性を判断し、発言や拡散をおこなうと指摘している[iv]。そして臨場感にもとづいた情報の拡散は、厳密なファクトチェックなどがおこなわれないまま、その情報を受け取った人々にさらに影響を与えていく。
このようにして、ネット上の人格が獲得した情報に影響をうけた人々が、現実世界での行動にもその影響を反映している。ネトウヨ的な言説が現実にヘイトデモを引き置きしていることなどがその現れだ。シャーマンは自らが所属する共同体を守るために異世界と交信するという側面を持つが、ネトウヨと呼ばれる人びともまた、自分たちの共同体を守るために、ネットという異世界と交信しているといえるかもしれない。
しかし当然ながら、ネトウヨ的な共同体はその外部に害を及ぼしている。この側面だけを見ていると、ネット環境とスマートフォンというデバイスで可能になったシャーマン的身体というのは悪しきもののように思えてしまうかもしれない。しかし、同じ環境とデバイスを用いながら、まったく逆の結果をもたらすこと、むしろ異国の人々への想像力をはたらかせるようなシャーマン的身体もありえるのではないだろうか。ここではその可能性を、ある演劇作品に求めたいと思う。

2、
Port Bという演劇ユニットがいる。演出家高山明が主宰するこのユニットの作品において多く見られるのが、ツアー・パフォーマンスと呼ばれる形式だ。この形式自体に厳密な定義はないが、おおむね、旅行(tour)をするような形で街の中で展開される演劇、という理解で問題ないだろう。2006年に作成された『一方通行路~サルタヒコノへの旅~』を皮切りに、多くのツアー・パフォーマンスを作成してきたPort Bだが、シャーマン的身体という観点からもっとも興味深いのが、『東京ヘテロトピア』[v]という作品だ。
「東京にいながら“アジア”を旅する、観光アプリケーション」という説明が添えられたこの作品は、現在ではスマートフォンのアプリという形で体験可能になっている。この作品では、東京の町中に実在する場所が、スポット(観光地)として設定されている。(写真1参照)

(写真1)

各スポットには、その場所にまつわる歴史の解説と、その歴史に関する情報をもとに執筆された小説の朗読がそれぞれ割り当てられている。アプリはスマートフォンのGPS機能を利用しており、指定されたスポットの近くまでいくと、それぞれの場所に設定された物語の朗読を聴くことができるようになる。(写真2,3,4)

(写真2)

(写真3)
(再生ボタンを押すと朗読が始まる)

(写真4)

ここでは、池袋の東京芸術劇の目の前、池袋西口公園にあるスポット「ショヒド・ミナール」を例に説明する。
ショヒド・ミナールは死者を追悼するための記念碑であり、実物はバングラデシュの首都ダッカにある。池袋にあるのはそのレプリカだ(写真5)[vi]。かつての東パキスタン(現バングラデシュ)においてすすめられたウルドゥー語の公用語化政策に対抗して、1952年におきたベンガル語を守る言語運動の際に、犠牲になった若い学生や子どもが追悼されている。

(写真5)

ここで聞くことができるのは、詩人菅啓次郎が執筆した「言葉の母が見ていた」という物語である。この物語では、擬人化された「ベンガル語」が、池袋のショヒド・ミナールの前に立つ「きみ」と呼ばれるバングラデシュ人に向けて語りかけるという形式をとる。バングラディシュから日本にやってきた「きみ」は、遠く離れた故郷と母語に思いを馳せる。語り手である「ベンガル語」は、姿を持たない“母”として「きみ」を見守っている、といった内容だ。
このように、東京のなかに残るアジアの痕跡と呼びうるような場所がスポットとして設定され、そこでありえたかもしれない物語が朗読される。他には、世界で初めて台湾語辞典をつくった王育徳という人物がねむるお墓や、若き日の周恩来が通っていた中華料理店などがスポットとして設定されている。

3、
わたしたちが持ち歩くスマートフォンのなかにいるSNSアカウントが幽霊であるならば、『東京ヘテロトピア』のなかにやどる幽霊とはどのようなものであろうか。それはスポットにおいて朗読される物語の登場人物たちだ。ここで重要なのが、朗読で語られるのが小説というフィクションだという点である。
スポットとして設定された場所は、それぞれ特異な歴史を持っている。それは、母語を守るために命がけで戦った人々の歴史などだ。それはそれで、強く訴えかける力を持っている。しかし、そのインパクトが強いゆえに、異国で暮らすわたしたちはそれをどこか遠い出来事として感じてしまうのではないだろうか。そのような史実(real)を、現実感(reality)を伴ったものに転化させるのが、『東京ヘテロトピア』における小説たち(fiction)だ。
『東京ヘテロトピア』の鑑賞体験において、観客は物語の登場人物を自らの身体にやどす。その観客の身体そのものは、〈いまここ〉にたえず拘束されている。目の前に広がる景色、そこにあるにおい、それらはすべて〈いまここ〉にある東京の風景やにおいだ。しかし、朗読によって流れ込んでくるのは、〈いまここ〉にはいない人物のイメージと物語だ。その引き裂かれのなかで、〈いまここ〉にある観客の身体において、目の前の東京という都市が重層化される体験が、その場かぎりの臨場感をもって立ち現れてくる。それはさながら、シャーマンが儀礼においておちいるトランス状態のようなものだ。
さらに、『東京ヘテロトピア』は虚構の登場人物という亡霊だけを呼び出すのではない。そこの土地にかつて存在した物語、あるいはその物語を現実に生きた人々という亡霊を呼びさます。それによって、2020年東京オリンピックに向けて変化していく東京とは異なる、アジアのなかの〈東京〉が生起してくる。
ネット環境が示すように、あるいは『東京ヘテロトピア』が示すように、ぼくらの身の回りには霊があふれている。そして、その霊のもつ声や物語を知るためには、彼らの〈いまここ〉ではない物語を〈いまここ〉にあるわちしたちの身体にやどらせることで、繋がりを作っていかなければならない。人間が情報にふれる際、どうしても臨場感という要素が作動してしまうのであれば、それを道徳的に咎めるよりも、むしろその回路を利用して、〈いまここ〉ではない他者へと想像力をはたらかせることの方が重要ではないだろうか。
そのような危うさと可能性をひめた、霊をやどす身体性、それがシャーマン的身体である。

[i] ステパノフ、C.、ザルコンヌ、T.、2014、『シャーマニズム』(中沢新一監修、遠藤ゆかり訳)、創元社
[ii] 上述書、P.15より引用
[iii] 村上裕一、2014、『ネトウヨ化する日本 暴走する共感とネット時代の「新中間大衆(フロート)」』、株式会社KADOKAWA
[iv] 上述書のなかで村上は、自分がじかに体験した「経験的な情報」と、人から聞いたりネットで得た「非経験的な情報」を厳密に定義し区別するのは難しいとしたうえで、以下のように述べている。
「東日本大震災のときに、放射能被害に対する様々な情報が飛び交ったことがありましたが、そこには検証なしの内容も多く見られました。こういった情報を流したり拡散したりした人たちはみな嘘つきなのでしょうか。そうではありません。彼らは自分が手に入れた情報の臨場感(ママ)にしたがってその重要性を判断し、述べたり拡散したりしたわけです。」(同書P.91)
[v] 『東京ヘテロトピア』の初演は2013年のフェスティバル/トーキョー(F/T13)において。その際には、紙媒体のガイドブックと専用のラジオが配られ、スポットに行って特定の周波数にラジオを合わせると朗読が聴けるというものだった。本論考では、その後iPhoneの無料アプリとして展開され、現在でも体験可能であるアプリ版の『東京ヘテロトピア』をベースに論を進めている。
[vi] なぜバングラデシュの記念碑が池袋にあるのか。それには、ジャパン・バングラディシュ・ソサイエティ(JBS)という団体が関係している。JBSは、毎年池袋西口公園でバングラディシュの正月祭り「ボイシャキメラ」を開催しており、そのことがきっかけで豊島区とバングラデシュの文化交流が始まった。そして2005年にバングラディシュ政府によってショヒド・ミナールのレプリカが寄贈された。

 

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