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言葉を待ちながら

 あなたは、自分が死んだことに気がついた。
 あなたは、近所で有名な小人を連れたカッパを探しに行こうとした。カッパたちを、スマートフォンのムービーに撮ろうとした。
 あなたは、得意の一輪車で出かけようとした。お母さんは、一輪車では危ないからやめるように行った。あなたは、やめなかった。

 あなたは、小人たちを見つけた。一緒に写真を撮った。1枚目はうまく撮れなくて、もう一度撮りなおした。
 あなたは、写真に写っていなかった。

 定まらない記憶のなかで、次第に思い出してきた。
 あなたは、曲がり角で車とぶつかった。あなたより小さなおばあちゃんの乗った黄色い車だった。おばあちゃんは身体を縮ませて、誤っていた。「ごめんなさい、ごめんなさい」。

 あなたは、自分が死んだことに気がついた。
 やり場のない怒りをぶちまけた。
 そして、カッパにまくしたてるように言われた。

「せっかく死んだんだから、僕らが聞いた事のないような、何かそんな、驚くような、それを聞いてしまったら、もうこの先、生きていけないような、生きる努力を完全に無効化してしまうような、これまで死んだ何百何千億の人たちが、その言葉を聞いて、突然、目の前で、しっかりとした誰か、になるような、何かそんな、言葉? 聞きたかったよね。」

*****

 もし自分が死んだとして、こんな状況に出くわして、いきなりこんな要求をされたら、とても困惑するのではないかと思う。これまで死んだたくさんの人たちをしっかりと感じるような言葉。そんな言葉があるものなのか。あるとして、その言葉にはどうすれば届くのだろうか。死んだとして、そんな言葉に届くことはできるのだろうか。『を待ちながら』を観てそんなことを考えた。

1、
 『を待ちながら』。
 主語も目的語もない、文に成りきらないフレーズ。これは演劇の名前だ。
 2017年9月17日、こまばアゴラ劇場という、駒場東大前駅からほど近い劇場でその公演は始まった。
戯曲を書いたのは、『しんせかい』という小説で第156回芥川賞を受賞した山下澄人。アゴラ劇場での公演にさきがけ、同年9月7日発売の『新潮』10月号に『を待ちながら』の戯曲は掲載された。
 登場人物は以下の6人。

片端男…脳の血管が破れたことで、左半身が動かない。むかし、手首を切って自殺しようとしたことがある。
こども…片端男のこども。アンネ・フランクの日記を読んでいる。
男(大)…自称小人。実際には劇中の誰よりも身体も声もでかい。けれど、本人いわくそれは錯覚。
男(白)…しゃべらない。しかし、マイクを持つと饒舌になる。爆竹入りの仮面をつけて登場する。
一輪車女…事故にあった血まみれの女の子。死んでいる。腸が出ている。ずっと一輪車に乗っている。
音楽家…男(白)よりもしゃべらない。演奏はする。最後に一人で朗読をする。

 説明になっていないような紹介かもしれない。この説明を読んでもそれぞれの人物のイメージなんかぜんぜん持てないかもしれない。『を待ちながら』自体も、「こういう作品ですよ。」と説明するのがとても難しい。だから、これから話すことはあくまで『を待ちながら』の一側面として聞いてほしい。
 『を待ちながら』は、ある面で、偶然としか名指せないようなものに偶然以外の言葉をあてがおうとしているのではないかと思う。偶然以外の言葉。それは例えば、対義語である必然のことなのか。そうじゃない。必然なんて、ずっと否定され続けている。
 ある場面で、男(大)は、片端男が半身不随になった理由を聞く。片端男は脳の血管が破れたからだと答える。そのうえで、男(大)はさらに、こんなふうに問いかける。

「だから何で?脳の血管なんか誰にでもあるのに何であんたの脳の血管だけが破れたわけ?いてて。またや。いつつ。左下腹が痛い。左ふくらはぎから帰国した。何で。何で誰かの左下腹ではなく俺の左下腹?誰が決めた訳?何で僕は小人?」

 それを聞いた一輪車女は言う。

「じゃあ何。私のこの一連の、この、腸まで出して受けている辱めも、誰が決めた訳でもない、全ては、偶然の、たまたまの、そこら中で起きてる、何十億分の一の、珍しくも何ともない、つまらない、何てことのない、木から葉っぱが落ちるぐらいの、その程度の……。」

 片端男の半身不随も、男(大)の下腹の痛みも、一輪車女の死も、その苦しさや痛みをそれぞれが持ったことは、ただの偶然なのかもしれない。そこに、意味なんてないのかもしれない。
 こんなふうにまとめると、『を待ちながら』というのは、とても悲痛な物語という印象を持たれるだろう。たしかに、悲痛であることは間違いない。でも、アゴラ劇場でこの作品が上演された時、(少なくとも筆者が観た2回分の公演においては)客席には多くの笑いが起きていた。
 戯曲をよむだけでは、そしてぼくが書いた説明だけでは、とてもこれが笑える演劇だとは思えないかもしれない。しかし、上演では実際に多くの笑いどころがあった。しかし、笑いがおきたからといって、片端男や一輪車女の置かれた状況は変わらない。偶然でしかない彼や彼女のあり方を名指すような言葉はないだろうか。

「せっかく死んだんだから、僕らが聞いた事のないような、何かそんな、驚くような、それを聞いてしまったら、もうこの先、生きていけないような、生きる努力を完全に無効化してしまうような、これまで死んだ何百何千億の人たちが、その言葉を聞いて、突然、目の前で、しっかりとした誰か、になるような、何かそんな、言葉? 聞きたかったよね。」

 上記の引用は、男(白)の発言だ。片端男や一輪車女のあり方を示す言葉は、男(白)が求めるこんな言葉なのではないか。
 この言葉はどんなものか。どうすればその言葉に届くのか。そのヒントをくれるのは、『を待ちながら』につきまとう笑いなのではないか。
 上演が行われれる舞台の上では、笑いも死も、いろんなものが等価なままにあらわれる。「うんこ」という単語に笑ってしまう幼さ、アンネ・「フランク」から「ソーセージ」を連想するしょうもなさ、腸を皿にのせてさしだすグロテスクさ、思いがけず死んだことのやるせなさ。貴賤の差なく、すべてがフラットに描かれる。そこには必然も意味もない。条理もない。
 笑いと死。この二つが等価に示される、あるいは描かれるなんて、想像しにくいかもしれない。しかし、かつてこんなことをいう人がいた。

「もちろんそれでも笑いが陽気なことに変わりはありません。しかし何はともあれうちにあるこの陽気さ、そして通常は逆説的なことに楽しくはない笑いの対象に結びついているこの陽気さ、それはわたしにとっては悲劇の感情と切り離すことができません。」

 これは、フランスの作家・思想家であるジョルジュ・バタイユの、「非‐知、笑い、涙」というテキストのなかにある一文である。このテキストでは笑いに関して論じられている部分があり、バタイユはそこで、笑いとは「非‐知」のものであると言う。そして彼は、死もまた「非‐知」的なものとして位置づけている。
 バタイユの中で、笑いと死は「非‐知」ということばでつながっている。そんな彼の思考を参照しながら、『を待ちながら』の男(白)が求めたような、これまで死んだ人々をそこに感じるような言葉を探すことはできないか、そんな問いから、始めようと思う。

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文字数:2997

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