印刷

プロローグ:「失敗」することを失敗し続けた時代

 ぼくはいまから日本のお笑いについて話そうと思う。といっても、このお笑いが好きであるとか、このお笑いがいまオススメといったことを話すわけではない。ぼくがお笑いについて話すのは、そうすることで、10年代の日本をとりまく想像力、その想像力の背景にある社会、さらにはその想像力をのりこえるような新しい想像力を語ることができると思うからだ。
 いきなりこんなことを言われても、何を言っているんだと思われるかもしれない。しかしぼくはいたって真剣だ。ぼくたちの社会には笑いについて語ることばが足りていない。それは社会にとっても、お笑いにとってもなかなか深刻なことだ。だから、ぼくはここで笑いについて語ってみたいと思う。

 

 一口にお笑いと言ってもそこには様々なジャンルがあるが、ここでは0年代から10年代にかけて、テレビではどんなお笑い番組が放送されていたかに注目したいと思う。というのも、0年代のお笑いはテレビに支えられていたと言えるからだ。
 0年代には、いわゆる「お笑い第5世代」と呼ばれるお笑いブームがあった。そしてこのブームは、テレビで放送されるお笑い番組、とくに「ネタ見せ」番組と呼ばれるものによって支えられていた。
 そのような「ネタ見せ」番組の一つが、日本テレビ系列で2003年からレギュラー放送の始まった「エンタの神様」だ。陣内智則やアンジャッシュなど、現在でも中堅として活躍する芸人が出演し、波田陽区や小島よしおなど、当時一世を風靡したいわゆる一発屋芸人も数多く出演した。
 「エンタの神様」が若手から中堅まで幅広い芸人を出演させていたのに対し、フジテレビ系列で2008年から放送された「爆笑レッドカーペット」は、多くの若手芸人の活躍の場として機能していた。
 しかしこの二つの番組はどちらも2010年にレギュラー放送を終了する。両番組はその後も不定期で単発の放送をしており、また、当然この二つ以外にもお笑い番組はいくらでもある。しかし、「お笑い第5世代」を支えたような、レギュラー放送の「ネタ見せ」番組はこれ以降ほとんど見当たらない。そしてこの両番組の終了は、芸人同士で競い合うプラットフォームの消失を意味していた。
 レギュラー放送時、「エンタの神様」は一時間という放送枠のどのタイミングで放送されるかで、出演する芸人の序列化が行われていた。番組がそのようなコンペティション方式を公言していたわけではない。しかし、安定的に人気がある、あるいはそのとき旬な芸人はCMの直後やトリで放送されるという構成がそこには確かにあった。「爆笑レッドカーペット」でも、“カムバックレッドカーペット”というシステムによって序列化はあった。これは、審査員がその日気に入った芸人のアンコールを求めることができるシステムだ。
 つまり、「ネタ見せ」番組というプラットフォームの中で芸人に対する評価が可視化されるシステムがあり、そのシステム内で切磋琢磨する環境がそこにはあった。
 しかしそのプラットフォームは失われた。そこへ追い打ちをかけたのが、0年代後半~10年代前半に現れたYouTuberやVinerと呼ばれる人々だ。お笑い芸人はテレビのなかで同業者と競うだけでなく、このような人々もいるなかで笑いを勝ち取っていかなくてはならなかった。
 その結果起きたのが、一発屋の常態化とも呼ぶべき状況だ。YouTuberやVinerにとっては一瞬のインパクトが勝負だ。そして、テレビに映る芸人の芸風もしだいに瞬間的なインパクトが求められるようになったのではないか。そのため、ピン芸人だけではなく、コントや漫才を行う芸人も、自ら、あるいはコンビ自体をインパクトによって強烈にキャラクター化させるようになった。そして彼らは、自分たちがある程度一発屋的な側面を持っていることも自覚している。
 批評家宇野常寛の言葉を借りれば、彼らは10年代をサヴァイヴするために自らのキャラを決断している。しかし一方で、0年代に現れては消えた数々の一発屋芸人を見てきた彼らは、それだけでは生き残ることはできないと分かっている。そう分かりながらも、そのキャラを決断している。それは、失敗を前提とした想像力と呼びうるのかもしれない。
 そしてこの失敗を前提とした想像力は、お笑いだけでなく、今の日本社会をもとりまいている。その発端はなによりも2011年3月11日の東日本大震災だ。想定外の自然災害の前では、人間はきわめて無力なことをぼくたちは知ってしまった。そして、2020年の東京オリンピックが、さらにこの想像力を加速させている。エンブレム問題をはじめとした、ガバナンスの不徹底による数々の課題が山積みの状況は、むしろ何を達成できれば2020年東京オリンピックが成功だったと言えるのかわからないような状態だ。このオリンピックが、成功とは呼べないまま終わることを感じている人は少なくないはずだ。この2011年と2020年にはさまれた中で、失敗を前提としたサヴァイヴという10年代の想像力は支えられている。
 ところで、ここで多くの人が疑問を持つかもしれない。なんでお笑いの話をしていて急に震災やオリンピックの話になるんだ、そんなことができるなら何を取り上げても震災やオリンピックが語れてしまうのではないか、と。
この疑問は至極全うだと思う。そして、その疑問自体がまさに真実だと思う。
 ぼくたちはあらゆることがつながる時代を生きている。文学を語る人は文学しか読まないとか、お笑いについて語る人はお笑いについてしか知らないという状況を生きているのではない。だから、ある特定の文化的状況をとりあげ、それを震災やオリンピックに接続してもっともらしく語ること自体はとても簡単だ。だからこそ、それを語るだけではあまり意味がない。失敗を前提とした想像力が10年代の想像力だとしたら、2017年の今、きたる20年代の想像力について考える必要があると思う。
 そしてぼくがお笑いの話をしてきたのは、お笑いこそが、閉塞した10年代の想像力を乗り越え、20年代の想像力を準備しうるカルチャーだと思うからだ。

 

 それでは、お笑いはどのように20年代の想像力を準備しうるのか。そのことを考えるために、まず笑いそのものについて少し考えたいと思う。
 笑いが何によって引き起こされるかを一義的に説明することは難しい。しかし、お笑い芸人のうみだす笑いを見るとき、そこではある種のズレのようなものが笑いを引き起こしていると言えるだろう。例えば、いわゆるボケ、誇張された言動や、漫才における言い間違え、コントに登場する変わった人物などがそれにあたる。このズレはある種の「失敗」と呼んでも良いかもしれない。もし、そのような芸人のズレが基準としている振る舞いの理想系があるのだとすれば、芸人がボケを行うとき、かれらはその理想になることを常に「失敗」続けていると言えるかもしれない(注意してほしいのは、ここでいう「失敗」にはそれが悪いことだといった価値判断は伴っていない。)。しかし、「失敗」あるいはボケのなかにもさまざまなレイヤーがある。なかには、そのボケ自体やそのまわりにある文脈を説明しないと、そのボケが理解されない場合もある。それを補完するのがツッコミだ。ツッコミというボケにとっての外部によって、ボケは「失敗」として完成するとも言える。
 この「失敗」という観点から考えたとき、10年代の一発屋常態化の状況が問題なのは、「失敗」が完成されないまま放置され続けることにある。例えば、大声や大げさな身振りをウリにしているピン芸人などを想像してみよう。彼は大げさな身振りと声を張り上げることで笑いをとっている。その振る舞いは、ふつうに生活している人々の姿とはかけ離れたものであり、そのズレが笑いをうむ一つの要因かと思う。しかし、彼のそのボケにツッコミを入れる人はいない。正確には、そのツッコミはつねにその芸人を見る観客にだけ委ねられている。しかし、観客にはツッコミを入れる義務などない。だから、彼のボケは「失敗」になりきることなく放置され続ける。
 このような完成されなかった「失敗」の量産が、10年代におけるお笑いの抱えている問題だ。そして、これと似た構造がぼくたちの社会にも見出せる。
 0年代、あるいは90年代も含めた、いわゆる「失われた20年」という時代は、ある意味で失敗を失敗として認められなかった時代と言えるのかもしれない。その社会には、理想的な姿と比べていくつかのズレがきっとあった。そして最初のうちは、そのズレは修復可能なものだったのかもしれない。しかし、失敗を失敗と認めて修正すること、「失敗」を完成させることに失敗し続けた結果あるのが、この10年代なのかもしれない。そうであれば、ぼくたちはこれから、ひとつひとつの失敗を「失敗」として名指し、そこへのツッコミをいれていかなければならない。ツッコミを入れることで、積み上げてき失敗を「失敗」として完成させ、過去の歴史にしなければならない。それは心穏やかな作業ではないだろう。しかしだからこそ、この作業の横には、「失敗」を笑い飛ばせるような、笑いの力が必要ではないだろうか。

 

 ここまで書いたのが、ぼくの0年代から10年代、さらには20年代を射程にした概観だ。つづく本章では、各時代のお笑いと社会を、具体例もだしつつもう少し詳しく説明する。
 ちなみに、ぼくがこれから必要だとしている、「失敗」を完成させ歴史化するような力というのは、机上の空論なのではないかと思う人もいるだろう。しかしその心配は無用だ。ぼくは、あるお笑いコンビの漫才が、20年代の想像力に向けられた笑いの力を体現していたと考えている。そして、そのコンビの笑い、あるいは想像力は、じつは0年代の後半にすでに用意されていた。
 このコンビは誰なのか、そしてなぜ彼らが20年代の想像力とつながるのか、そのことも追々あきらかになるだろう。

 

 以上がプロローグだ。それでは本論に進もう。

文字数:4090

課題提出者一覧