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ドン.キホーテ論、あるいは現代日本装飾論序説

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ドンペンくん。
この名前に聞き覚えはあるだろうか。いや、名前だけだと分からないかもしれない。でもその姿を見ればきっとだれもが一度は見たことがあるはずだ。
それはディスカウントストア「ドン.キホーテ」(以後、ドンキと表記)のメインキャラクターである。多くの場合それはドンキの店外に装飾として張りぼての人形が張り付けられている。例えばこんな風に。
 これはとあるドンキのファサード(正面外観)だ。「ドン.キホーテ」と書かれた派手な看板の下にそれはいる。腹に大きく「ド」という文字を抱え、大きくつぶらな瞳で店外を見つめるペンギン。これこそがドンペンくんそのものである。普段は何気なく通り過ぎてしまうこの店外装飾を改めて見直してみたとき、ここからはいくつもの疑問が沸いて出てくる。まずはその露悪趣味とも形容出来得るこれら店外装飾の派手さ、そしてその過剰さである。さらにもっと問いを深めるならば、なぜかくもディスカウントストアという「機能」に現実面においては不必要なドンペンくんが大きく取り上げられているのか。もしくはなぜそれはペンギンなのか……等々、列挙すればキリが無いが、目下のところ本稿ではただ一点の疑問のみを追求していこうと思う。つまり、なぜこのような派手で不合理ともいえる店外装飾をドンキは採用するのか?という単純な疑問である。
本稿ではこの疑問をとば口にして様々な論点を提出し、ときにそれらは非常な迂回路のように感じられるかもしれないが、それらは全てこの至極単純な疑問の追求という目的から自然と導き出される迂回路である。


いくつかのドンキホーテの外装を見てみよう。

このようにいくつかのドンキの外装を見ていくと、そこにはある規則的なパターンを見出すことが出来る。つまり、ドンペンくんの人形やドン.キホーテという看板は、無機質なビルやマンションに取り付けられているだけであり、それらを取り除いてしまえばそこに残るのは至って普通の建築物だということだ。
取り付けられた装飾。これを考えるのに良い先行研究がある。
ロバート・ヴェンチューリの『ラスヴェガス』だ。ここで彼はラスヴェガスに見られる建築タイプを取り上げて、次のような建築物における二項対立を提出する。それが「あひる小屋」と「装飾された小屋」である。この説明は簡単に行うことが難しいのだが、それにはヴェンチューリが乗り越えようとした近代建築の顛末を知る必要がある。
簡単に言えば、近代建築とは――コルヴィジェに代表されるように――その建物の機能と形態を極限まで一致させるという試みであった。そのために近代建築は徹底して装飾を拒否する。ここでヴェンチューリが主張したいのは、しかし半端な近代建築家たちは装飾を完全には捨てきれず、その残り滓が「あひる小屋」のような形になって結晶してしまった、というのである。「あひる小屋」とは実際にラスヴェガスに存在した以下のような建築物である。
     あひる小屋
ここで起こっている事態は、装飾を拒否したはずの近代建築が、それを拒みきれずに建築自体が装飾になってしまっていて、明らかにその機能を食いつぶしている、という事態である。ヴェンチューリはそう語る。
そこでヴェンチューリが近代建築に変わる新しい建築として提出するのが、二項のもう一方である「装飾された小屋」なのである。これはまさにドンキの建築タイプそのものであって、それ自体はなんの変哲もない建築物に装飾が付加されるような建築を示す。ドンキもまさにそうであって、ドンペンくんを取り除けばそれはどこにでもあるような雑居ビルであったり、マンションに他ならないのである。
しかしなぜヴェンチューリはこのような装飾が付加された建築を称揚したのであろうか。それはあひる小屋やその思想的背景になった近代建築が、建築物一つで屹立しており、周りの街並みや環境のことを考慮せずにそこに存在しているという孤立した状態を作り出すと考えたからである。そして「装飾された小屋」こそ孤立する建築を救い出すのだとヴェンチューリは信じていた。例えば、ラスヴェガスでは付加される装飾は大きなネオンの看板などであるが、これは自動車中心のアメリカ社会において必要とされる、つまり車からでもよく見えるための装飾なのであって、それはラスヴェガスという土地性がその装飾に反映されている。これこそヴェンチューリが『ラスヴェガス』で主張しようとしたことであり、これからの建築は周りの環境をそこに取り込んで建てられるべきだ、と言うのである。
とはいえ、ドンキがこうした土地性を反映するものとしての「装飾された小屋」であるという議論に疑念を持つ人も当然いるだろう。それは当然である。なにせ、ドンキは「ファスト風土化」する日本=郊外の代表的悪者であって、都市の景観を均一化させる大きな要因であると多くの論者が語ってきたからである。しかし、その言説は本当にそうなのか?早急に答えを言ってしまうならば、それは否であろう。例えば、次のようなドンキを見ればよい。
 

上は白金高輪にある「プラチナドン.キホーテ」、そして下は浅草にあるドンキである。ここにおいてその外装が明らかに変化していることに注目しよう。白金高輪のプラチナドン・キホーテは高級住宅街の真ん中に位置しているために通常のドンキで見られるようなけばけばしい装飾は身を潜め、銀と白を基調とする(白金?)外観に統一されており、ドンペンくんもまた銀に塗りつぶされている。一方で浅草のドンキは江戸以来続く盛り場であり、演芸の中心地でもあった浅草六区の真ん中に位置しているために、やはりその外装もレトロ調な作りになっており、「ドン.キホーテ」という看板もローマ字で表され、エンターテイメント性を高めようとしている。
実際にこうした土地に強固なスーパーマーケットチェーンであるドンキが出店することに対して近隣住民は反対が大きかったようだ。そのような反対意見を聞き入れつつ、しかしあのドンペンくんの外装にはこだわるといったドンキの意向がこのような外観の店舗を作り上げる。この光景はまさにヴェンチューリがラスヴェガスで見た光景そのものであり、ドンキの外観がその土地性を反映するということの一つの表れであると言えるだろう。
ドンキの外装がヴェンチューリが『ラスヴェガス』で語るような地域固有の外観を持ちうるということが分かった。しかしそれはあの余剰ともいえるペンギンのオブジェがなぜドンキにあるのかを説明するには十分ではない。ドンペンくんのオブジェなど無くてもドンキはドンキとしての経営を続けることが出来得るからだ。
ここで一つの比較対象として今度は東浩紀と大山顕が語る『ショッピングモールから考える』を引いてみたい。ショッピングモールをドンキの比較対象として見てみるのは、その外観が180度異なるからである。この本の中でも言われている通り、ショッピングモールにおいてその外観はこのように無機質で全く飾りの無いものになっている。ドンペンくんのオブジェを張り付けるドンキとは大違いである。

                代表的なショッピングモールの外観

「ショッピングモールには内部しかない」というテーゼはこの外観に全く注意を向けずに内部の豊かさの身を重視して作られるモールの特徴を如実に表している言葉だが、ここに内部/外部という問題系が浮上してくることになる。そしてこの内部/外部という問題系は、建築の歴史においても常に俎上に上がってきた問題であって、建築史上のアポリアである。非常に簡単に言えば、建築という技術そのものが空間に壁を作り、そこを内側の空間と外側の空間に分けてしまうものであり、いくら内側と外側の調和(これこそ、ヴェンチューリが声高に述べたかったことではないか)を謳ったところでそこでは空間は内と外に分断されてしまっている。
ショッピングモールが内側だけしか持たないのだとしたら、ではドンキの内と外はどうなっているのだろうか。外については既に触れた。その外観はヴェンチューリが見たラスヴェガスのように地域固有の姿に容易に変わり得るものであった。そういえば、かくいうヴェンチューリもその内部空間については『ラスヴェガス』の中でほとんど触れていないということは気にかかることである。「装飾された小屋」はその外部だけが地域固有の姿を持ち、内部については深く問われていない。さらにヴェンチューリが対抗しようとした近代建築の有名なテーゼ「装飾は犯罪だ」という名言を書き残したアドルフ・ロースさえ、その建造物の外観こそ装飾を徹底して排したのであるが、内部空間などは複雑な構造を持つものも多く、必ずしも余計な部分が全て廃されているわけではないのである。
伝統的な建築史はあまりにも外観を語りすぎてきたようであるが、東たちが語るショッピングモールはあまりにも内部に閉じられすぎている。ではドンキはこの内部と外部というアポリアにどのように立ち向かっているのだろうか。私たちはドンキの外装の余剰について考えている。しかし外部を考えるために――建築を考えている以上は――その内部空間についても話さねばならないだろう。
そして少しだけこの先の展開を話すならば、ドンキにおいてはその内部空間もまた土地性を色濃く反映するのであって、内部空間においても外部空間においても地域固有の姿が生み出されていて、その分断された両者は極めて独特な仕方で結合されている。つまり、建築史上のアポリアをもドンキは難なくするりと超え出ていく可能性を保持しているのである。そしてその時に問われるべきは、それがどのようにして可能であるか?という疑問である。しかしこの結論に至るまでにはもっと落ち着いてドンキの内部空間について考えていかねばなるまい。


ドンキの内部を考えるためにそのフロアマップを見てみよう。

このように店舗の通路は複雑に入り乱れ、目的の品があったとしても容易にはそこに辿り着けない構造になっている。このことは他のディスカウントストアのフロアマップと比較してみれば更に明快になるだろう。

  
 私たちがスーパー、と言って思い出すのはこちらの方だろうだ。マンハッタンの街区におけるグリッドをも想起させるこの構造は、目的の品までどのように行けばいいのかが一目で分かり、極めて合理的な店舗構造であるといえるのだが、そう考えたときにドンキのあのいびつで不規則なフロアマップがますます不合理なものに思えてくる。なぜドンキはあのような不合理ともいえる店舗構造を作り出すのだろうか?
そのヒントがドンキの店内で執拗に流されているテーマソング「ミラクル・ショッピング」の歌詞に潜んでいる。それはこんな歌詞だ。

 思い立ったらいつだって  ドン.キホーテで待ち合わせ
 ドッカンとあふれる夢を買いましょ 気分は宝探しだね
 ドンドンドンドンッキードンキ―ホーテー ボリューム満点激安ジャングル
 (ジャングルだあ~)
 ドンドンドン ドンッキー ドンキーホーテ― 何でも揃って便利なお店
 ドン.キホーテー
 早いもの勝ちパラダイス ドンキめぐりは癖になる
 衝動的でも得したね 今夜は何があるのかな?
 ドンドンドンドンッキードンキ―ホーテー いつでも満足不思議なジャングル
 (ジャングルだあ~)
 ドンドンドン ドンッキー ドンキーホーテ― 真夜中過ぎても楽しいお店
 ドン.キホーテー

このような歌が店内では流し続けられている。耳にしたことがある人も多いかもしれない。ひたすらに繰り返されるドンキの店名コールに気を取られてしまいがちであるが、その裏で実は意味深長な歌詞が歌われている。さしあたってここで考えたいのは、「ジャングル」や「宝探し」といった普通のスーパーでは考えられないような語群であるが、こうした単語がその店舗構造の複雑さに直結している。このように曲がりくねった通路を持つ店舗構造をドンキは「回遊型」の店舗構造と呼ぶのだが、その結果として生まれた店内はまさに植物が複雑に入り組んだ「ジャングル」であり、その中で目的の品物を見つけるという体験は限りなく「宝探し」のそれに近い。
この「ジャングル」や「宝探し」という感覚はその店舗内に一歩立ち入ればより明らかになるであろう。

この写真からも明らかなようにドンキの店内は1つの棚に多数の商品が詰め込まれる「圧縮陳列」という方法が商品配列において採用されており、そのために各棚からは商品が飛び出していたり、はたまた通路となるような場所に段ボールが置かれていたりしてドンキの「ジャングル」性、「宝探し」性を誘発している。そのことはまた他のスーパーに置ける整然と並べられた商品配列と比べれば一目瞭然であろう。
またこのテーマソングにはそうした複雑さの理由の一つも、堂々と歌われている。それがこの部分だ。
衝動的でも得したね 今夜は何があるのかな?

ここで歌われているのは「衝動買い」、つまり予期せぬ品物の購入が歌われている。つまり「宝探し」の途上において全く別の「宝」を見つける場合もあるのだ。コストコ型のように1つの品物まで直線で進むことの出来る合理的なスーパーとは違い、ジャングルのような店内を周遊させる構造が目的以外の品物も目に触れさせる機会を作り出し、結果として客は予期しなかった商品を買うこともある。そしてそうした「衝動買い」を更に効率よく行わせるためにはなるべく多種多様な商品を1つの店舗内に敷き詰めることが必要であって、そこからあの「圧縮陳列」という手法が考案されて、ドンキのジャングル性を増長させている。
一見ドンキの店舗構造は不合理極まりなく感じられるが、その裏には「衝動買い」による売り上げ増収と言うきわめて資本主義的目的が潜んでいる。極めて合理的な目的意識が、不合理なる店舗構造を作り上げているのである。

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