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批評はなぜ、批評と書くのか。

0、
批評という言葉の定義を考えるとき、ひとまずその言葉の本質が何であったかを考えてみる。現在使われている様々な意味も、その始原的な本質から派生しただろうからだ。そう考えた時、日本の偉大な漢字学者である白川静の言葉を思い出す。
漢字は世界の箱舟である――。白川はそう考えて、漢字というものがただの機械的な記号体系ではなく、それを造形した古代人の見た風景や原始的な祈りがそのままその形に作用されるということを、丹念な資料調査から発見し、漢字造形に関する巨大な体系を1人で作り上げた。
しかし重要なのは、そのような研究の末に彼が発見した漢字という文字の本質である。それは、漢字がその表す事象の最も始原的な本質をその造形の内に含んでいるということだ。現在では様々に違う意味へ転用される道具としての漢字は、そもそもの字形それ自体にその本質が宿っている。彼はそう考えたのだ。
だとすれば、批評という言葉の本質を考えるとき、その「批」と「評」という漢字が持つ意味を探っていくことは、僕たちをその問題の核心に近づけてくれるのではないか。
もちろんこの言葉は明治維新後、新たに作られた言葉であるから、それを命名した人間にはそのような古代的な意図はなかっただろう。しかしなぜ、この二文字の漢字はこの行為にあてがわれたのか?そこには批評という言葉が持つ漢字の記憶とでもいうべき無意識があるのではないか?

1、
では、白川によれば「批評」という2文字の漢字は、一体どのような記憶をその中に抱え込んでいるか?

批…平手うちをいう。強くうつことをいう。
評…公平に協議することをいう。            (『字通』)

その言葉は、既にその内に矛盾を含んでいる。つまり平手打ちという身体的、感情的行為と公平な協議という言語的、理知的行為がその言葉には重なり合って存在している。試しに「批評」という言葉と同じような意味で使われる現代日本語を調べてみるとこうなる。

評…公平に協議することをいう。
論…討論することをいう。

批…平手うちをいう。強くうつことをいう。
判…牛を両分する意。刀でものを両分する意。      (『字通』)

評論はどちらも言語的、理知的行為を示す一方で、批判はどちらとも身体的、感情的行為を指し示す。「批評」という言葉の奇妙さはより一層引き立つだろう。言語的行為と身体的行為が重なり合うその言葉は、例えば「大小」や「長短」といった対義語が並べられる単語と同じようなものだ。
こうしたタイプの単語は、東洋独特の感触を持っている。例えば、「布の長短を調べる」という文章を英語に直してみよう。そのとき英語では、「布の長さを調べる」とか「布が長いのか短いのか調べる」という表現でしかその意味を表すことは出来ないだろう。だから対義語的な熟語は東洋独特の語句であって、ある曖昧さをその中に含んでいる。そこで長と短は、大と小は、批と評は、重なり合って存在しているのだ。
なぜ批評の二文字にはこのような重なり合いが生じているのか。そこにこの言葉の本質があるのではないか。

2、
「2個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」という西洋的思想と真っ向から対立するこの重なり合う状態を、山内徳立だったら「レンマ的世界」と呼ぶだろう(『ロゴスとレンマ』)。
レンマ的世界とは何か。それは、レンマの対義語であるロゴスの論理が働かない、カオスのような世界のことだ。その輪郭は、ロゴスの3原則を列記することで少しだけ明瞭になる。それが①同一律②無矛盾律③排中律だ。①私は私であって、②私はあなたではなくて、③私とあなたは重なり合うことが無い。これがその3つの原則だが、レンマ的世界ではこうした秩序はことごとく崩壊し、私は私でないかもしれないし、私はあなたであるかもしれないし、私とあなたは重なり合って存在しているかもしれない。
西洋科学では説明のつかないロゴスの外側にあるものがレンマ界であって、西洋世界ではレンマがロゴスによって隠されてきた。身体は人間が分からないような神秘をその内に抱え込んでいるが、それはやはりレンマ的秩序に属しているのだ。
その点においてやはり批評という文字は直接的にこの対立を表していて、つまり身体的行為を表す「批」と言語的行為を表す「評」はこのロゴスとレンマの対立でもあるのだ。ロゴス界では本来つながるはずのないものがレンマ界では容易に接続される。
論理的に語られるものとしての科学や言語に代表されるロゴスは西洋世界を貫く基本原理だが、一方で直感的につかみ取られるもの、という定義を持つレンマは東洋世界を貫く基本原理であると山内は語る。しかしここで注意しなければならない。いくら東洋世界がレンマ的世界観に貫かれていても、そこでは最終的に事物の同一性は見かけ上保たれているし、2個の者が重なり合うことを見ることは出来ない。批評という言葉がいくら矛盾をその内に含んでいるように見えても、それは最終的に批評という1つの言葉、ロゴスに収束するのだ。世界にあって可視的なものは、物理的な位置を1つに決定されていることで全てロゴスの論理が覆いかぶさっている。一方でレンマとはその外側で隠されたように存在している。
つまり、批評という二文字の中では隠されたレンマ的な世界観が、ロゴスによって表象されようとしているのである。もしも批評という漢字が、白川静の言うようにその行為の本質を指し示しているのだとすれば、批評とは「隠されたレンマ的世界をロゴスによって構築しようとする行為」に他ならないだろう。批評の中ではロゴスの論理では考えられないようなものが接続される場合がある。そこに立ち現れるのがレンマ的な世界だ。
しかしながら、この定義は不十分である。例えば、「物語」はどうか。物語もまた語りというロゴス的な行為によって、レンマ的な空想世界を構築しようとする。しかし「物語」と「批評」が異なることを僕たちは感覚的に知っているので、ロゴスとレンマの関係についての更に深い洞察が必要になってくるのである。

3、
ここでレンマという得体の知れない世界を明瞭にするために、量子力学のある実験を取り上げようと思う。量子力学は物理化学の一領域であって見かけ上はロゴス的世界の産物であるが、その先端の領域でロゴスはレンマと戯れる。どういうことか。
ここで「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験を取り上げよう。実験は簡単で、箱の中に50パーセントの確率でα波が崩壊して放射線を放つラジウム放出装置と、それに反応して青酸カリを放出する装置がある。その箱に猫を入れるとどうなるか。答えは明瞭だ。猫は50パーセントの確率で生存し、50パーセントの確率で死ぬ。
しかしこの実験の奇妙さは、その結果にあるのではなくその過程にこそある。つまり僕たちが箱を開けていないとき、猫の生死は重なり合って存在する。猫は生きているし、死んでいる。もしくは生きていないし、死んでいない。どういうことか。
量子力学の思考を詳細に語ることはしないが、極めて単純に言えば、原子よりも微細な粒子の状態は、人間がそれを観測しないと決定することが出来ないのだ。つまり、人間が箱の中身を観測していないとき、ブラックボックスとしてその箱があるときにはラジウムから出る微細なα波の状態は不確定で、その状態によって決定される猫の生死もまた不確定だ。猫の生死はこのとき重なり合った状態にある。この量子的な粒子の状態(これを「重なりあった状態」という)は、ロゴス的世界の排中律を破りレンマ的世界を形成する。観測されない箱の中身はレンマ的世界として存在する。
そして大胆に言えば、批評とはこのシュレディンガーの猫の箱を開けることに他ならない。先に僕は、批評が隠されたレンマ的世界をロゴスによって構築する作業であるとの仮説
を提出した。しかしこの思考実験で明らかにされるのは、ロゴス的世界はレンマ的世界を
構築するのではなく開示するということだ。
観測されない状態の箱の中はレンマ的世界が広がっていて、生と死の可能性が折り重なる潜在的な場だ。それに対して観測された後の箱の中身は、ロゴス的に決定された顕在的な場所。つまり生か死は決定されていて、「重なりあった状態」ではない。本来、猫の状態は生と死の両方の可能性があり得る潜在性を秘めていたはずである。しかし僕たちがその箱を開けた瞬間、潜在的なものは顕在化する。確かに批評という行為は、作品や事象の中に眠る潜在的なものをロゴスの操作によって顕在化させるだろう。箱を開けたとき、猫の状態は決定される。これが物語と批評の違いだ。物語は猫の状態を決定しない。むしろ猫を箱に入れるのが物語だ。
だとすれば、物語はレンマ的世界をロゴスによってそこに出現させるのに対して、批評はレンマ的世界をロゴスによって開示する。「レンマ的世界をロゴスによって構築すること」ではなく、「レンマ的世界をロゴスによって開示すること」と批評の定義を書き替えることが出来る。

4、
シュレディンガーの猫という実験はあらゆる点でレンマ的世界が持つ不可思議さを示しているがゆえに、多くの人間からその実験に対する反応や批判が持ち上がった。そもそもこの実験自体、量子力学的な「重ね合った状態」など存在しないということを主張するためにシュレディンガーが考え出した実験なのだ。しかしそうした多くの反応の中で、もっとも本質的でこの実験の意味そのものにかかわるものがウィグナーの主張だ。彼は「ウィグナーの友人」という命題を提出したが、これは観測者に関わる問題であって、つまり今の文脈で言えば、批評する僕たちに関わる問題なのである。彼はこう言う。

「私はシュレディンガーの猫の生死を確認するように私の友人に伝え、彼を部屋の中で待機させた。私が彼に猫の生死を尋ねるため、部屋の中をのぞいた時に、実験の結果を踏襲するならば、不確定だった彼の状態は決まる。彼も猫のように人目に触れない部屋にいたからだ。しかし猫の状態はどうか?猫の生死は私の友人が箱を開けた時に決定されたのか、もしくは私が部屋を開けた時に決定されたのか……」

これは観測者についてのかなり重要な情報を提示している。つまり僕たち観測者もまた箱の中にいる哀れな猫なのではないか?猫の状態が観察することによってしか決定されないのならば、それを確認した人を確認する人がいなければ、最初の観察者が確認する猫の生死もまた確定されないはずで、更に最初の観察者をさらに観察する人間がいたとしても、そのループは、この観察する人を観察する人を観察する……というように無限に続く。すると全ての事象はいまだ不確定のまま、つまりレンマ的世界のままとどまっていることになるのだが、現実ではそんなことはない。私たちの状態が今、このようにして決定されているとき、それを決定しているものは誰か?重要なのはこれが何であるかを決定することではない。そもそもこの実験が一種の思考実験なのだ。重要なのは批評行為も、またこのように無限に続けられる営みであるということだ。
批評とは、永遠に続く開示運動の反復である。例えば、東浩紀が「批評とは他人の意見に対して反応していくことだ」ということを言うとき、そこでは「ウィグナーの友人」のようにある批評に対して更にある批評が行われ、更にその批評が行われる……というような批評の運動が無限に繰り返される。レンマ界を開示した批評はまた猫になり、暗箱の中でその姿が不確定のまま、箱が開示されるのを待っている。つまり批評はレンマ的世界を作ってもしまう。
その点で言えば、実はさきほど僕たちが批評と峻別した物語と、事態はそう変わらない。
しかし批評はレンマ的世界を作るだけでなく、何度も繰り返すように、同時にレンマ的世界を開示する。そこで対象は観察者の視線によってある状態に決定されたように見えて、その観察者の状態もまたその外側にいる観察者によって決定されて……というような無限の運動に巻き込まれる。
「レンマ的世界をロゴスによって開示する」は「レンマ的世界をロゴスによって開示し続けること」であると、またしても批評の定義を書き換えることが出来そうだ。

5、
ひとまずの結論として批評という言葉を「レンマ的世界をロゴスによって開示し続けること」であると定義づけてみたが、しかしシュレディンガーの猫のモデルを使用したのは、この定義の後に付け加えるべき、もっとも重要な観点をこの実験が提供してくれるからである。
この実験において、より重要なのは猫の生死が粒子の性質上、確率論的にしか決まらないということなのだ。つまりこの状態はレンマ的な確率の中で決定されるのだ。この思考実験ではその確率は50パーセントずつに振り分けられており、猫の生死は二元論的に決定されるが、しかし実際の粒子の崩壊はそうではなく、もっと多様なグラデーションを描く。箱を開けた時に決定される状態とてその確率の中からたまたま選び出された1つの選択肢に他ならないのだ。だから原理的に言えば、何度も箱を開け直すことで、全て違う様相で猫は顕在化する。つまり、作品や事象はレンマ的世界の中から確率論的に選び出された一つの様相を僕たちの前に顕在化させる。
全ての批評は確率論的に決定された偶然でしかない。
ただ僕たちが出来ることは、ロゴスによってその箱を開けて、レンマ界によって決められる確率論的な猫の状態を受け入れることしかない。するとここにロゴスとレンマが混じり合うという事態が発生する。つまり批評者は対象に対して能動的なロゴス的行為を行うにもかかわらず、その結果はレンマ的な秩序(という名の無秩序)に身をゆだねるという事態だ。
こうして批評が持つ究極的な意味が立ち上がるのである。つまり、批評とは「レンマ的世界を能動的に開示して、レンマ的確率によって決定される状態を受け入れ続ける、ロゴスとレンマの相互貫入行為」なのである。ここにきて、ロゴスとレンマという二項対立は意味を成さなくなり、批評行為はこの二項対立を根本的に転倒させて、ロゴスとレンマの間に、受動と能動の間に批評者を置くのである。
批評という言葉。そこでは身体的行為を表す「批」と、言語的行為を表す「評」が並べられている。確かにそれは1つのロゴスの秩序に属する単語である。しかしレンマ的なるものをロゴス的なるもので開示することは、その結果としてレンマの確率論的な決定に従うということでもあるのだ。
なぜ批評という単語は「批論」ではないのか。なぜ「判論」ではないのか。結局その漢字もまた確率論的に選ばれたに過ぎない。そしてその批評という言葉に僕は批評という言葉のある本質が埋まっていることを見て取るのである。

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