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胎胚する観客たちへ~あるいはハリソン・フォードの第3の道について

0、
映画、もしくは映像作品における「観客」とは何なのか。
例えばそれはとりあえず、「スクリーンに投影された映像を同一の場所で視覚的に共有する」(ジョルジュ・サトゥール)人々のことだと定義することが出来るだろう。もちろんこの定義が現代においてあまりにも不十分であることは明らかである。それはNetflixやFuluを始めとした映像配信サービスを個々の環境で見る人々や、4D映画で「視覚的」にではなく「身体的」に映画を体感する人々を捉えきれていない。むしろ僕たちが行うべきことはこの古い「観客」の定義を軸としてそれが現代においてどのように変容しているかを見定めていくことだ。
そこで本稿では僕が最近たまたま劇場で目にする機会があった『ブレードランナー 2049』そしてその前作である『ブレードランナー』を主な分析対象としながらそこに現れる観客の姿を概観してみたいと思う。

1、
とはいえ、映画の内容そのものを映画の観客についての議論につなげるのはいささか牽強付会のように感じられるだろう。
映画と観客の関係について僕に思い出されるのは、批評家蓮實重彦の映画批評だ。1980年代前後に彼が始めた映画分析の手法は、映画に現れる無数の小さなモチーフ(翻る白いエプロン、食べ物、人物の横並び……)を映画の内容に関係なく、一つの形式として取り出し、その映画の今まで見たこともないような姿をあぶりだすことだった。しかしこの分析方法は「観客」を置き去りにしてしまうのではないか?映像研究者の長谷正人は当時の状況に触れつつ、蓮實の小津安二郎批評について次のように述べる。

 私たち80年代の小津の観客は(蓮實重彦の批評に先導されつつ)、彼の作品を保守的な内容においてではなく、その内容をいかに描いているかという形式的美学の側面において楽しんだ。(中略)それが私たちの「発見」だった。(中略)しかし、にもかかわらず、私は同時に、そこには何かが欠けていたと思う。簡単に言えば、娘を嫁にやるという保守的な物語を取り続けた、古臭い作家・小津安二郎の「物語」内容の側面が、今度は完全に無視されてしまったということである。(中略)しかし私はやはり、その「内容」もまた小津の魅力と分かちがたく結びついていたと思うのだ。1

長谷はこのように述べたあと、小津映画の「内容」について詳細に述べ始めるが、そこで浮上するのはその「内容」を見た「観客の経験」である。観客は純粋に映画の内容を見て笑ったり、感動したり、時には怒ることもある。そうした観客の個々の経験を拾い集めるような批評、それこそ長谷が提案する蓮實ならざる映画批評の在り方である。
本稿はこうした2通りの批評に対して優劣を決定することが目標ではない。しかし「観客」という要素を批評に取り入れるためには、観客が通常見るような「内容」の視点からその批評を始めなければいけない。それぞれの映画の「内容」を見ながらそれを受容する観客について考えていくこと。それこそ僕が本分析に際して取る方法である。

2、
では実際に映画を見てみよう。
『ブレードランナー』は1982年に公開された。内容はレプリカントというアンドロイドを処刑(=解任)する「ブレードランナー」を描いた作品である。レプリカントとは人間の姿に似せて作られた、人間のコピーとしてのアンドロイドである。当初は人間の思惑通りに動く奴隷として製造されたが、次第に感情を持ち始め、度々反乱を起こすためにブレードランナーに解任されることになったのだ。
『2049』も同様にブレードランナーが描かれるが、注目したいのは、『ブレードランナー』と『2049』におけるレプリカントと人間の関係だ。それはオリジナルとコピーの関係ともいえよう。『ブレードランナー』においてレプリカントを解任するのは人間であった。しかし『2049』では既にブレードランナーの職さえ新型のレプリカントであるK(ライアン・ゴズリング)が務めており、レプリカントがレプリカントを解任するという、人間の疎外が発生している。
その疎外を鮮明に象徴するのが他ならぬ『ブレードランナー』の主人公であるハリソン・フォード演じる捜査官デッカードだ。彼はレプリカントの女性レイチェルと恋に落ち、逃げるようにして姿をくらまし、前作から今作に至るまで人里離れた廃墟と化した街で隠遁生活を送っている。レイチェルは逃亡後すぐに死亡してしまい、彼は一人でそこに住んでいる。そしてレプリカントをめぐる抗争には(『2049』の半分ぐらいまで)かかわりを持たない。
そしてこの疎外について、レプリカントを映画として、デッカードを観客として捉えると『ブレードランナー』公開時における、観客と映画の関係をめぐる言説と奇妙な一致を見せるのだ。
先に確認したように、長谷は蓮實的な映画鑑賞によって観客が個々の映画体験から疎外されているのではないかということを指摘する。そこで映画を個別的な環境で体験するということから放逐された観客は、レプリカント同士での抗争から放逐され隠遁するデッカードそのものである。
そして『ブレードランナー』における人間とレプリカントの関係もまたこうした映画から人間が疎外されるダイナミズムを暗示する。奴隷としてのレプリカントは――映画がそうであるように――人間が作り出したものである。それは人間が思うまま動くように作られ、従順だったが、ある時から人間の思惑を超えて感情を持ち始める。それは人間が作り出したはずである映画が、その作者の意図を超えて多様な意味を持ち始めたのと同一の事態である。蓮實が行ったのはそうした作者の意図を超え出る細部を積極的に拾い集めることだった。
既に蚊帳の外であるデッカードは、しかし『2049』でもう一度その抗争に、それに歯止めをかける存在として連れ戻される。
デッカードの帰還は観客の帰還である。
では、その時の観客とはどのようなものか。
ところでデッカードを演じるハリソン・フォードという記号はここ10年程の観客にとって反復して現れ続けるイメージである。

2008年 『インディ・ジョーンズ4 クリスタルスカルの王国』
2015年 『スターウォーズ エピソード7 フォースの覚醒』
2017年 『ブレードランナー 2049』

そしてある観客にとってこのように表れるハリソン・フォードの顔は必然的に過去、厳密に言えば約30年前の映画を想起させる。

1977年『スターウォーズ エピソード4 新たなる希望』(スターウォーズの一作目)
1981年『レイダース 失われたアーク』(インディジョーンズの一作目)
1982年『ブレードランナー』

いわば1980年代前後を中心とするブロックバスター映画のリバイバルブームが2010年代に巻き起こり、その多くにハリソン・フォードが出演しているのだ。
レンタルビデオショップの隆盛により、過去の膨大な映画群はアーカイブと化し60年前だろうが30年前だろうが、去年だろうが過去の映画は一括りにされて、並列化される。そのような時代においてこのように続編を前作との?がりの内において把握するということはいささか分析手法としては古臭いかもしれない。確かに新しいスターウォーズを見る人間が必ずしも前作を見ているとは限らない。しかしそれでもなお、人々がこうした続編を見た時に前作との繫がりの内に感じた驚きというものは存在していたはずである。
だから僕はここで俳優ハリソン・フォードが登場する、時代をまたぐ物語の「内容」を語りたいと思う。そこでハリソン・フォードはどのような物語的展開をもって観客に受け止められたのか?
少しだけ回り道をしてこのことについて考えてみたいと思う。

3、
さてそう考えたとき、『インディジョーンズ』『スターウォーズ』『2049』においてハリソン・フォードはどのような運命を辿るのか。それをひとまず前作からの物語の内容に沿って次のように類型化することが出来るだろう。

①過去との結婚(『インディ・ジョーンズ』)
②過去の抹消(『スターウォーズ』)
③過去の認識と再生(『ブレードランナー』)

どういうことか。

①……『インディジョーンズ4』においてハリソン・フォード演じるジョーンズは1作目のヒロインだったマリオンと結婚を果たす。今までのシリーズで常にヒロインを変えてきたジョーンズを見てきた僕たちはこの結末に驚きを隠せない。これを示して、「過去との結婚」と呼ぼう。それは過去への遡行であり、ある意味では執着、つまり既にその存在が疑われていたアメリカン・ヒーローへの単純な回顧主義とも言えるだろう。

②……ハリソン・フォードが『スターウォーズ』シリーズで演じるハン・ソロは過去のシリーズでまさに英雄という扱いであったが、『エピソード7』では息子のカイロ・レンに無残に殺されてしまうのだ。これを存在の抹消と呼ぼう。過去作のヒロインと結婚までするジョーンズとは対照的で、英雄としての過去を抹消されている。

③……そして『ブレードランナー』における「過去の認識と再生」である。もちろんこれは物語を追えばあらかた言いたい意味は分かると思う。少しだけ『2049』のあらすじを紹介しておこう。ブレードランナーとしてレプリカントを解任するKは、かつて子供を産んだレプリカントが存在したという証拠を発見し、その子供を探し始める。そのうちにその子供が自分自身なのではないかという疑惑が浮上し、その真相を確かめるべく捜査を続ける途中で――その子供の父親である――デッカードに出会うのだ。隠遁していたデッカードはかつて恋に落ちたレイチェルとの間に子供が出来たことを認めながらも「愛する人を守るためには、無関係でいることも必要だ」と言ってあくまでも一人で生きていくことをKに告げる。
同時にレプリカントの大量複製を目指す製造元のタイレル社もその子供の行方を追い求め、Kを追いかけてデッカードの所へやってくる。タイレル社の攻撃によりデッカードはタイレル社に連れ去られる。一方、Kはレプリカントの解放を目指すレジスタンスに保護され、そこでその子供に関するある別の事実を知り、その子供が自分でないことを悟る。レジスタンスは自らの居場所がばれないようにするためにタイレル社に連れ去られたデッカードを殺せとKに指令するが、Kはデッカードを死んだことにして、本当の娘であった記憶学者のアナ――Kが捜査の途上で既に出会っていた――に引き合わせるのだ。
デッカードは最終的には自らの過去を「無関係」にするのではなくそれと出会い直す。彼は過去を認識すると共に、既に産み落とされていた自分の娘に再会する父親へと変化を遂げるのだ(デッカードが死んだことになった場所を思い出そう。そこは大雨が降りしきる大海原の中だ。これは新たに生が授けられる羊水の中をイメージさせる)。
そして僕はここにハリソン・フォード=観客という見立てをやや牽強付会かもしれないが当てはめてみたい。つまり最初に書いたような観客像がどのように変容しているのか、それをこの道筋に沿って考えてみたいのだ。
するとさしあたり次のようにまとめられよう。

①過去との結婚(3D、4D、VRなどのアトラクション的映像)
②過去の抹消(ニコニコ動画などに代表されるパーソナル化した映像環境)
③過去の認識と再生(?)

このような見取り図を立てることでハリソン・フォードの3つの変容と観客の変容とのある対応関係を見出すことが出来る。

①……映画のアトラクション化は3Dを始めとして4D、VRなど既に現在の映画・映像受容においてはオーソドックスになりつつある身体的な映像受容である。そして渡邉大輔が語るように、こうした身体的な映像受容は初期映画において見られた特徴でもある。

 それらの一見相異なるコンテンツたち(初期映画と現代の映画)は、一様にその表象や受容空間じたいがもつ「アトラクション性」という特徴において共通している。そうした複製イメージの孕むアトラクション性とは、(中略)彼らにショックや神経的・生理的興奮を惹起するきわめて「身体的」な情動効果に訴えるものであった。2

つまり近年のアトラクション性豊かな映画の興隆は過去への遡行でもあるのだ。

②……過去の抹消とは、かつては明確に存在していた観客性の抹消であり、作者/観客という境界線を融解させる現代の情報環境が促す映像受用の状況である。インターネット上では既に誰もが作者になることができ、そこでは先に述べたような観客像が失効する。東浩紀も語るようにこうした時代の作品は、その受用者のフィードバックまでをも踏まえて作られるのである。

では、③は?
これこそ僕たちが①と②におけるハリソン・フォードと観客の対応関係を踏まえて考えださなければいけない観客の姿ではないか?
もしもその2者に対応関係が見出せるならば、③に対応する、つまり「過去の認識と再生」にあたる「なにか」があるはずだ。そしてそのヒントは『2049』にあるのではないか?
では僕たちはそこから一体どのような観客を見出すことが出来るのだろうか。

4、
僕たちが注目すべきは『2049』のラストシーン、つまりデッカードが本当の娘であるアナと出会う場面だろう。
このシークエンスは何を意味するか。
アナとはレプリカント用の記憶を作る記憶学者である。ここで純粋にデッカードが「記憶」と出会うと想定してみよう。そしてそれは観客が「記憶」と出会うことである。
なるほど、確かにハリソン・フォードは『2049』においてあまりにも露骨に「過去」と対峙させられる。デッカードを連れ去ったタイレル社は過去の真実を明らかにするために、彼をレイチェルのコピーに引き合わせたり、『ブレードランナー』でレイチェルと話している会話(実際に映画で使われていたものだ)を聞かせる。これはほとんど過去作に対する直接的な自己言及である。しかしデッカードはそうした幻影としての過去を拒否し、タイレル社によるレプリカントの複製を阻止する。
そうして彼は過去へのベタな執着を拒否した後、Kによって死んだことにされる。しかしそれは例えば『スターウォーズ』のように完全に英雄としての姿を抹消されることではない。彼は娘と再会することによってその過去を受け入れ、現在において父親として再生する。
なるほど、そう考えれば観客も過去のそれぞれの記憶を思い出しつつ現在の映画、映像をそれぞれの方法で見るのではないか。そもそもこの論考自体の思考の枠組みが既にして過去とのつながりに準拠している。2010年代に起こった相次ぐリメイク、続編ブームはその内容に関わらずこの傾向を表しているし、またニコニコ動画などのパーソナルな映像メディアでさえ、あの画面上に流れる過去のコメントが現在見ている動画の内容をツッコみ、盛り上げる。
過去と現在がクロスする地点が現在の映画/映像の受容状況に影響している。もちろんこれは過去への執着ではない。自らの過去に影響を受けながら現在の映画を見てしまうこと、その人間としてのどうしようもない映像受容の一つの形式である。もちろんこうした観客は2010年代に突如として現れたのでは決してない。映像文化が始まってから、いや観客というものが誕生してから常に彼らは自分自身の記憶と照らし合わせながら、現在見ている演目を見ただろう。そうした過去とリンクする個々人の経験が2010年代には強く前景化するのだ。
更に2010年代における多くの映画批評家はその方法論を、個々人の経験の水準で語ろうとする。そしてそうした時代における批評家の役割とはそうした観客と、彼らが既にして孕む個々の記憶を出会わせることに他ならない。
Kは最初、自分自身こそデッカードの子ども、つまり「選ばれた者」であると思っている。特権的な位置に自分を置いていたのだ。しかしその予想は外れ、ただの一介のレプリカントにしか過ぎないことを悟る。このKの位置こそ、批評家の位置を表している。蓮實の批評を考えれば、徹底的に細部を見つめる蓮實の眼、つまり批評家の眼は明らかに一般人の眼ではない。映画館で一度や二度見るだけで、あそこまでの細部を語ってしまう特権的な眼だ。しかしレンタルビデオの興隆により、彼が行う作業は特権的ではなくなり、批評家の位置は寄る辺なくなる。
ではKはどうしたか。彼は失意のただ中、誘拐されていたデッカードを救い出し、彼を娘と引き合わせる。彼が無視していた過去の産物である娘に合わせるのだ。つまり批評家は観客を、観客が元々保持していた記憶というものに出会わせる、そのような存在になったのである。
批評家が観客をその記憶と出会わせることで再発明させる。
批評家としての僕は、僕自身の記憶と観客としての僕を出会わせ、この論考における分析を進めてきた(題材の選定さえ個人的な事情だ)。
引用した長谷正人の批評はまさにこのような作業を行っているのではないか。
観客が胎胚していたそれぞれの記憶に出会うこと。これはデッカードが自分の子どもであるアナに出会い直すことと同義である(胎胚という言葉の原義は「子を孕む」ということである)。
ハリソン・フォードの3つ目の道筋とはそうした観客の姿を浮き彫りにするものなのである。
僕はそう思う。

脚注
1長谷正人『ヴァナキュラー・モダニズムとしての映像文化』、東京大学出版会、2017年、p. 121-122。
2渡邉大輔『イメージの進行形』、人文書院、2012年、p. 110。

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