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建築基礎~蓮沼執太の場合

蓮沼執太の音楽は建築的である。
などというと不思議に響くかもしれない。確かに古くから「建築は凍れる音楽である」と言われてきたようにその両者の関係は深い。しかしこの言葉を放ったのは西洋人(ゲーテかシェリングか不詳だが)であってその念頭に置かれていたのは、ソナタ形式やロンド形式という強く形式に規定されていたクラシック音楽と、ゴシック様式やバロック様式といったこれまた強く様式に規定されていた西洋建築だ。「形式=様式」を媒介とした両者の強い構築性に西洋人は類似性を見て取ったのである。
しかし多くの論者が語るように時代が下るにつれてこうした「形式=様式」を破壊しようという動きは多々見られる。例えばジョン・ケージは音楽におけるこの構築性を徹底的に排除しようとしたのだし、そもそも建築においては中谷礼仁が語るように「様式」という概念自体が近代建築の始まりと共に消えてしまうのである1
そのような状況の中で蓮沼執太の音楽をもって「建築的」であると表現することは有効であるのだろうか。
端的に言って私はそれが有効だと考えているし、蓮沼の音楽ほど現代において建築的であるものはないと思ってさえいる。むしろ建築と比較することによって蓮沼の音楽自体に新しい観点を開くことが出来る、いや建築的に見なければ捉えきれない蓮沼の音楽があると断言しても良い。
では一体蓮沼の音楽がどのように建築的であるのか、蓮沼の初期から現在に至るまでのいくつかの作品とプロジェクトを参照しながら「音楽」という枠組みでは零れ落ちてしまう蓮沼の活動を捉えていこうと思う。

蓮沼執太は大学4年の時に初めてのソロアルバム『Shuta Hasunuma』をリリースして以来、現在の蓮沼執太フィルでの活動まで度々プレイスタイルを変えてきた。そのような多岐にわたる活動の中で『Sunny Day in Saginomiya』という曲は最初期のソロアルバム『OK Bamboo』(07)から蓮沼執太チームでのライブ演奏を再編集したアルバム『wannapunch!』(09)、蓮沼執太フィル名義の『時が奏でる』(15)まで録音が繰り返され、ライブでも多く演奏された、蓮沼の音楽活動を捉えなおすには格好の素材である。
ある曲を演奏するという行為は音楽を建築物として自立させる。そしてその演奏された曲を再度演奏し直すことは、その建て替えに他ならない。もちろんこれはライブに限らず(蓮沼はライブ活動をメインにしている)録音においても同様で、『Sunny Day in Saginomiya』は演奏されるたびに建て替えられると言えるだろう。
もちろん当然のことながら――可視性と不可視性という根本的な違いを除いても――音楽における建て替えと建築における建て替えは異なる部分も多い。建築では同じ土地に建造されても全く異なる形の建造物が出来ることが多々ある。しかし音楽の場合には基本的にほぼ同一の建物が建ち上がる。それは音楽に程度の差はあれ楽譜があり、おおまかな構造が規定されているからだが、同じ外観を持ったチェーン店舗を建てていると形容出来得るかもしれない。どのライブハウス、コンサートホール(=土地)で演奏(=建造)を行おうがそこに出現するのはほぼ同じ演奏である(=チェーン店舗)。もちろんこれには異論が持ち上がるだろう。例えば、ジャズやインプロはどうかと。確かにこれらは即興を旨としており、毎回違う演奏が出来上がるかもしれない。とはいえこれらの演奏はインプロを演奏していたら突然クラシックのように楽譜に忠実になる、というようにジャンルを超え出ることはないし、根本の部分では変化が無いのである。
しかし蓮沼の『Sunny Day in Saginomiya』のそれぞれのバージョンを聴いてみると驚くべきことに、その3種類ともがそれぞれかなり違う様相を呈していて、そこでは音楽におけるジャンルさえ様変わりしているのだ。特にエレクトロニカとして制作されたソロワークと、蓮沼執太チームとしての録音は1年しか期間が隔たっていないにもかかわらず、その構成やメロディが大きく様変わりしている。今や『Sunny Day in Saginomiya』はフィル向けのポップスとクラシックを融合したかのような曲になっている。
だから蓮沼の音楽はチェーン店舗ではない。いや、チェーン店舗では無いと言いつつもその『Sunny Day in Saginomiya』という名前は同一なのだから、形を変えるチェーン店舗とでもいえる微妙な立ち位置にあるだろう。事実、蓮沼は多くのインタビューで自らの曲が奏でられる場所や、それを奏でる人間によってその形が大きく変化するということを述べている。

建築物は設計者、施工主、周辺住民、土地、周りの環境など様々な諸要素に影響を受けやすい。なぜならば一度建ってしまった建築物は向こう何十年そこに建ち続けると想定されるものであるからだ。そのために建築家の夢想は実際的な問題に影響を受けて多くの場合、縮小や変更を迫られることになる。建築は確かに芸術作品ではあるが、絵画や彫刻といった制作者個人の意向がダイレクトに反映されやすいジャンルに比べれば不自由さが付きまとうジャンルであると言えるだろう。逆に言えば、建築とは複数のファクターが絡み合うことで最終的な形が現出する対話の芸術ともいえよう。しかもその対話は、人間だけでなく、土地や周りの環境までをも含むのだから厄介である。
蓮沼の音楽は、誰によってもどこで奏でられても同じような音楽を現出するチェーン店舗のような音楽(上手い下手の違いはあるが)に対し、周りの環境や共にプレイする人によって同じ曲であっても大きく異なる様相を呈する。
なるほどこう考えると蓮沼が大学で環境学を学んでいたことと、その後の音楽活動のある一貫性が理解できる。蓮沼が興味を持っているのは、ある音楽を主体的に作り、どこでも同じように演奏することではなく、その演奏者以外の要素がその曲に及ぼす影響である。
だから蓮沼はその演奏を取り巻く「環境」というものに興味を抱き、フィールドレコーディングという環境の音を聴くという作業を行っていたのである(蓮沼の曲には『Meeting Place』という示唆的なタイトルの曲もある)。
展覧会として企画された『音的』でもこの興味は持続している。『音的』で展示されたサウンド・アート(本人はそのように呼ばれるのを嫌うが)はその作られた作品だけでなく、会場の音をも取り込んで1つの作品になっているのだと蓮沼は語る。

この作品(『コミューナル・ミュージック』※引用者注)の大きなコンセプトは、スピーカー10個から出力される音楽だけが作曲した作品ではありません。周りの環境音も合わさることで『コミューナル・ミュージック』という1つの音楽作品が成立するというものです。2

蓮沼の音楽は建築物がそうであるように、蓮沼以外の複数のファクターがそれぞれ干渉しあうことによって1つの形を成している。もちろんどのような音楽であってもこのような事態は起こっているだろうが、蓮沼の場合はその周りの力が大きいのである。いや、大きいというよりも蓮沼がそうした周りの力に注意を払っていると言った方が適切だろう。蓮沼はしばしばインタビューで「自分が作曲したものを他のメンバーが弾いてくれているのをステージ上で聴く環境は好き」3であって、自ら強いイメージを持ってフィルをまとめることをしないと語っている。ここまでの文脈を踏まえるならば蓮沼のこの発言にも、環境学を専攻していた大学時代から蓮沼執太フィルまでを貫くある志向性が垣間見える。つまり蓮沼にとって重要なことは周りのファクターを「聴く」ということなのだ。例えばそれはフィルメンバーやチームメンバーがそれぞれの楽器から出す音であり、フィールドレコーディングに繰り出した先で出会う自然やその街の音である。
もちろんそれは直接的な音だけに限らない。先ほど語ったようにメンバーの意見を「聴く」のかもしれないし、リスナーからの要望を「聴く」ということでもあるだろう。
しかしこの蓮沼が活動の初期から一貫している「聴取」への思考は、突き詰めていけば突き詰めていくほど限りの無い作業であり、それを尽くすことは実は不可能な作業なのではないか。
少し議論を急ぎすぎたようだ。この「聴取」へのあくなき追求とそこから不可避的に生み出される問題を汲みだすために更に蓮沼の作品を参照してみよう。

蓮沼執太フィル名義で出された『メロディーズ』というアルバムに『RAW TOWN』という曲がある。曲にはまるでフィールドワークをするかのごとく東京の街や通り、駅、交差点の名前が登場する。そのサビでは「生の君に会いに行くって」という言葉が繰り返されるが、この「生の君」とは「生の音」つまり蓮沼がその活動で一貫して聴こうとしている多様な音に他ならないのではないか。これはその特徴的なミュージックビデオ(MV)を見ていくことによって理解できる。
MVの主人公は歩乃圭演じる少女だ。彼女はビデオの中で曲に合わせて東京の街を訪ね回る。その時に出てくるのが蓮沼執太演じる謎の男である。彼はイヤフォンを耳に付けながら歩乃圭の前に現れては消え、彼女と同じ足取りを辿る。最終的にこの二人は東京駅の前で再度会うことになり、歩乃圭は蓮沼に話しかけようとするが、蓮沼は他の誰かの所に行ってしまい、二人は出会い損ねる。
ここにおける2人の対立は鮮明だ。
徒歩で耳に何も付けずに東京を歩く歩乃圭と、バスなどの交通機関でイヤフォンを付けながら移動する蓮沼。実際の蓮沼があらゆるものを「聴く」ならば、彼の活動のスタンスは耳に何も付けない歩乃圭の在り方に近いだろう。蓮沼がMVの中で演じる男は、むしろ蓮沼的ではない。彼はMVの中では音楽プレイヤーを付けていて、個人の世界に閉じこもるのだ。若林幹夫は個人用携帯音楽プレイヤーについて、それが都市の中を歩く人間をそこにいながらにして公共空間ではなく、個人のプライベート空間に存在させるのだと指摘する4
そしてこの2人が出会い損ねるというMVのラストは、蓮沼が抱くある恐れのようなものを明確に表しているのではないか?それは「生の君に会いに行こう」として東京を歩き、「生の音」を聴こうとする歩乃圭が最終的には、個人の世界に閉じこもる蓮沼に出会えないという構図からも明らかなように、本当の意味で他者の音を「聴く」ということは不可能ではないか、ということへの恐れだ。
蓮沼はインタビューの中で「めちゃめちゃ仲が良くても人間は分かり合えないし、だけど一緒に音楽をするんですよね」5と語る。他者の音を聴こうとしても必ず到達できない、つまり完全に聴くことは出来ない。他者を完全に理解することは不可能なのだ。しかしそれでも蓮沼はその不可能なことを恐れつつ、様々なものを聴こうとする。
そしてその「聴こうとする態度」は蓮沼にとって作曲するという行為そのものであることを忘れてはならないだろう。主にフィールドレコーディングについて蓮沼が語ることには、世界にはあまりにも多くの音があり、一人の力ではそれら全てを聴ききることは出来ない。その音を聴こうとすれば必然的に蓮沼にとって聴こえる音をレコーディングすることになる。
そうした意味で決して作曲的でないように思えるフィールドレコーディングという作業も蓮沼にとっては恣意的な作曲行為になる6。そして蓮沼執太フィルにおいて彼がメンバーを聴き、その場所を聴く(しかしそれは聴ききることが出来ない。仲が良くても完全には理解できないのだ)ことも作曲行為につながるのだ。
蓮沼がACAC(青森効率大学国際芸術センター青森)で行った『作曲的』という展示は「人や物質など音を生む多種多様な要素をすべて取り込んで時間や空間を異なった次元に昇華させるような独自の音楽環境を作曲行為により生成する」7という紹介文からも分かるようにまさにこうした意味での「作曲行為」をACACという場所やそこを取り巻く環境との対話から行った試みだと言えるだろう。
蓮沼は作曲行為を、聴くという行為を止めない。『RAW TOWN』のMVの最後で蓮沼と出会い損ねた歩乃圭は少し不満そうな顔をしながらもまた「生の街」を探すために、「生の音」を聴くために夜の東京に繰り出す。
しかしなぜ蓮沼はこの音楽行為を止めることが無い/出来ないのだろうか。

私達は蓮沼の音楽を建築として捉えているのだった。
もう一度問おう。なぜ、蓮沼の音楽は建築的であるのか、と。
そしてこの問いを今私たちが問うたばかりの問いにつなげてみよう。つまり、なぜ蓮沼は作曲行為を続けるのか、という問いだ。
なぜ人は建築行為を続けなくてはならないのか?それは人が生きている限り「住む」という行為を止めることが出来ないからだ。人は生きるために生活をするための場所が必要だ。もっとも原初的な建築のイメージはロージェが提示した「原始の小屋」のようなものである。それは人が生きるために必要な最低限の建築である。そしてこの「原始の小屋」に装飾や様式というような住むことにとって余剰とも言える概念が入り込む。

                                 ロージェが提示した「原始の小屋」。屋根と梁と支柱のみで成り立つ最低限度の建築。

そして蓮沼の音楽に対するスタンスにもこの構造が見出せるのである。それを明らかにするためには「聴くこと」に対するちょっとした認識の展開が必要だ。

あなたができることのすべては、突然、聴いてしまうことだ。風邪をひいたときにあなたができるのが、突然、くしゃみをすることであるように。

佐々木敦も『テクノイズ・マテリアリズム』で引用したこのジョン・ケージの言葉ほど「音」と「聴くこと」と蓮沼における「作曲」について大きな示唆を与えてくれるものは無い。つまりケージは「聴く」ということを「風邪の時に突然くしゃみをしてしまう」ということのようにどうしようもない、仕方のないことだと捉えているのだ。ケージがその代表作「4分33秒」を構想するきっかけとなった無響室での体験のように、完全なる沈黙は存在せず人間に耳がある限り音は「聴こえてしまう」。それはどうしようもないことだ。そして前に語ったように蓮沼においてその「何かを聴く」という行為は自然と聴かれるものを取捨選択しているという点においてすでに「作曲行為」である。
つまり、「聴くこと」が不可避のことであるということは蓮沼にとって「作曲行為」自体が不可避であるということと同義である。
その不可避として聴かざるを得ない「音」がロージェの言うような「原始の小屋」だとすれば、蓮沼はそこに――建築家がそうやるように――様式や、装飾というものを施す。

さやわか:(蓮沼執太フィルにおいて)とりわけポップスに可能性を感じているというわけでもないですよね? ポップスという1つの型を採り入れたというだけで。
蓮沼:まさに型というか、様式美を借りたという感覚です。フィルだからポップスを採り入れようと思ったわけではなくて、フィルでもやれるからやってみた。8

ここで蓮沼がポップスについて「その様式美を取り入れた」という建築の言葉を用いていることに注目してみよう。何気なく言われたこの言葉は思いのほか重要なのである。つまり蓮沼にとって「音楽」とはまずその基礎に聴かざるを得ない多様な音(これは実際の音だけでなく、他者の音、他所の声、そのようなものまでをも含む)を「聴取=作曲」するという行為があり、それにエレクトロニカという型の装飾を施すか、ジャズという型の装飾を施すか、ポップスという型の装飾を施すかの選択を行ってその「原始の小屋」を装飾していく、そういうものなのだ。近作の『メロディーズ』で蓮沼は「僕の声からメロディが始まって10個のポップミュージックが完成しました。いわゆる西洋音楽の三大要素「ハーモニー・メロディ・リズム」への追求は止まりません。(フィル)ハーモニーの次はメロディです。僕の音楽に常に潜んでいたメロディが今、大きくスポットライトが当たっています。」と語る。「西洋音楽の三大要素」の追求はクラシック音楽の追求だが、しかし『メロディーズ』に収録されているのはあくまでポップミュージックであって、既に蓮沼において「ジャンル」という考え方は無意味である。
こうした蓮沼の音楽を捉えることにおいて通常の音楽解釈は「クラシックを基調にしたポップス」とか「ポップスと現代音楽とエレクトロニカの融合」という言葉でしか表現が出来ない。しかし蓮沼が「ジャンルの壁は超える必要が無い」と発言している通り、この表現は正しくない。あくまで彼の基礎には「聴取=作曲」があり、その上に装飾として過去の様々な音楽の様式や装飾が取り入れられるのだ。そこでは多種多様なジャンルは融合ではなく併存していると言った方が適切だ。『Sunny Day in Saginomiya』で起こっていたことはある時までエレクトロニカの型を取っていた曲が、ポップスとクラシックの型を装飾として建て直されたということなのだ。
しかもそこに施される装飾は必ずしも音楽という形を取るだけではない。『作曲的』、『音的』といった展示のようにその小屋には美術という装飾が施されることもある。しかしその根底にもやはり「聴取=作曲」という基礎がある。だから蓮沼においては美術、音楽といったジャンルの壁も関係ない。
それはどのような音楽家よりも建築的な行為である。まず「聴取=作曲」がある。ここで聴かれるのはフィールドレコーディングの時のように環境音だけでない。フィルのメンバーの音、もしくは蓮沼はこの「聴く」という行為を「他者の意見」、もしくは演奏する場所の音にまで拡張する。そしてその行為の上に装飾として様々な型の音楽を取り入れていく

2018年、蓮沼執太フィルは新メンバーを加えて再始動するという。新メンバーの音を「聴く」蓮沼は、そこに今後どのような装飾を施していくのだろうか。

脚注
1中谷礼仁『実況近代建築史』、INAX出版、2017年参照。
2SHIFT 「日本語版インタビュー 蓮沼執太」
、http://www.shift.jp.org/ja/archives/2013/02/shuta_hasunuma.html 、2013年
3CINRA.net「実験性とポップスを両立する、蓮沼執太のスタンス」
、https://www.cinra.net/interview/2014/01/14/000001.php、2014年
4若林幹夫『都市のアレゴリー』、INAX出版、1999年
5CINRA.net、同上
6マグカル「蓮沼執太×毛利悠子インタビュー 空間を作曲しスコア化するということ」
、https://magcul.net/focus/hasunuma_mohri/2/、2014年
7PARTER「蓮沼執太が『作曲的』展を、キュレーター・服部浩之と語る。空間×時間×建築で生みだす音楽環境」
、https://partner-web.jp/article/?id=183、2015年
8CINRA.net、同上

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