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近年の蓮實重彥の相関主義的態度への批判

 蓮實重彥の映画批評を読んだ後だと、その内容のようにしか、その映画を観れなくなる。こう言ってしまうと、悪いことのように聞こえてしまうが、実際はそんなことは決してない。むしろ、蓮實の批評を読む前の自分が、いかに画面を見ていなかったか、思考することなく「制度的」な決まりきった解釈をするだけであったかということが明確に自覚される。蓮實重彥の映画批評において、功の部分はこの側面が最も大きいものだと思う。そして、その上で蓮實重彥はこういった身振りをする。

人は、画面を見ることによって何を学ぶか。見ることがどれほど困難であるか、というより、瞳がどれほど見ることを回避し、それによって画面を抹殺しているかということを学ぶのである。(『監督 小津安二郎』 ちくま学芸文庫10~11頁)

多くの人が抹殺していく画面に対して、新たな意味を与え、ジョン・フォードの映画はエプロンを、小津安二郎の『晩春』にはアンパンといった、それまでの制度的な解釈ではない形の蓮實の批評は、まさにロラン・バルトのいう「鈍い意味」そのものだったと言えるだろう。

 ロラン・バルトは『第三の意味――エイゼンシュテインのフォトグラムに関する研究ノート』の中で、エイゼンシュテインの『イワン雷帝』の二人の副官が若い雷帝の頭に黄金の雨を注いでいる場面を以下の三つに分けて解説している。(1)情報のレベル(舞台装置、衣装、人物、人物間の関係。コミュニケーションのレベル)、(2)象徴のレベル(最も強調されている演出効果。上記の例の場合は黄金の雨。意味作用のレベル、(3)第三の意味(それ以外の名づけることができない意味。従って、前出の二つのように名づけず、第三の意味としている)これら三つの内、第三の意味に対してのちに、「私の理解力が吸収できない付加物のように《余分に》やって来る、頑固であると同時に捉えどころがなく、滑らかであると同時に手に負えない意味」(ⅰ)として、「鈍い意味」と名付けている。そして、この「鈍い意味」こそが、「単なる連続、行き当たりばったりの結合(偶然は卑しい能記、安価な能記でしかない)を裏返し、内部から逃げる構造化作用に到達させるあの偽りの秩序」として、ストーリーを覆さずに、映画を別な風に構造化するものとしている。そして、そこにこそ《映画》という結果として定着したものではなく、《映画的なもの》というそれを生み出す過程が現れると指摘している。(ⅱ)そういった意味において、「表層批評」という標語で要約される蓮實の批評的方法である、物語の主題や社会的背景、製作者の履歴といった映画を取り巻く多種多様な外的要素への参照を一切捨象して、あくまで観客の瞳に映る具体的かつ物質的な「画面」のみを頼りにして組み立てる方法は、非常に《映画的なもの》だった。しかし、こうした方法論は既存の制度で解釈する(ジョン・フォードをアメリカの持つ暴力性で見る)価値観やイデオロギーから解放したが、同じ方法論で別の見方をする批評を量産することとなる。(ジョン・フォードの風、雨、投げる、抱える等々)それはそれで豊かなことのようにも思えるが、どこか笑点の大喜利のような、おもしろいことを言えたもの勝ちといった息苦しさを生じさせることになったのではないだろうか。そして、それは見ることを過剰に肯定していくどこかの過程で、見ることそのものへの思考を妨げることになったのではないのだろうか。

 見ることそのものへの思考とは何か。そのことを考える時に、非常に示唆に富む書物として、前田英樹の『映画=イマージュの秘蹟』がある。この本は「身体」から始まって「時間」で終わる六つの章立てで書かれている本なのだが、その中の「第一章 見ることの苦痛について」の冒頭に書かれていることを要約すると、人間は、自分たちの有用性(利便性)に従って、世界からの圧倒的な情報量をもつ光や音を、眼や耳を通して無意識裡に排除しており、そうした生存するのに余計な光や音を排除する眼や耳を、前田は「中枢的な器官」と呼び、その排除行為を「縮減」とし、それに対して、カメラは中枢的な「器官」ではなく非-中枢的な「機械」であるから、純粋に光学的、即自的な知覚、情報を記録することができるのであるとしている。ベルクソンの『物質と記憶』に則した形で、映画の撮影と、観客の鑑賞におけるこの情報の非対称性を指摘したことは、蓮實の問うた映画を観ることそのものの持つ、不可能性についての指摘でもある。そうしたことと、関係するかはわからないが、ユリイカの平成29年10月臨時増刊号『総特集 蓮實重彥』の中の、ロングインタビューの中で下記のように発言している。

蓮實 見ることをめぐる「人間」的な条件に対してある程度居直ってしまってもよいのではないかと感じはじめている、ということです。そうした居直りの表れとして、自発的に見ることをやめるという選択肢もありうるのではないか? 見ることをやめることが批評家でありつづけるためのひとつの道になる可能性もあり、その可能性を示すことはむしろ批評家としてのひとつの務めでさえあるのではないか?――いまはそんなふうに考えております。ただし、自分にそんなことが本当にできるのかはわかりませんけれど。

こうした発言の背後には、昨今の映像文化が多様化していることも影響しているとは思われるが、見ることそのものに対しての不可能性についての意識もあるのではないのだろうか。本稿の冒頭で、見ることの困難さについて蓮實は既に語っていることからも、昔からその不可能性と向き合った上で、批評を書いてきたようにも思える。しかし、どこまで本気かわからないが、こうした「人間」的な条件に対してある程度居直ってしまってもよいという態度は、メイヤスーが『有限性の後で』で批判した相関主義と、どこか似通った感じがするのは私だけだろうか。

 相関主義とは、メイヤスーの定義によれば、「私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の項のみへのアクセスはできない」として、「相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向」(ⅲ)のこととしている。これは要するに、我々の知覚、認識できるのはあくまで現象までであって、物自体を認識することはできないが、思考することはできるという立場である。これは、前述した映画の撮影と、観客の鑑賞におけるこの情報の非対称性と同じことなのではないか。(映画のすべてを認識することはできないが、そのこと自体は思考できる)そして、この本について、訳者の千葉雅也はあとがきで以下のように解説している。

 世界は、私たちの考え方に依存する形で私たちに現れており、また逆に、世界の何かに関わっていない思考(思考だけの思考、純粋思考?)をすることもできない。思考と世界、世界と思考は、いつでもお互いに「相関」していて、私たちはこの相関の外に出ることはできない。このことをメイヤスーは、本書で「相関主義 corrélationisme」と名づけた。そして、カント以来(遡れば、バークリーの観念論以来)、近現代哲学の基本的前提は久しく相関主義であり続けてきたが、これは自然科学とは根本的に相容れないものだと見るべきである、ゆえに今こそ相関主義から脱出しなければならない、と大見得を切ってみせる(218~219頁)

ここで言われる相関主義とは相容れない「自然科学」とは、(万人に共有可能とする前提の)測定値を元に世界と向き合う学問である。映画批評においても、この測定値を元に映画と向き合った批評が存在する。それは、平倉圭の『ゴダール的方法』である。序章で、「本書はいわば映画の「新しい観客」としてふるまい、ゴダールの映画をデジタル編集台で操作・変形することで分析の解像度を更新しようとしている。私たちは編集台に接続し、高解像度ゴダールの経験に突入する。そして他人の映画をヴィデオテープやDVD、あるいはネット動画から引用して再編集してしまうゴダールの映画のなかには、私たちがそのような「新しい観客」としてふるまうことを押しとどめるいかなるものも存在しない。」とあるように、映像と音をデジタルに数値化して解析する。こうした試みを肯定していくためにも、相関主義を乗り越えた思弁的実在論が必要となってくるのだ。思弁的実在論を説明するにあたって、「思弁的」という言葉の意味を説明した以下の内容を『有限性の後で』から引用する。

絶対的なものにアクセスできると主張するあらゆる思考を思弁的と呼ぶことにしよう。他方、何らかの絶対的存在者へのアクセス、あるいは、理由律を介しての絶対的なものへのアクセスを主張するあらゆる思考を、形而上学と呼ぶことにする。あらゆる形而上学が定義において思弁的であるとしたら、私たちの問題は逆に、あらゆる思弁が形而上学であるわけではないということの立証である。

ここでいう「絶対的なもの」の箱の中に、本書の「第四章 ヒュームの問題」では、物理法則が入ってきて、前述した自然科学の発見を肯定していく文脈を模索していく。先の引用は理由律(形而上学)ではない、他の方法という無数の選択肢の中に思弁的実在論を肯定する方法はあるという見立てであり、その一つの可能性を、本書では、以下の手順で導いていく。「私たちの死後の存在がどうなるか」をめぐる四つの立場の対立で(独断的形而上学者、相関主義者、観念論者、思弁的哲学者)この世界の「偶然性の必然性」という結論に至る。(千葉雅也のあとがきにあるように、ここが本書の山である)この世界の非理由(偶然性)と、自然法則(必然性)が両立していることを導く方法として、カントールの無限集合論を引き合いに出しつつ、無限の中での偶然は確率論から解放されることによって、自然法則の安定性もまた必然性から引きはがされることにより、無限の偶然性の中で自然法則の安定性が説明可能となる。この話は物理学の方がわかりやすく説明できる。ひも理論の種類があまりにも多く「破綻した」といわれている状況を逆用し、むしろ莫大な数の宇宙があるからこそわれわれの宇宙もあるのだ、とすることで、宝くじが当たる確率は0に近いが、だれかが当たる確率は1であるということができる。そして、ひも理論の予言するように10500種類の宇宙が存在すれば、そのひとつの宇宙が現在の宇宙と同じになる確率は高くなる。問題は、宝くじが本当に発行されたのかということだ。今のところ、他の宇宙が存在するという根拠は観測では示せないが、インフレーション宇宙論によれば、インフレーションの繰り返しによって莫大な数の「ポケット宇宙」が生み出されていたとすると、同語反復ではあるが、この宇宙が今のような素粒子でできているのは、そうでなければ宇宙を観察する人間が存在しえないからだ、と言える。こうした形での偶然性による思弁的実在論の世界観に近い批評として、東浩紀のいう「圧倒的神感」や、AI批評(画像検索による類似イメージの紐づけ)を私は考えてしまうのだが、そうした批評が生み出されていくときに、果たして蓮實重彥はどのような映画批評の在り方(最新では前述したように「見ることをやめる」)を提示してくるのであろうか。

 

 

(ⅰ)『第三の意味 映像と演劇と音楽と』 みすず書房 77頁

(ⅱ)同上、92~93頁

(ⅲ)『有限性の後で 偶然性の必然性についての試論』人文書院15~16頁

文字数:4674

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