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「批評とはなにか」について

 

1.課題文の趣旨について

 

まず、「批評とはなにかを定義せよ。」という課題文の趣旨について、以下に検討する。

「定義」とは、広辞苑(第5版)によれば、「概念の内容を限定すること。すなわち、ある概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること。その概念の属する最も近い類を挙げ、さらに種差を挙げて同類の他の概念から区別して命題化すること。例えば『人間は理性的(種差)動物(類概念)である』。」とのことである。よって広辞苑的に解釈すれば課題文は、「批評という概念の内容を限定せよ。批評の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別せよ。批評という概念の属する最も近い類を挙げ、さらに種差を挙げて同類の他の概念から区別して命題化せよ。」という意味となる。

「命題化せよ」というのは「SはPである」「SはPでない」といった形式で記述せよ、しかも「真偽を判定することのできる」ように、ということだ(同広辞苑の「命題」の項目参照)。私の理解では、これは他人から見て、「それはそうだね」「それは違うね」とサクッと言われやすいような簡単明瞭な短い説明をしてみなさいという趣旨と思われる。

単に命題化するだけならば、例えば「批評とは、吉本隆明の『共同幻想論』のことである。」(①)とか、「批評とは、批評家と称する〔称される〕者が商業誌に批評として掲載する文章である。」(②)などと書くだけで回答になってしまう。しかし、定義とは前述のように、定義される対象が「概念」であることを前提とし、それを他の概念から区別するためのものとされている。前掲の①は単に批評と呼ばれ得るものの具体的な例を示しただけであり、また②は、批評という言葉が一般的にどのような事象の名称として使用されているかを説明しているに過ぎず、いずれも批評を概念として捉え、かつ他の概念と区別しているとは言えないであろう。

それでは「批評を概念として捉え、かつ他の概念と区別する」とはどういうことか。

前掲の広辞苑によれば「概念」というのは哲学上の用語であって、「事物の本質をとらえる思考の形式」であるそうだ。「概念は言語に表現され、その意味として存在する」ともある。私は「私」と表現するとき、「私という概念」を使用しているということだ。私が「私」という言葉で表している意味が「私という概念」、または、他人が私の文章のうちに「私」という文字を見たときにその意味として理解する内容が、「私という概念」となる。ということは当然、概念が成立するには一定の範囲の人々に共通する理解のためのシステムが必要になる。課題文に即して言えば、今ここで定義を要求されている「批評」には、「批評という概念」を成立させている一定の思考の枠組みや体系といったものが存在するということである。そして、ここであえてこの言葉が課題とされているということからは、その枠組み・体系自体が揺れ動いていることが想定される。その揺らぎを織り込んだ上で、説得力のある思考の枠組み・体系を明示した上で、批評という概念をきっちりと浮き上がらせて見せよ、というのが課題文の実質的な趣旨と思われる。

 

2.回答への試み

 

以上の課題の趣旨を目の前にして、私には到底オリジナルな何かを提示することはできまい、と思う。そのかわりに回答への試みとして、目の前の既存のテキストを読み解くということだけをやってみたい。

前掲の広辞苑に代表される辞書の世界というのは、もしそこに思考の枠組みや体系が存在するとすれば、その思考の枠組みとは、そのような辞書が世の中で「意味づける」という行為について立派な権威を有していること、かつ権威に従うことを是とすることを内容とするだろう。実際は辞書はもともと統一的な思考の枠組みや体系を織り成すものとしては編まれておらず、ある言葉が歴史的または一般的にどのように用いられてきたかということを一応固めることを主眼としている。辞書に記載されている言葉の意味は、そのまま無批判に「そういうものである」と考えて安心してもそんなに咎められることはないが、そうしたからといってその人が何かをしっかり考えたとは普通みなされない。そのようなものである広辞苑(第5版)は「批評」の意味について、「物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること」としている。これは出題者東浩紀が『ゲンロン4』「批評という病」と題した文章で「批評とはなにか」を論じた際にまず「手元の辞書」から抽出して見せた「批評」の意味とそう変わらない。東はそのような辞書的な「批評」の意味が、常識的にも実際的にも、また商業的にも通用していることを述べ、これを一つの批評の定義として認めているかのような表現をする。「日本には、そのような定義に必ずしも収まりきらない、にもかかわらず『批評』と呼ばれる別のタイプの文章が存在する。」(前掲「批評という病」)という言い方で。たとえ議論の端緒に過ぎないとしても、もともと定義をしようなどとしていないはずの辞書の説明を、仮置きにしても「批評の定義」と言わなければならない背景には何があるのか。

前掲「批評という病」において東は、前述の「別のタイプの文章」の内容として、「新しい情報の提供があるわけでもなく、新しい価値判断があるわけでもない、ましてや学問的研究の積み重ねがあるわけでもない、なにか特定の題材を設定しては、それについてただひたすらに思考を展開し、そしてこれといった結論もなく終わる、奇妙に思弁的な散文の伝統」と紹介し、これを「日本以外では」「哲学に分類されるタイプの文章」と評価する。それに続けて、「ぼくがここで『批評』という言葉で考えたいのは、その散文の伝統についてである」と明言する。そしてさらに、そのような散文(「思弁的散文」)の伝統は、正確に言えばそのような思弁的散文の「受容環境」は、2016年時点ですでに「存在しない」と言い切っている。その認識が、批評とはなにかを論ずるための導入として、あえて辞書的な説明から入らなければならなかったことの背景である。ここで提示されている問題意識は、かつて日本語の「批評」という言葉に与えられていた意味の一つが、現在ごっそりと抜け落ち忘れ去られ評価すらされないという状況を現実として受け止め、あらためて「では、あの批評と呼ばれた思弁的散文、あれはなんだったのか」を現在の文脈において評価し、現在において意味あるものとして立ち上がらせるには、どのような言葉を用いればよいのか、ということであろう。

東浩紀はすでに回答を出しているように見える。前掲「批評という病」において、前述の「思弁的散文」の結晶ともいえる作品として柄谷行人の『探求I』『探求II』というテキストを掲げ、「この時期の柄谷の仕事は、戦後日本に固有な条件を、その固有性を維持したまま非固有化し普遍化しようとした試みという点で、逆説的にとても特殊で、戦後日本に固有なものとして解釈すべき」と評価している。批評の定義はこれに尽きる。すなわち、「批評」とは、「戦後日本に固有な条件を、その固有性を維持したまま非固有化し普遍化しようとした試み」と定義できるのである。

この定義を噛み砕いて考えてみたい。この定義に共感し、これをこの課題の回答としたいからだ。ここでいう「試み」とは、そういう思考の形式を作り上げる試みということで、概念としては「思考の形式」に包括され、そのすぐ下位に位置付けられて、西欧の「哲学」という概念に対置されるものである。なぜそのように考えるのか。柄谷行人の文章にはまだ馴染みがないが、その先達とも目される吉本隆明の文章は、分からないながら好んで読んでいた時期がある。その批評文は全体として、西洋哲学というものに乗っからない、「自前の思想」を作り上げるという意気込みが常にあった。私なりに、吉本隆明は「西欧の思考形式の長く重厚な伝統に対抗できる独自の思考形式を築いていこうという夢」を見ていて、その苦しい道のりを孤独にかき分けているのだな、と感じていた。西欧の哲学は、堅牢な地盤を持っているように見えるが、吉本隆明の文章は何かそれとは違う、ふわふわした暗黒ガスに足をかけてぐらぐらしながら必死に言葉を紡いでいるように見えた。死ぬまで俺はこうするのだと歯を食いしばりながら。

肝心のその批評の内容については、感覚的な、とりとめもない感想しか出てこない。私は吉本隆明の文章を本当はさっぱり理解できなかったのだから仕方ない。ただその「批評的態度」はとてもいいと思った。こういう文章の伝統が衰退して消滅してしまうのはもったいないことだとも思った。しかしながら、日本で批評家として最高峰の誉れを有すると言っていい柄谷行人は『柄谷行人インタビューズ1988-2001』「文学と運動」で、「いま僕は、外国では哲学者と名乗っていますけどね。批評家といっても何の価値もないし、かといってそれをいちいち説明するのも面倒くさいから。」と言い、また同「飛躍と転回」では、「それまで考えていたことを、哲学の保守本流であるカントに即してやってやろう、それで、本流そのものを変えてやろうということを企てるようになった」「カントをやったときに初めて、自分が哲学者というものになったのではないかなと思いました」と言っている。つまり柄谷行人は、日本独自の思考の展開かもしれなかった批評という伝統は、西欧の哲学に統合されてしまうべきだと考えているように見える。これは心もとない、少し寂しい展開である。

そんなに慌てなくてもよくて、「戦後日本に固有な条件を、その固有性を維持したまま非固有化し普遍化しようとした試み」と定義される「批評」がどのように展開し、どのように世界を豊かにし得るかは、もう100年くらい続けてから判断してもよいのではないかと思う。だから私はこの定義に、少し言葉を付け加えよう。「批評とは、戦後日本に固有な条件を、その固有性を維持したまま非固有化し普遍化しようとした試みであって、未だ浅い歴史しか持たぬものの、現在でも日本の言語空間において一定の地位を占め、未来の評価を待つものである」と。

 

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