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岡田利規とは実効性ある救いをもたらす妄想の型を提供する人である。

 

 

いいですか、したがって、あなたが法廷から逃れるためには、世界の果はてに行ってしまえばいいのです。

 安部公房『S・カルマ氏の犯罪』

 

 

第2回大江健三郎賞を受賞した『わたしたちに許された特別な時間の終わり』は、『三月の5日間』と『わたしの場所の複数』という二つの中編からなっている。大江はその選評で、これらの小説につき、「読むことで生き生きとした労働意欲をかきたてられる」「まだお会いしたことのない作者にお礼をいいたい」と感想を言う。そして『三月の5日間』について、「この中編小説が、物語も人物たちもまったく単純に選ばれているのに、小説としての進行が内包するものはじつに豊かであるのは、作者がじつにスムーズに転換する、語りの主体が多様であるからです。」と分析する。

この分析に、私は首を捻ってしまった。語りの主体が転換していく構成それ自体が、この小説の素晴らしさを支えているとは思えなかったからだ。むしろ、次に述べるように目まぐるしく変わる語り口にもかかわらず、この小説が異様な密度を、例えて言うなら四方を分厚い壁で仕切られながら、その壁を感じずに済むよう中の人間がぐっと体を縮こめている、その見事な表象を保てているのはなぜだろう、と訝ったのである。

目まぐるしく変わる語り口、とは以下のようなものである。

  1.  冒頭の、群像劇を描写する神のような目線(例えば、「ある者は、連中はどうせ六本木で降りるだろうからそれまで辛抱すればいいのだろうと考えていた。」といった描写に現れるように、主人公となりそうな酔っ払いの6人のみでなく、その周りの電車の乗客の心理までが語られている。)。
  2.  次に、6人の酔っ払いの中で唯一、目的地を認識していた「東」という男の主観と、その追想。
  3.  次に、その「東」の追想の中で、「東」が余った映画のチケットを映画館の入り口で売りつけた「惰性で食べる締まりのない容姿」の女の子の主観。
  4.  それから、女の子の主観のまま追想の場面が終わり、「東」の主観に戻って、六本木の目的地であるライブハウスでのパフォーマンスの様子。「東」の主観のまま、「東」が「ああいう前髪の女の子とセックスした」いと思った女の子とライブハウスから抜け出してホテルに向かうタクシー内で遠慮がちに女の子に触ったり。
  5.  タクシーで「東」と一緒にホテルに行く「顔は少し吊り目に見える」女性の主観。それから5日間、「いつまでも続けるのは、普通に考えて、無理っぽい」セックスを中心として合間に話したりするホテルでの生活がその女性の主観で当面は語られる。
  6.  そして、その5日間が終わりに近づき終わっていく描写では、「東」と「顔は少し吊り目に見える」女性が三人称で均等に語られる。終盤では「彼」「彼女」は「男」「女」という無記名さの増す呼び名になっていて、しかし気持ち女の方の主観っぽく語られる。

えー……と、ならないだろうか。要約しようすると、大変疲れる。こんなふうに、ガタガタやられたら普通、読めたものではない。作者の技量。それを言ってしまえばそれだけのことなのだが、もう一歩、こういう読み方をするとこの小説はものすごく面白いし題名にあるように岡田利規は確かに実効性ある救いをもたらす妄想の型を提供していると言える、そういう読み方の提案ができる。多分すでに、どこかで誰かが言っているのかもしれないが。

それは、この小説が、全体にわたって、上記3.の、「『東』が余った映画のチケットを映画館の入り口で売りつけた『惰性で食べる締まりのない容姿』の女の子」の妄想である、という読み方だ。それを示唆する描写、これがその仕掛けだと、言えないこともない箇所がある。『惰性で食べる締まりのない容姿』の女の子」の独白の、最後の部分だ。

「とは言っても、要はもう帰るというニュアンスのことを彼が言っているのだ、というのは分かって、案の定彼はそのあと少しだけ申し訳なさそうな様子を私に見せたもののその直後にもう、さようならと言って私から離れて、スタスタと映画館を出た。完全に私のことが見えなくなってから歩を緩め、一度振り向いて、私が追っかけてきていないことを確かめた。それから、当初一緒に映画を見るはずだった彼女に電話して、今日見た映画はクソだった、半分以上寝た、と言った。ほかにもいろいろ話しているうち、これから会うことになって、自分の家に帰るために乗るのとは別の地下鉄に乗った。」(岡田利規『三月の5日間』)

語り手の知りえないことが、特に説明もなく、語り手の主観として語られる。このような、いわば主観の破裂のような描写は、この小説の他の部分では全く見られない。目の前にいる他人の目線や考えていることについて語り手の主観として描写されている部分はあるが、目の前にいる人間の目線や内面を推測して主観として語ることは普通のことのように見える。だがある事実について、その場に居合わせなかったにもかかわらず、後から知ったという説明も何もなく、主観としてまるで見ているかのように語るのは、これは妄想の描写だ。そしてそういう描写は、本当に上記引用の箇所しかない。付け加えればこの小説の登場人物の中で、最も人間らしい内面が語られていて、そして一番救いを必要としながら唐突に放置されるのはこの語り手だけだ。

「映画が終わってから今までの一時間足らずの間で、どれだけの数のイタイことを、一体やっちまったんだろうという、そんな星の数は、私は数える気にはならないと思った。ほんとに数えだしたら、めちゃめちゃみじめすぎて、たぶん死にたくとかなるし、だからそんなことはしない。もう生きていけないんですけど私というくらい今、私は体が熱くなっている、と思った。」(岡田利規『三月の5日間』)

要は小説というものは、こんなふうに、「もう生きていけないんですけど私」という状態にある者を、何としても救わなければならないという使命があると思うのだ。その観点から考察すれば、この小説の存在意義は、「『惰性で食べる締まりのない容姿』の女の子」が、自分の精一杯の誘いを無下にして、「ぱつんとした斜めの前髪」の女の子とどこかに消えた「東(仮名)」について、彼らがしばらくは「超スペシャルな」絶品の甘い時間と空間を貪りながら、5日もすれば男は女の方にホテル代を多く負担させるという情けなさを露呈し、「ぱつんとした斜めの前髪」女はゲロで現実に立ち戻るという最悪な結末を迎えるという、微に入り細に入り穿った妄想で自分を慰めてめでたしめでたしというところではないだろうか。

私はこの小説を矮小化して解しているだろうか? いや、そんなことはない。私が言いたいのは、戦争なんか風景に過ぎないとか、日本の若者の現実逃避とか、そういう風俗的なことがこの小説のテーマなのではない、ということだ。岡田利規はこの小説で、人が逃げ込むことのできる「世界の果はて」、安部公房が冒頭の引用箇所で提示した場所(安部の小説ではそこは結局救いのない場所であったが)の、一つのあり方を提示していると言いたいのである。それが前述の、見ていない他人の行動や内面にわたって「微に入り細に入り穿った妄想」をすることなのだ。「『惰性で食べる締まりのない容姿』の女の子」は、内面の壁にとらわれていて、それゆえに救いが必要なのだが、その状況は、安部公房は『S・カルマ氏の犯罪』で描いた、壁が外側ではなく内側に成長しきってしまっているがゆえに身動きもままらなくなった人間の状態に酷似していると見える。

「彼女の若さは、彼女の顔をフォローするのでなしに、自分の顔の程度は何より自分が一番分かっているのだということが引き起こすあの卑屈さが行う顔への侵食を、むしろ助長していた。」(岡田利規『三月の5日間』)

「首をもたげると、窓ガラスに自分の姿が映って見えました。もう人間の姿ではなく、四角な厚手の板に手足と首がばらばらに、勝手な方向に向ってつき出されているのでした。

やがて、その手足や首もなめし板にはりつけられた兎の皮のようにひきのばされて、ついには彼の全身が一枚の壁そのものに変形してしまっているのでした。」(安部公房「S・カルマ氏の犯罪」)

安部公房は『S・カルマ氏の犯罪』で、このように内面の壁で身動きできなくなった人間を「結末」として提示し、救いを示さなかったが、岡田利規は『三月の5日間』で、すでにそうなってしまった人間が、自身を限界まで凝縮させて壁から逃れ、そのかわりに妄想を膨らませて、なんとか救いの回路と繋がろうとするところを描いているのだ。そしてそのテーマは、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』に収められたもう一つの中編、『わたしの場所の複数』でも、より顕著な形であらわれている。

もしも今キーボードの一つに触れて、画面を立ち上がらせたら、そのラップトップの中に今もまだキャッシュされているあのブログの、客にねちねちと言われたクレームをarmyofmeさんが延々と書き付けた言葉は、一面の漆黒の夜空の空間に、大映しになって、しかもそれは、なぜかどこまでもひとりでにスクロールされていって、……(略)……と、ここでスクロールバーのようやく下端に行き着いて、動きが止まる。そしてすかさず、画面はそれまでとまったく違うレイアウトをした、別のブログに切り替わる。でも、そこに書いてある投稿者の名前を、わたしは覚醒している意識のこっち側にもってくることが、つまりここにそれを書き出すことが、どうしてもできない。ただし、それが夫のブログだというのだけは、すぐにわかった。(岡田利規『わたしの場所の複数』)

『わたしの場所の複数』において、語りの主体である「わたし」は、上記の場面で、あるはずだと思って探していた夫のブログを読むという妄想を語っている。夫のブログには、「わたし」への憤懣が語られているはずだという思い込みが、内面の壁として表象される。「わたし」の中で大映しになるブログの画面は、あたかも『S・カルマ氏の犯罪』で描かれた「ぼく」がそれ自体になってしまった「静かに果てしなく成長していく壁」のようである。しかしながら「わたし」は、もう少し深く、自身の内面を覗き込むようにして見えていない夫を見つめることで、その壁から身を剥がす。自分の言葉(部屋が黴臭くて耐え難いだの、お金がないのに引っ越すなんで言うなだの)や仕打ち(夫を蹴る、夫が大事にしていたゲーム機を台無しにする)に対して、正面切っては全く反応を示さないに等しい夫が、実際はそれなりの衝撃を受けていて、動き出す夫の体の動きをひたすら想像の中で追うことで。その想像の中で、自分のメールに涙する夫を想像し、その傍にいる若い時の自分を想像し、自分の中の何かを慰める。実際は、夫は新しいバイト先など探してなく、深夜のバイトから帰らないのは仮眠をとってそのまま次のバイトに出かけたからだという「わたし」の想像はただの妄想に過ぎないとしても(妄想であるように書かれているのだ)、そこで、「わたし」は内面の壁から自分を引き剥がし、兎にも角にもゴキブリを退治するために立ち上がるというところまで回復している。

『三月の5日間』の「『惰性で食べる締まりのない容姿』の女の子も、妄想することで、死にたくなるような思い出を打ち消し、自分のことも肯定して、明日への活力をほんのわずかでも取り戻せたはずである。あのくらいの妄想ができれば、それは可能なはずだ。大江健三郎にすら、労働意欲を湧かせたくらいの出来なのだから。だから、質の良い妄想を、頑張ってやってみよう、その先にもしかしたら、本当の救いもあるかもしれない、とにかく死なずに今日を生きればそれでいいくらいの力強いメッセージ、それが岡田利規のあり方であろうと、私には思われるのである。

 

 

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