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村上春樹から遠く離れて

序、

“僕らは何かに属していないと、うまく生きていくことができません。僕らはもちろん家族に属し、社会に属し、今という時代に属しているわけなんですが、それだけでは足りません。その「属し方」が大事なのです。その属し方を納得するために、物語が必要になってきます。物語は僕らがどのようにしてそのようなものに属しているか、なぜ属さなくてはいけないかということを、意識下でありありと疑似体験させます”
(『村上さんのところ』より)

 これは村上春樹がWEB上で読者の「人はなぜ物語を欲するか?」という質問に答えたものである。ただ、村上は物語にもよい物語とわるい物語があるとする。そして、わるい物語に属してしまうと、オウム真理教のようになってしまうので、それに対抗するものとしての、よい物語を作る必要があるとしている。そのため、村上はよい物語を提示するために小説を書き続けている。

 だが、村上春樹の最新刊である『騎士団長殺し』は、発行部数が過去最高の130万部だったのにも関わらず、前回の長編である『1Q84』に比べて、一般読者からの反応も鈍く、話題にもあがっていない。一方で、文壇界隈では、『騎士団長殺し』について、数多くの書評が書かれ、評価も高い。かつての人気はあるものの、文壇からは評価されないという現象が逆転しているようにも思われる。村上春樹が書く「物語」は人々の心に届かなくなってしまったのだろうか。

 哲学者の國分功一郎は「現代の日本において、文学的に紡ぎ出される物語はもはや有効に作用しなくなっている」とし、同じ「物語」を「共有」できなくなっていると述べている(2018年3月2日、朝日新聞デジタルより)。國分は日本国憲法について、このような事を述べていたが、村上春樹の「物語」についても、同様のことが言えるのではないかというのが、この論考の出発点だ。そして、そんな時代だからこそ、今一度、正面から「物語」について考える必要があると思う。なので、この論考で、私たちは村上の「物語」を考察していく。そこで、念頭にあるのは、批評家の蓮實重彦の『小説から遠く離れて』における村上の物語批判に対する批判である。

 もう一つ、考察していくのが「歴史」についてだ。村上春樹は初期からも触れてはいたが、ある時期から「歴史」について、正面から書いた小説を書くようになった。それは、「物語」を書くうえで「歴史」が欠かせないという意識からなのであるが、村上は特に第二次世界大戦における中国、満州について書いている。ここでは、なぜ、村上が中国や満州について、書いたのか、また、それにはどうような意味があるのかを考えていく。そして、その際、念頭にあるのは、批評家の柄谷行人の『終焉をめぐって』における村上批判の批判である。

 以上、村上春樹の小説における「物語」と「歴史」という観点から、私たちにとって、「物語」や「歴史」はどのような役割を果たすのか、そもそも「物語」や「歴史」は必要なのか、必要ないのか、必要であれば、どのような「物語」や「歴史」があり得るのかについて探求していく。そして、そのために、主に文芸評論家の加藤典洋と批評家大塚英志の村上春樹評を手掛かりに「物語」と「歴史」を考えていく。

 

1-1、蓮實重彦による村上春樹批判への批判

 批評家の蓮實重彦は『小説から遠く離れて』において村上春樹の『羊をめぐる冒険』を井上ひさしの『古里古里人』、丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』などを挙げて、全て同一の物語構造に陥っているとして、批判している。そこで、ここでは、蓮實がどのような物語構造に陥っているから批判したかについてみていき、それに対する批判をしていく。

 では、蓮實は具体的にどのような構造になっていると述べたのだろうか。それは、「依頼」と「代行」、「宝探し」、「双生児」などである。例えば、『羊をめぐる冒険』であれば、主人公の僕はある大物右翼の秘書に「依頼」され、大物右翼にとって重要な役割を果たしてきた奇妙な羊の「宝探し」を「代行」する。また物語の途中には羊男という奇妙な羊と人間のハーフのような男という奇妙な「双生児」的人物が登場するといった具合である。このような特徴が前述した作品群において共通した構造として持っており、そこでは「小説の言葉」としての「運動」がなく、言葉が「死んでいる」ものとして表象されているので、小説としては劣っているものだと批判されている。また、蓮實は村上春樹について次のように述べている。

たとえば、村上春樹の長編のほとんどは、作者の完成と読者の感性とが、ときには彼らのそれに酷似した作中人物の感性によって共鳴しあい、それぞれが、ともに、同じ共同体の同じ時代を生きつつあるという安心感において連帯しあっているという意味で、「交通」を排した読まれ方に安住する言葉からなっているといってよい。その限りにおいてそれはよくできた物語だといえようし、その連帯に亀裂を走らせることなく、共同体のあり方そのものについてなにがしかを告げもするだろうが、「小説から遠く離れて」の冒頭で「几帳面な執着のなさ」という言葉で要約しておいた同時代的な感性の「表象」として、言葉は決して方向を変えることがない。その意味で、『パルチザン伝説』をその縮小形態として持つ『羊をめぐる冒険』は、村上の自己同一性を保証する物語として流通してはいるが、その外部へと横滑りする都市的な逃走線は周到に回避されているといってよい。
(『小説から遠く離れて』河出書房新社、280~281頁。)

 このように蓮實は村上春樹の作品は「共同体の感性のなかに自足して閉じ込められている」ので、「外部」がないと批判している。ここでいう「交通」とは、柄谷行人の言葉でコミュニケーションのことだが、要するに蓮實は、村上の作品は「外部」とのコミュニケ―ションの可能性がなく、「共同体」の「内部」にとどまっている「頽廃したロマン主義」として、批判している。だが、果たして本当にそうなのだろうか。共同体の「外部」などあり得るのだろうか。文芸評論家の竹田青嗣は笠井潔と加藤典洋の対話篇において、共同体の「外部」という発想は、70年代の反社会的ラディカリズムが存在しているという誤解にもとづいているとする。加藤はそれについてこのように述べる。

竹田さんは柄谷、蓮實という人たちの「外部」の批評は七〇年代のラディカリズムの最新の表現にすぎない、つまりもうこれは観念批判でしかなくて、状況はその先に行っちゃっているんだと言ってますよね。で、こう言っている。「七〇年代のラディカリズム」とは何かと言うと、「世界にたいして異和をたえず唱え続ける。そしてその異和の根拠を空無化しておく」、これがその発想の基本形なんだと。
(『村上春樹をめぐる冒険』河出書房新社、155頁。)

 そのため、加藤は村上春樹の自閉性を「頽廃したロマン主義」だと批判する蓮實や柄谷の「外部」論による批判こそ、自分たちが生活世界から飛び出している知識人に特有のマクシム(心の義)であり、ロマンティックだとする。それは、蓮實や柄谷が村上を批判した80年代においては、誰も特権的に共同体の外に立って社会を批判できないことをテーマに村上がしていたのに対して、蓮實と柄谷はそれがいまだに有効だと振舞っていたためだとする。これは、80年代においては、そのような共同体の「外部」というものはすでに存在しなかったのにも関わらず、蓮實や柄谷は70年代的な感性を引きづっていたため、村上の小説の良さを見抜けなかったということだ。だが、そもそも蓮實は、物語は同型のものでしかあり得ないこと、その中でよい反復を見つけることが重要だと言っていた批評家ではなかったのだろうか。その体現者である村上を批判するという事は、蓮實の中で小説はこうでなければならないという思い込み、信念があったと思われる。なので、村上春樹の新しさに気づけなかったのである。

 

1-2、村上春樹とオウム真理教

 さて、そんな村上春樹はオウム真意教の地下鉄サリン事件によって変わることとなる。それは、一言でいえば、今まで以上に物語の力を意識するようになったということだ。村上春樹は物語についてこのように述べている。

物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」のなかでは、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である。あなたは物語を作る「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレイヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で子であることの孤独を癒していくのである。
(『アンダーグラウンド』「目じるしのないない悪夢」講談社文庫、750頁。)

 ここで村上春樹は、私たちは物語の中でしか生きることができないと述べている。さらに、その物語は論理的でも、倫理的でも、哲学的でもない。だから、村上の描く物語というのは、論理的に考えれば矛盾しているところがあるし(騎士団長という存在するかしないか分からないものを殺す『騎士団長殺し』)、倫理的でもない(父を殺し、母と交わる『海辺のカフカ』)ましてや哲学的でもない(必殺仕事人のようなエンタメ要素をもった『1Q84』)。しかし、物語とは元々、そのようなものではなかったのだろうか。『古事記』などの日本の神話や世界の神話などを思い浮かべてもらえれば、それが論理や倫理、哲学でないことはわかってもらえるだろう。物語はそれらを超越している。これが、村上のいう物語である。

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