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國分功一郎は私たちを自由へと導く教師である

序、自由の条件

 國分功一郎は私たちを自由へと導く教師である。こんな事をいうと國分は大学教員なのだから、教師というのは当たり前じゃないかと思われるかもしれない。だが、ここでいう教師とは、単に地位や職業の事ではなくて、スピノザのいうような意味での教師の事である。スピノザのいうような教師とは何か。『スピノザの方法』の中で、國分はスピノザの方法は説き伏せて「従いなさい」とする事ではなく、「一緒にやってみましょう」と誘い、導く事であると述べている*1。なので、この論考でいう教師とは、スピノザの方法における「一緒にやってみましょう」と誘い、導くというような意味での教師の事である。このような定義において國分功一郎は我々を導く、教師なのである。実際、國分の著書を読んでみると、読者は國分とともに議論を展開しているような感覚に襲われる。これは國分が文章を書くという事においても、スピノザの方法を実践しているという事に他ならない。

 さて、そんな國分は自由を志向する。それは、『ドゥルーズの哲学原理』において、現れている。

政治哲学の問題は、なぜ、そしてどのようにして人々が何かをさせられるのか、ではない。なぜ、そしてどのようにして人々が進んで何かをしようとするのか、である。人々は自ら進んで搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにも、これらのものを欲する。政治哲学は、それを問わねばならない。この地点に到達しない限り、政治哲学は、抑圧するものと抑圧されるもの、支配するものと支配されるものという図式を決して抜け出すことができないだろう。したがって、下から、「低い所」から来る実におぞましい権力なるものをつかむこともできないだろう。服従を求める民衆が他の者にも服従を強いる、というありふれた、しかしいつまで経っても我々の目の前から消えてなくならない、あのおぞましい現実に迫ることはできないだろう。
 この問いかけは、次のように言い換えてもよい。なぜ人は自由になることができないのか?なぜ人は自由になろうとしないのか?どうすれば自由を求めることができるようになるのか?これこそが、<政治的ドゥルーズ>が発する問いなのだ。

國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書、222頁。

 「なぜ人は自由になることができないのか?」、「なぜ人は自由になろうとしないのか?」、「どうすれば自由を求めることができるようになるのか?」、これこそが、國分の著書における一貫した問題意識である。そのために、スピノザがいう「一人ひとりの精神・身体を貫いている必然性の法則を発見し、それに従って生きる」ことができる方法を提示する。なぜ、精神や身体を貫く必然性の法則を発見することが、自由に生きることにとって大事か。それは通常、人は自分の精神や身体の法則を知らずに、あるいは活かせずに生きているからだ。そして、スピノザによれば、そのような法則に従って、生きることこそが自由なのだという。自分の精神や身体の法則を知らない人間は自身の欲望をはき違えて、自ら進んで他人に従属しようとする。それを防ぐために、國分はドゥルーズ(ドゥルーズ=ガタリ)的な欲望のアレジメントを処方箋とし、その前提としてスピノザ的な自分の精神や身体の法則を認識するように導く。では、これから実際に國分が著書において、どのように私たちが自分の精神や身体の法則を認識し、欲望をアレジメントできるように導こうとしてきたかを考察していく。

 

一、『暇と退屈の倫理学』における問題設定

 『暇と退屈の倫理学』(以降、『暇倫』とする)は2011年に出版され、國分が注目されるきっかけとなった記念碑的単著である。『暇倫』の問いはタイトルにも表れている通り、なぜ人は退屈するのか、どのようしたら自由の条件である暇が作り出せるのかである。ひとつめの「なぜ人は退屈するのか」についての國分の答えはこうだ。

人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学ーー増補新版ーー』太田出版、299頁。

 ここでいう「環世界」とは、生物学者のユクスキュルが唱えた「それぞれの生物が生きている世界」のことだ。だから、『暇倫』の例で出てくるダニの世界と人間の世界とは違うということだ。だが、人間には進化の過程で、そのような「環世界」を比較的、移動する能力が高いからこそ、一つの「環世界」に留まることができず(他の「環世界」があることを知っているから)、退屈してしまうのだ。確かに、私たちは時折、鳥や猫などを見て、うらやましく感じることはないだろうか?「ああ~、自分が鳥や猫だったらな。こんなに退屈に思い患うこともないだろうに…。」と。國分が『暇倫』で書いてあるように、確かに鳥や猫でも退屈している可能性はある。しかし、これも『暇倫』に書いてある通り、鳥や猫は人間より、「相対的に、しかし相当に高い、一つの環世界にひたる能力をもつ」ので、私たちは鳥や猫をみて、うらやましく感じるのである。「鳥や猫の方が自分自身の法則に従って生きている。」と。
 

 後、ここで重要なのは、人間は「移動」する能力が高いということである。人間は「環世界」を移動する能力が高いがゆえに、退屈する。柄谷行人は國分功一郎の対談の中で、自由の条件は、「移動の自由」にあるといっていたが*2、退屈の条件にも「移動」が関係してくるのではないか。我々は「移動」を与儀なくされる。通勤、通学、買い物、なんでもいいが、「移動」が伴わないことなどない。『暇倫』で退屈の例としてあげられているのも、『ファイトクラブ』の主人公のノートンは、車のリコールを見極めるために、毎日のように飛行機で「移動」する、ハイデッガーは「移動」するために、列車を待つ、パーティーに参加するために「移動」するなど、退屈する場面には「移動」が絡んできている。このように考えると「移動」するということは退屈が伴う行為なのである。なぜなら、「移動」をするとき、人は別の「環世界」の存在に気付くことになるからである。そのように考えると、今のAmazonやNetflixなどのネットサービスは「移動」をなくすことで退屈しないように(「動物化」するように)していると考えられるかもしれない。
 

 もうひとつの「どのようしたら暇が作り出せるのか」についての國分の答えはシンプルだ。それは、「労働日の短縮」をすることにあるとする*3。「労働日の短縮」をすることで、暇を作り出し、暇を作り出すことで、人間的な生である退屈と向き合い、退屈と向き合うことで、自由になっていく。しかし、『暇倫』においては、暇については詳しく述べられていない。暇を作り出すのが、自由の根本的条件だとして、その答えが「労働日の短縮」では、何か物足りない。具体的なようで、抽象的な答えにとどまっている。確かに、國分は哲学者なので、哲学者が実際の社会を変革できるわけではないし(それは政治家の仕事だ)、社会に対して具体的な提言をするわけではない(これは社会学者やジャーナリストの仕事だ)。だが、國分はそのような認識を持ちつつも、暇を作り出す社会について考えていく。

 

二、暇を作り出すには

 前項より國分は『暇倫』で出した自由の条件である暇を作り出す社会について考えいくことになる。それが、古市憲寿との共著『社会の抜け道』、山崎亮との共著『僕らの社会主義』、大竹弘二との共著『新統治論』などだ。ここで、國分は社会学者、政治学者などと社会について語っている。これらの著書に共通する問題設定はふたつだ。ひとつは「大きな社会変革を望むのではなく、自分に身近なところから変革していこう」ということ。もうひとつは「いかに主権を使って行政に関わっていくか」である。このふたつのテーマについて國分は考えていくことになる。実際、國分は自身が住む小平市の道路建築問題の住民投票運動に関わったりしたりと、積極的に自分の身近な問題について行政に関わっていこうとしていた。それでは、具体的にその時、國分はどのような事を考えていたかについて考察していく。
 

 まず、國分はデリダを引き合いに出して、民衆主義とは「常に来るべきものにとどまる」ものであるので、実現されてしまってはならないとする*4。民主主義は理念であって、それが実現したというのは嘘であると。だが、かといって民主主義の理念を捨ててはならない。それを、捨てるということは、誰かの言いなりになることだと。だから、民主主義という不可能性にとどまって、どうしたら民衆主義に近づけるかを考えること。それが、大切なのだと國分はする。そして、それは民衆主義と区別された民主的な方法で追及されていくべきなのだとする。

 つぎに國分は、上述したような方法で政治に関わろうとした場合、障害になるのが、主権が行政に関わることが難しいことだとする。

主権は、立法を主な任務としている限りでは法の運用までは関われない。つまり、行政の実際の活動に関わることは難しい。にもかかわらず、そうした主権概念の欠点は、これまで十分に検討されてこなかった。統治が立法権を中心に捉えて理解されてきたため、行政は単に決められたことを粛々と実行する執行機関と見なされ、その事実上の権限は低く見積もられてきた。

國分功一郎『近代政治哲学ーー自然・主権・行政』ちくま新書、240頁。

 このため、暇を作り出す社会のためのテーマのひとつである、「いかに主権を使って行政に関わっていくか」が問題となってくる。実際、今の日本の政治を考えると、行政はかつての行政の役割と考えられていたより、強大な力を有している。それは、官僚や内閣の発言力の大きさをみれば、わかるだろう。いくら立法でよい法律を作ったところで、それを運用、決定するのは行政なのである。そして、そのような行政に民主的に関わることは残念ながら、今のところ、手札は少ない。だから、國分は行政に関われる制度は、ドゥルーズの「民衆主義とは、多くの制度とごくわずかの法律をもつ政体である。」という言葉を引き合いに出し、多ければ多いほど、よいとする*5。そこから、住民投票の改正、審議会などの諮問機関の改革、またこれを発展させたものとして、住民と行政が参加するワークショップ、パブリック・コメントを集めることを制度として提案している*6。

 つぎに、もうひとつのテーマである「大きな社会変革を望むのではなく、自分に身近なところから変革していこう」ということについてみていく。國分はそれについて、このように語っている。

地域での住民の政治参加って本当に大切だと思う。政治参加を通じて、例えば、自分と意見の違う人がいることを理解する。どうやったらそういう人たちと話ができるのかを理解する。それを通じて、どうやったら物事を変えられるかを理解する。変えられなかったら、さらに勉強する。そうすると、変えてみようと思う範囲は少しずつ大きくなっていくかもしれないよね。身近なところからやってみるというのが実は近道かな。

古市憲寿・國分功一郎『社会の抜け道』小学館、250頁。

 そうして、そのような経験がないから、社会を「ガラッと変える」発想になるとする。だから、ここで、國分は社会を「ざっくり」と眺めるのでなく、「社会はあちこちで水漏れを起こしている」ので、「個別具体的な一つひとつの問題」を解決することに力を注ぐべきだとするのだ。『社会の抜け道』の中の話題であれば、保育園の問題などがそれである。このように國分は社会を少しずつ変革していくことで、暇を作り出す社会を目指す。暇を作り出す社会とは、言い換えれば、余裕のある社会を目指すということである。これは、最近、國分がよく口に出す「精神的貴族性」という問題につながっていく。『暇倫』の中でも、経済学者のヴェブレンの『有閑階級の理論』を取り上げ、有閑階級は暇のなかで退屈せずに生きる術を知っていたと書いてある*7。そこで、次に私たちが考察するのは退屈せずに生きる術である。

 

三、退屈せずに生きる術

 『暇倫』の中では、退屈と向き合うことが人間らしい生であった。そして、そのためには、楽しむ事を訓練することが必要だと書いてある。しかし、どのように楽しめばよいのだろうか。楽しさには、心地よさ、快楽も含めてよいと思うが、國分は今まで哲学は美の問題は取り扱うが、楽しさ、心地よさ、快楽については考えてこなかったのではないかという*8。快楽といえば、真っ先に思い浮かぶのが、セックスだと思うが、『暇倫』の注には、このように述べている。

性的な楽しみ、たとえばその一例であるセックスですら、訓練が必要である。相手とどう身体を組み合わせ、どれぐらいの時間をかけるか、相手の反応にどう反応するか、そうしたことを訓練していなければ性的な快楽も訪れない(だからいわゆる初体験はほろ苦い思い出として描かれる)。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学ーー増補新版ーー』太田出版、412頁。

 このように國分にとってセックスも楽しさの例外でない。実際、國分は「より良いセックスのための完全バイブル」と称された産婦人科医のフランソワ・オリヴァンヌが書いた『産婦人科医が答える 誰にも聞けないセックスの悩み』の帯文を書いている。

性生活が精神と肉体に与える影響は計りしえない。しかし我々はそれを熟知せず、また語り合うこともない。うなずきながら、恥ずかしがりながら、そして、ゲラゲラと笑いながら、この本を読んで奥深いセックスの世界を探求しよう!

フランソワ・オリヴァンヌ、ソフィ・ブラムリー著『産婦人科医が答える 誰にも聞けないセックスの悩み』太田出版、帯文より

 このように國分にとって、セックスさえもスピノザのいう自身の「精神と肉体の必然性の法則を発見し、それに従う」べきであって、仮にセックスがうまく出来ないのならば、それは自身の「精神や肉体の法則」が分かっていないのであり、分かっていたとしても、うまく出来ないのなら、その「法則」に慣れていなのであり、訓練する必要があるということだ。快楽でさえも訓練して得られるものだというのは、大きな示唆に富む。
 

 さて、『暇倫』の中では、退屈の反対は快楽ではなく、興奮であり、快楽を得ることがいかに困難であることを述べている*9。そして、國分はそのような快楽を哲学が扱えなかった理由として、快楽は不純なものが混じっているためではないかという*10。哲学ではほとんど触れられてこなかった快楽だが、その中において快楽について考えていたのがロラン・バルトだとする。ロラン・バルトは『テクストの快楽』の中で、「テクストの快楽は集中していない読書における不純なもの」だとして、快楽を不純なものとして捉えているとしている*11。
 

 また、國分は退屈せずに生きる術として、「浪費」をすすめている。國分によれば、「浪費」は「消費」とは違う。「浪費」とは、「必要を超えて物を受け取ること」である。『暇倫』において、イギリスの社会主義者、ウィリアム・モリスを引き合いに出して述べられる「人はパンがなければ生きていけない」、しかし、「パンだけでなく、バラももとめよう」ということである。「人の生活がバラで飾られる」ような「贅沢」をすることが退屈せずに生きる術なのである。しかし、「消費」は「記号」や「観念」を「消費」するだけなので、キリがない。「浪費」はあくまでも「物」に基づいているので、「必要を超えて」、「贅沢」するといっても限りがある。だから、「浪費」と「消費」は違うのだ。そして、そのような「バラ」=「贅沢」が出来るようになることが、人間の「尊厳」にもつながってくるのだとする。このような國分の哲学だが、國分の哲学には前提となる条件がある。それは、「他者」の存在が前提となっているということだ。次項からは、なぜ國分の哲学において「他者」が必要かについて考察していく。

 

四、他者の必要性

 さて、國分の哲学には他者が必要となる。東浩紀は千葉雅也との違いを挙げて、國分の哲学をこのように述べている。

それはひとことで言えば、他者との「接続」に重点を置くか「切断」に置くか、というちがいです。國分さんは「接続」に重点を置く。自分と他者のどちらが主体なのかわからない状態にいかに身を開くか、という問題意識を一貫して持っている。

東浩紀編『ゲンロン7--特集 ロシア現代思想Ⅱ』ゲンロン、7頁。

 この他者との「接続」は『暇倫』の増補新版に詳しく書かれているが、そこでは、精神医学等の専門用語である「サリエンシー」という概念を導入して、説明されている。「サリエンシー」とは、精神生活にとっての、新しく強い刺激のことだが、國分は「自己」は、「サリエンシー」という「<他>」に対する「慣れ」の中で形成されていくのではないかと述べている*12。これは柄谷行人がいう「他者」の概念とも近い。柄谷行人は「他者」というのは、自己の「外部」にあるのでなく、自己の「内部」にあるのだとするが、これは、國分が「サリエンシー」という概念を使って、「自己」を説明するときと同じである。つまり、どちらも自己というものは「他者」なしには成立しないということなのである。また、これは仏教のいう「縁起」とも似ているかもしれない。全てのものは関係によって成り立っているのだと。
 

 そのように國分のいう自己は他者なしには成立しないゆえに主体的なのだが、なぜ他者が必要になるのかというと、國分は「サリエンシー」という痛みを負っているからだとする。どういうことかというと、「サリエンシー」は記憶と強く結びついており、「サリエンシー」に慣れる際に負った心の傷が記憶ともによみがえるが(その際には、実際に身体的な痛みを伴うこともある)、その傷を癒やすために、他者を必要とするのだとする*13。これは、AV監督の二村ヒトシがいう「心の穴」という言葉と近い。実際、國分は二村の『すべてはモテるためである』の中で対談している。二村のいう「心の穴」とは、すべての人間が持っていて、「さみしさ」や「かかわった人を苦しめてしまうネガティブな感情」だけでなく、「行動のクセ」や「その人らしさ」や「その人の魅力」も、その穴から湧いてくるものだと述べている*14。それに対して國分はこのように述べている。

僕自身、やっぱり愛する気持ちは、もともと備わっている先天的なものではなくて、その人自身が持つ「心の穴」によって発生するものだと思うんです。この「心の穴」は、しかし、誰かによって、主に親によって、ほぼ必然的にあけられる。そして、その穴があるゆえに、それを埋めてくれる誰かを欲する。

二村ヒトシ『すべてはモテるためである』イースト・プレス、222頁。

 そして、このような「心の穴」があるということを認めた上で、他者との関係、先述の対談のなかでは、特に親との関係について考えていくべきだとしている。この「自己」は「他者」が必要だとする議論は、『ゲンロン7』の中でも東自身が述べているが、東のルソー読解への批判でもある。これは、國分の哲学は「主体」になることが想定されていて、東のいうようなルソー的な人間像である動物的=非主体的なままではいられないということを意味する。なぜなら、東のいうような人間、『暇倫』の増補新版では、「まっさらな人間」はおらず、それぞれの傷=「心の穴」を抱えているのだから、他者を必要とせざるをえず、ひとりで居続けることはできないことになるからだ。そこで想定される人間像は、ある意味、まっとうというか、人間らしい人間、孤独には耐えられない人間像である。では、なぜ、國分は、東のいうような動物的=非主体的な人間ではなく、主体的な人間を志向するのか。それには、『中動態の世界』を紐解いていく必要がある。

 

結、そして自由へ

 前項では、國分は、人は傷を負っている以上、誰かを必要とするのだとした。そして、そのためにも國分は主体的になる必要があると主張する。國分は『中動態の世界』でこのように述べている。

スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。だからスピノはやや強い言い方で、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができると述べた。

國分功一郎『中動態の世界』医学書院、262頁。

 この一文に國分の哲学の全て、『中動態の世界』の一番、言いたいことが凝縮されている。われわれは自由になるためにこそ、能動的に、主体的になる必要があるのだ。だが、こう言うと戸惑う方もいるかもしれない。「『中動態の世界』は中動態になることを奨めている本ではないのか?」と。確かに、『中動態の世界』は中動態がわたしたちの世界にとって忘れ去られており、それを取り戻すことを目指しているが、それは一面の真理に過ぎない。われわれの生きる世界が本来、中動態であるからこそ、むしろ能動的=主体的になる必要があるのだ。どういうことか。詳しく説明していこう。
 

 國分によれば、中動態は力の変状の過程のことであり、能動的か受動的かは、行為の質の違いであるとする。行為の結果が「われわれの本質を十分に表現しているとき」は能動的であり、「外部からの刺激を与えたものの本質を多く表現している」場合には、受動的であるとしている*15。國分はそこで、カツアゲの例をあげる。困っている人にお金を手渡す場合と、脅かされてお金を渡す場合では、行為の方向だけに注目すると区別できない、しかし、質の違いで考えると、困っている人にお金を手渡す場合は、その人の「本質を十分に表現している」から、能動的である。逆に脅かされてお金を渡す場合は、その人の「本質を十分に表現して」おらず、「外部からの刺激を与えたものの本質を多く表現している」ので受動的なのである。だから、國分のいう能動的、受動的というのは、外部からの刺激により、内部の絶えず移ろいでいく過程である中動態の表れとしての質の違いであり、そもそも、中動態ありきなのだ。純粋な能動態が存在しないように、純粋な受動態も存在しない。そこには、不純な混じりものだらけの、能動態や受動態が存在するだけだ。東が日本はそもそも中動態の国であり、中動態を全面に出すことは、むしろ弊害の方が大きいのではないかと言っていたが、國分は『中動態の世界』で、中動態がすべてと言ったわけではない。ただ、われわれの世界の本質は「中動態」であるということを主張したのである。中動態はあくまでも、過程であり、結果ではない。
 

 さて、世界はそもそも「中動態」的であると主張した國分だが、なぜそのようなことを主張する必要があったのだろうか。それは『中動態の世界』にも書かれているのだが、薬物やアルコール依存症の方々との交流が大きいと思う。薬物やアルコール依存症の人は能動的に自分の意志で依存症から克服しようとするとうまくいかない。そして、それを「自己責任」だ、「努力が足りない」と言われると、ますます依存症から抜け出せなくなる。しかし、四項でみてきた通り人間は「自己」というものを形成していく上で、「他者」が必要不可欠である。むしろ、「自己」とは、「他者」のかたまりといってもいいだろう。だから、『中動態の世界』でも述べられている通り、純粋な「意志」、「責任」などは存在しない。複雑に入り混じった不純な「意志」や「責任」があるのみだ。だから、他人を「自己責任」だ、「努力が足りない」だ、「意志が弱い」などと突き放す人は、自分をも否定することになってしまう。月並みな言い方だが、人はひとりで生きているわけではない。一人で生きているつもりの人でも、必ず、他者に支えられて生きている(これは必ずしも、人間だけだとは限らない)。人は孤独で弱い存在なのだ。
 

 しかしだ。國分は中動態に留まることをよしとしない。強固に作られた立派な「責任」や「意志」のある「能動的」で「主体的」な人間像を解体したあとで、再構築をはかる。それは、以前のように強固で立派な人間像ではない。つぎはぎだらけで、傷だらけの不純で弱々しい人間像だ。しかし、だからこそ、國分は自由になるべく、不純ながらも「能動的」で「主体的」な人間を目指すし、われわれにもそれを促す。だから、もしかしたら、その結論は薬物やアルコール依存症の方には厳しいものになるのではないだろうかと思われるかもしれない。だが、カツアゲの例で考察した通り、質が大事なのだ。結果は同じようにみえても、そのプロセスが違う。それは、この世界には純粋な「能動態」や「受動態」は存在しないことを知ったうえで、「心の穴」や「傷」を理解してくれる他者と、二項でみていたように、楽しみながら、少しずつ訓練することで、中動態を経て、今までの自分の欲望の法則を認識することで、少しずつ能動的で主体的な人間になり、いずれは自由になっていくことだろう。それには、十分に自分の欲望と向き合えるだけの暇がなくてはならない。欲望は必ずしも、自分の本質を現しているものだとは限らないし、そこには自分が見たくないもの、不純なものが混ざっている可能性がある。そのためには、欲望に向き合えるだけの心の余裕、暇を生み出す社会が必要だ。そして、それはひとりでは難しい。だから、他者の助けが必要だ。その意味で國分功一郎は私たちを自由へと導く教師なのである。

 


*1 國分功一郎『スピノザの方法』みすず書房、355頁。

*2 『atプラス15』太田出版、4~27頁。

*3 國分功一郎『暇と退屈の倫理学ーー増補新版ーー』太田出版、369頁。

*4 國分功一郎『来るべき民衆主義』幻冬舎新書、201頁。

*5 前掲書、144~146頁。

*6 前掲書、18~21頁。

*7 國分功一郎『暇と退屈の倫理学ーー増補新版ーー』太田出版、177頁。

*8 京都府立文化芸術会館 連続講義「芸術は何処へ?」第三回配布資料、『美と快楽、そして批評へーー哲学は美を捉えているか?--』より。

*9 國分功一郎『暇と退屈の倫理学ーー増補新版ーー』太田出版、57~58頁。

*10 『PLANETS8』第二次惑星開発委員会、192頁。

*11 京都府立文化芸術会館 連続講義「芸術は何処へ?」第三回配布資料、『美と快楽、そして批評へーー哲学は美を捉えているか?--』より。

*12 國分功一郎『暇と退屈の倫理学ーー増補新版ーー』太田出版、420頁。

*13 前掲書、435頁。

*14 二村ヒトシ『すべてはモテるためである』イースト・プレス、221頁。

*15 國分功一郎『中動態の世界』医学書院、256~257頁。

 

 

 

 

 

 

 

 

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