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言葉は存在の家である。だが…

 ハイデガーは『ヒューマニズムについて』において、「言葉は存在の家である」という。だが、果たして本当にそうなのだろうか。國分功一郎は中沢新一との対談をまとめた『哲学の自然』の中でハイデガーの限界は「住むことが人間の本質だ」と断言したことにあると述べる*1。確かに人間が定住化したのは約一万年前で、四〇〇万年前までさかのぼれる人類の歴史からすると、定住化したというのは、ごく最近の出来事にすぎない。ルソーも『人間不平等起源論』の中で不平等の起源を定住化にあるとしている。そのように考えると人間の本質を「住むこと」=「家」としたハイデガーは國分の指摘するように一万年前からはじまった「新石器時代」からのことしか考えていないことになる。しかし、そうではない。
 『哲学の自然』のなかで言及されているように、ハイデガーは哲学の起源をわたしたちが通常、哲学の起源だと考えるギリシャ哲学以前の「イオニア的」なものに求める。そこから、『ヒューマニズムについて』の中で展開されるような形而上学批判が行われるのであるが、ハイデガーは通常のギリシャ哲学以後の形而上学に対して、「イオニア的」な「自然」を擁護する。イオニア的なものとは何か。柄谷行人によると、「イオニア的」なものとは、古代イオニアで実現されていたような普遍的な自由と平等を理想とすることである*2。そのような「イオニア的」なものをハイデガーは「自然」とみなす。では、そのような「イオニア的」な「自然」はどのような条件のもとで可能なのだろうか。柄谷は「移動の自由」にあるのではないかという。「移動の自由」があるからこそ、私有や支配という概念がなく、自由と平等が実現されていたとするのだ。では、仮に「イオニア的」な「自然」を実現する条件として、「移動の自由」があるとして、そのような「自然」を追求したハイデガーはなぜ、人間の本質を「住むこと」=「家」としたのか。その答えのヒントは初期ギリシャの思想にある。
 宮台真司は初期ギリシャにおいては、「言葉の概念的使用の依存を、絶対神への依存と同様に徹底的に却けて、かわりに、言葉にならない理不尽や不条理に心身を開くことを推奨して」きたという*3。また、言葉に覆われた近代社会であっても、性愛関係や家族関係は言語外の感情にもとづくものだとしている。これは東浩紀が『観光客の哲学』の中で、ルソーを引き合いに出して述べたような、人間は本来、ひとりでいたいのにも関わらず、家族や社会を作ってしまうという逆説にもつながってくる。そう、性愛関係や家族関係は合理的なものではないのだ。また、性愛関係や家族関係というものは人間にとって本質的なものでもある。では、ハイデガーはそのような性愛関係や家族関係が実現する場所が「家」だと考えたのだろうか。だが、それではまだ不十分だ。ハイデガーはむしろ、逆のことを考えていたからである。
 さきほど述べた性愛関係や家族関係は言語外の感情にもとづくというのは、計算不可能性と言ってもいい。ハイデガーも「存在」を「計算性」の中に組み込まれることを批判していたと中沢はいう*4.そこから考えると、「存在」は「言葉」が担っている「計算」可能なものではなく、むしろ、「計算」不可能な「言語外の感情」に属するものであるということだ。そうすると、改めて疑問が浮かんでくる。では、なぜ、そのような言葉の限界を知り、「存在」が「計算性」に組み込まれることを批判したハイデガーは「言葉は存在の家」であると言ったのか。そこには、何か矛盾したもの、そこにこそハイデガーの本質があるのではないか。そして、そのヒントはハイデガーの概念である「本来性」にある。
 ハイデガーの「本来性」とは、その名の通り、人間の「本来の姿」という意味である。宮台のいう「<ここではないどこか>」といってもいい。そして、わたしたちは、そのような「本来性」から「疎外」されているとする。ハイデガーは、宮台によれば、人は言葉を使う理性的な存在であるから、どんな「<ここ>」にいても「<ここではないどこか>」を志向してしまうのだとする*5。これがハイデガーのいう「脱自」(エクスタシス)だが、宮台は人間には「内在系」と「超越系」の2種類あるとする。「内在系」とは、普段の生活がうまくいけば幸せに思えるタイプ、「超越系」とは、どんなにうまく生きられたとしても幸せになれないタイプのことである。そして、そのような「超越系」の人間が「本来性」を追い求めてしまうとする。ここに、ハイデガーが「言葉は存在の家」といった本当の意味がみえてくる。詳しくみていこう。
 ハイデガーは『ヒューマニズムについて』のなかで、人間の特性として、「世界・内・存在」があるとしているが*6、「世界・内・存在」とは、宮台によれば、「枠の中にいること」だとする。「枠の中」、これはまさに「存在の家」というときの「家」のことである。そして、ハイデガーは人間というのは「存在の家」の外である「本来性」を志向してしまうことも知っていた、宮台のいう「超越系」の人間である。だからこそ、あえて「言葉は存在の家」といったのだ。言葉は「内在系」の人間がうまく生きていくための「家」、しかし、「超越系」の人間は言葉以前の感情にもとづく「本来性」を求めてしまう。だから、ハイデガーの「言葉は存在の家」という正しい表現はこうだ。存在にとって「言葉は存在の家」である、だが、それだけではない。しかし、ハイデガーは「本来性」を求める人間の危うさを知っていたからこそ、「言葉は存在の家」という表現にとどめたのである。「本来性」の危うさについては、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』に詳しく書いてある。
 國分は「疎外」というものを考えていくと、「そもそもの姿」、「戻っていくべき姿」としての「本来性」というものが現れてくるとする*7。そして、そのような「本来性」は「本来的」な姿の強制とそこに入れない者に対しての排除に至るのだとする。このような危険性をハイデガーも十分に理解していたと考えられる。國分は「本来性なき疎外」を考えたが、宮台は同じようにハイデガーも「本来性」が実現すると考える「<本質疎外論>」に対して、「ヒトはどこでも「脱自」するので本来性に行き着けない」という「<受苦的疎外論>」を唱えていたとする*8。だからこそ、ハイデガーは「本来性」というものに警戒し、「非本来性」を前面に押しだした「言葉は存在の家」であるという表現をしたのである。ひとは「非本来性」から逃れることはできない。
 ところが、そんな表象不可能な「本来性」を可能だと考えることを批判したハイデガー自身もナチスを擁護するという表象不可能である「本来性」を可能だとしてしまった事実は、ひとが「本来性」を可能にしたいという欲望からも逃れられないということの証左である。この事実を、わたしたちは重く受け止めなければならない。だからこそ、わたしたちに必要なことは、安易に言葉以前の「本来性」にいくことではなく、言葉という「非本来性」を考えぬくことである。宮台は「誰よりも論理的な人がいるとしたら、その動機は徹底的に非合理である」といっていたが、言葉以前の「本来性」を求めてしまうわれわれは、徹底的に「非本来的」な言葉について考えなければならない。そこから、「ヒューマニズムについて」も考えることができるのだ。
 以上のように、ハイデガーの「言葉は存在の家である」といった真意を考えてきたのだが、言葉について徹底的に考えるとは、「家」について徹底的に考えることにもつながる。最近、公開された清原惟監督の『わたしたちの家』はわたしたちにとって「家」とは何であるか考えさせる映画である。『わたしたちの家』はわたしたちに存在の謎を突きつけてくる。わたしはまだ、その謎を解くことはできない。國分が『暇と退屈の倫理学』のなかで結論付けたように、「思考」に「<とらわれ>」るのを「待ち構える」だけだ。ハイデガーは「声」を重視したが、われわれにできることは、そのような「存在の声」に耳を傾けることぐらいである。

 


注釈

*1 中沢新一・國分功一郎『哲学の自然』太田出版、56頁。

*2 『atプラス15ーー特集『哲学の起源』を読むーー』太田出版、4~27頁。

*3 宮台真司『正義から享楽へーー映画は近代の幻を暴くーー』blueprint、58頁。

*4 中沢新一・國分功一郎『哲学の自然』太田出版、49頁。

*5 宮台真司『正義から享楽へーー映画は近代の幻を暴くーー』blueprint、199頁。

*6 マルティン・ハイデガー『ヒューマニズムについて』角川文庫、53頁。

*7 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社、165頁。

*8 宮台真司『正義から享楽へーー映画は近代の幻を暴くーー』blueprint、199頁。

文字数:3622

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