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批評とはこの世界を肯定することである

 批評とはこの世界を肯定することである。その事を確認するために、日本を代表する批評家である蓮實重彦と柄谷行人の批評観をみていくことで、批評とはこの世界を肯定することだということについて探求していく。さて、蓮實重彦は批評を書くことは、アクシデントに遭遇することだという。

ぼくは、アクシデントが可視的であれ不可視的であれ、そこに生成された「記号」によりそい、その運動をまさぐることを批評として実践しています。まさぐるというのは、それがすぐさままというるイメージや物語にさからいながらということで、その意味では「記号」の擁護が批評だということになる。(柄谷行人[編]『近代日本の批評Ⅲーー明治・対象篇--』講談社文芸文庫、252頁。)

 このように蓮實は「記号」の擁護こそが批評だという。そこから「記号」のみを取り出して、語るという「テマティスム」という方法をとる。
 一方、蓮實と同じく日本を代表する批評家である柄谷行人は蓮實のいう「記号」を「外部」とする。柄谷のいう「外部」とは、85年以前の柄谷であれば、カントのいう知覚しえないものとしての「物自体」、85年以降の柄谷だと「他者」のことである。だから、柄谷にとっては、「外部」=「物自体」=「他者」の擁護こそが批評ということになる。このように、蓮實、柄谷ともに、「記号」=「外部」こそが、批評にとって必要不可欠なものとする。そして、批評に欠けているものは、「外部性」だとする。『近代日本の批評Ⅲ』の中で、蓮實と柄谷は近代日本の批評史を振り返るなかで、「外部性」の欠如を大正時代に見出し、それを「大正的」なものとする。そこでいわれる大正時代の批評とはどのようなものだったのか。
 大正時代の批評の特徴は「差異」よりも「同一」を、「具体性」よりも「抽象性」を、「分離」より「融合」が優位であったことにある。まず、「差異」よりも、「同一」の方が優位であるというのは、例えば、文学理論というような「普遍性」に依拠し、「自然主義」といったような記号によって「代行」されたイメージを論じることで、個々の作品の「差異」や日本と西欧との「差異」が消え、違うことを述べているようで、全て「同一」の構造に収まってしまうことだ。次に、「具体性」よりも「抽象性」が優位であるというのは、「具体的な事実の分析=記述」によって語るのではなく、「抽象的」な「問題」群である「天皇機関説」、「民本主義」、「普通選挙運動」、「夫人参政権問題」、「プロレタリア文学」といった「標語」について語る単調なものが優位だったということである。最後に「分離」よりも「融合」の方が優位であったというのは、「客観」や「主観」を「分離」できる「主体」と「客体」よりも、西田幾多郎がいったような「主客合一」という、「主体」と「客体」が「未分化」な「融合」が優位であったということだ。
 以上のような特徴から、蓮實は大正時代には「外部性」がないとするのだが、これは簡単にいえば、内向きの批評しかなかったということだ。そこでは、明治時代にあったような言葉と現実の乖離をなくすといったような言文一致運動にみられるような葛藤はない。柄谷は「外部性」は「外来思想」と区別しなければばらないとし、キリスト教やマルクス主義などを「思想の本来的な外部性」をみたものと、「外来思想」として受け取ったものがいたとするが*1、「外来思想」として受け取ってしまったものは、それを放棄したり、憎悪したり、逆に日本的なものに変形させたりすることで「外部性」をもっていないとする。そこでいわれる「思想の本来的な外部性」とはなにか。蓮實はこのように語っている。

たとえばさっき柄谷さんが「思想の本来的な外部性」と呼んだものは、表象しえぬもの、つまりはイメージの徹底した不在であり、であるがゆえに絶対的なんだけど、近代はイメージなしには思考不可能の時代で、だから相対的にならざるをえない。けれども、自ら父権制の残照みたいなもののなかで、一般を論じつつ、しかも神仏習合的な世界のなかに自足しているものたちが無批判に戯れているイメージに対して、言葉を立てるということ、それが近代だと思う。(柄谷行人[編]『近代日本の批評Ⅲーー明治・大正篇--』講談社文芸文庫、287頁。)

 そこから考えると、蓮實らが批判している「大正的」なものは、本来、思想や哲学といったものは、「イメージ」が「徹底」的に「不在」なものに関わらず、それが忘れさられ、「イメージ」のみで語られているものである。それを「外部性」の欠如として批判しているのである。

 ところで、蓮實は自身の批評について、さきほどの「記号」の擁護ということを、別の角度から「魂の唯物論的」な擁護と語っている場面がある*2。そこで、蓮實は「魂」というのは、「言葉の魂」だといい、その「魂」を「ものとして、物質として、それが語られているその場で、みずから輝かせることが批評なのではないか。」としているが、そのような「魂」が露呈されたときに人は「思考」するのだとする。そして、そのような「魂」はけっして「抽象的」なものではなく、「具体的」なものであるとしている。また、そのような「魂」を「無根拠」に「肯定」することが批評なのだとする*3.だが、このように書くと、さきほど述べた「大正的」なものの批判として、「具体的な事実の分析=記述」の欠如と矛盾するのではないかと思われるかもしれないが、ここでいう「無根拠」というのは、「根拠の否定」ではなく。「根拠の根拠」がないという意味での「無根拠」だ。それはある意味、蓮實や柄谷のいう「無責任」と似ているかもしれない。この「無責任」というのは「共同体」にとっての「無責任」なのである。だが、ここでいう「無責任」というのは、単に「無責任」ではなく、「共同体」の否定をするからこそ、「共同体」に対して「無責任」なのである。どういうことかというと、「共同体」というものは、「内」と「外」をわける。しかし、柄谷によれば、「この世界の外」はありえない。だから、「共同体の思考」のように「内と外」をわけることができないからこそ、「共同体」に対して「無責任」であるべきだとするのだ。「魂」を「無根拠」に「肯定」することと、同じように、「この世界」にも「この世界」があるという「根拠」はない。だから、「共同体」に対して「無責任」であり、「魂」を「無根拠」に「肯定」するということは、「この世界」を肯定することに他ならない。蓮實と柄谷は批評の方法こそ違うが、「共同体」に対して「無責任」であることで、「この世界」を「無根拠」に「肯定」しようとしているのだ。
 さて、しかし「内と外」をわける「共同体」を否定するならば、柄谷が重視する「外部」や「他者」というのは成り立たなくなるのでないか。なぜなら、「共同体」があるからこそ「外部」や「他者」が成り立つわけで、「この世界の外」はないとすれば、そこには「内部」のみがあるばかりで、「外部」や「他者」は存在しえないのではないかという疑問が生じる。それについて、柄谷は「国家」というのは、「ほかの国家」があることで存在する。つまり、「<はじまり>」がない。しかし、逆に「共同体」というのは、「他者性」、「外部性」を消すことで、つまり「<はじまり>」という「自らの起源の物語」をつくることで、「内部」を確立し、成立するので、そのように分けられた「外部」は「本当の外部」ではないとする。なぜなら、すでに「共同体」の外には「別の共同体」があるからだ*4。そうではなくて、「内ー外」の「分割」がありえないところにあらわれるものを「他者」としている。だから、「内部」も存在しないとする。では、そのような「他者」とはどうようなもののことを指すのであろうか。柄谷は自分そのものが「他者」であるという*5.そこで、自分が含まれているものを「批評」、含まれていないものを「批判」として区別するが、カントを例にだして、「外部」(もの自体)を「外部」として最初に決めるのではなく、自分という「内部」を「内部」として規定不可能なものとするときに、事後的に「外部」が出てくるとする*6。そのようなものが柄谷のいう「外部」や「他者」である。
 ところで、蓮實が批評を始めたときは、批評というのは、「正しさ」と「誤り」の「分別」であって、自身はそれとは違い「快」、「不快」を判断の基準にしていたと語っている*7このように蓮實は「真偽」(知)でもなく、「善悪」(倫理)でもなく、快不快(美)に基準をおく。そして、そのような「美」は「共同体」の中にはないとする。しかし、そのような態度を柄谷はむしろ「倫理的」だと述べている*8。柄谷はニーチェのいう「倫理」は「道徳」という「共同体」における「善悪」の彼岸にあるとして、そのような意味において蓮實を「倫理的」であるとする。(誤解のないように付け加えておくと、通常、「倫理」といえば、「善悪」のことだと思われるだろうが、ニーチェのいう「倫理」は「共同体」的な「善悪の彼岸」から始まるものとし、柄谷は蓮實の追求する「快」=「美」は「共同体」にないという意味において、「倫理的」だとした。)すなわち、ニーチェのいうような「倫理」とは「共同体」に属するものではなく、先述した「この世界」に関わるものだということだ。「善」ではなく、「快」を追求すること、それが「この世界」を肯定することになるのだ。

 以上のように、みてきたとおり、蓮實重彦と柄谷行人はそのお互いの批評によって「この世界」を肯定してきた。蓮實は「記号」、柄谷は「外部」の擁護を批評とすることで、「共同体」ではない「この世界」を肯定してきた。それは、批評が「共同体」に属さないことを意味する。だからこそ、「共同体」の「善悪」に捉われることなく「無責任」に批評する。だから、批評はその対象を誉めようが、けなそうが、そんなことは関係ないのである。なぜなら、それは、「共同体」の「善悪」によるものだからである。そうではなくて、蓮實の追求するような「快」ーーそれは単純におもしろいといってもいいかもしれないーーを基準にすることが、「共同体」ではない、「この世界」を肯定することなのだ。だから、おもしろければ、批評なのだ。そして、批評とはこの世界を肯定することなのだ。最後に蓮實重彦が著書の中でジャン・ピエール・リシャールの引用した部分を、引用して終える。

書くことは「ある種の存在が、自分自身と完全に合体するに至る実践的かつ創造的な行為」になるはずで、その論理に従うなら、リシャールが筆をおくのは、「われわれが真に世界を生きていると実感できるような、そうした世界の発見」と同時的でなければならない。(蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』せりか書房、262頁。)

 


 

*1 柄谷行人[編]『近代日本の批評Ⅱーー昭和篇[下]--』講談社文芸文庫、276頁。

*2 柄谷行人・蓮實重彦『柄谷行人蓮實重彦全対話』講談社文芸文庫、235頁。

*3 前掲書、237頁。

*4 前掲書、218頁~219頁。

*5 前掲書、240頁。

*6 前掲書、241頁。

*7 柄谷行人[編]『近代日本の批評Ⅱーー昭和篇[下]--』講談社文芸文庫、241頁。

*8 柄谷行人・蓮實重彦『柄谷行人蓮實重彦全対話』講談社文芸文庫、254頁。
 

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