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黒沢清と自動車と『岸辺の旅』

序、

 本論では、黒沢清の映画作品における自動車の描かれ方の特徴についてみていく。その中で、『岸辺の旅』が、それらの黒沢作品とは、異質であることに注目し、その理由を探っていく。

1、

 黒沢清は自動車に対して強いこだわりを持った作家である。思いつくままに自動車が出てくる作品を挙げれば、『CURE』、『回路』、『トウキョウソナタ』、『岸辺の旅』、『散歩する侵略者』と挙げればキリがない。だが、自動車が描かれるというのは、何も黒沢作品に限られたことではないし、むしろ自動車が出てこない作品を探す方が難しいだろう。しかし、黒沢作品においての自動車の描かれ方は他の映画とは違い、単に自動車を描くだけ以上の、黒沢作品全体を貫く世界観を表しているのである。
 例えば、さきほど挙げた『CURE』においては精神疾患を患う妻と、その妻の面倒と事件で疲れ果てている夫の刑事である高部が旅行に行こうと約束をするのだが、夫が約束を果たせず、妻を殺そうと包丁を手に取ろうとする瞬間、いきなりバスに乗っているシーンになる。バスには夫と妻だけが乗っているのだが、周りの景色は霧だらけで、とてもこの世だとは思えない。結局、この後、夫は妻を殺さず、精神病院に預けるのだが、一緒に事件を追っていた精神科医が自殺したときにも、バスが現われる。どうやら、バスは刑事の高部が袋小路に陥ると現れてくるようだ。この時に描かれるバスには乗客は刑事の高部一人で、景色は以前と同様、霧に包まれている。だが、どちらのバスのシーンも窓からみえる景色は動いているが、バスは動いていないようにはみえない。なぜ、本来、動いているはずのバスが動かずに止まっているのか?その事にどのような意味があるのか?その事を映画批評において的確に指摘したのが、蓮實重彦である。
 蓮實は映画における自動車の描かれ方の特徴は「停止」にあるとする。

映画は、「記号」としての自動車が、まず何にもまして、停止することへのたぐいまれな資質をそなえた装置だということを教えてくれる。映画にあっての自動車と自動車ならざるものの分節能力をそなえたものは、その滑走機能よりは停止機能のほうに遥かに敏感とならざるをえないのだ。映画は、運動から静止への移行という不可逆的な事件を体験する瞬間に自動車が示しうる無限に異なる表情を、豊かな変装として描きあげてくれる。接触して炎上する車、横転する車、急ブレーキを踏んで停止する車。だが、停止する自動車がまというる無限に豊かな表情は、スペクタクルとしての華麗さにつきるのではない。車が停まるたびごとに、新たな遭遇が組織され、説話的接続が分節化されることこそが重要なのだ。*1

 つまり、蓮實はここで、映画に自動車の「停止」が描かれることによって物語が切断され、不可逆的なものとして映画が体験される機能があると述べている。そして、そのような映画における自動車の「停止」の歴史には、「脚線美」の系列と、「破壊」の系列があるとする。「脚線美」の系列とは女性がスカートをめくった時に自動車が停止する系列であり、「破壊」の系列とは、自動車を破壊することで、自動車を停止させる系列のことである。では、黒沢作品における自動車の描かれ方はどちらの系列に属するのだろうか。結論からいえば、黒沢作品の自動車の描かれ方はどちらにも属さないのである。では、どのような描かれ方がされているのだろうか。ここで、蓮實はそのような二つの系列とは違う「停止」の描かれ方として「宙吊り」という状態があるとする。

映画における「自動車」の疾走がその「神話」を構成する二系列によって運動の圏外に追いやられ、疾走から停止への移行こそが運動だとする特殊な視点が構造的に確かめられたとすると、たやすく壊れ、たやすく止まることで伝説化される「自動車」にとって、走っている状況は運動と運動との間に拡がりだした中間地帯で引きのばされる中断といったものになるだろう。引きのばされる中断、すなわちそれはあの宙吊りと呼ばれる状態にほかならない。未規定の拡大。猶予と呼ばれるどこでもない場所、いつでもない時間。つまりはサスペンスそのものだ。事実、映画にあって疾走する「自動車」が「記号」として機能しうる唯一の条件は、それが宙吊りの自分に耐えながら意味の開示を、つまりは方向の決定を刻一刻と遅延させることをおいてほかにない。*2

 このような特徴をもった例として蓮實はヒッチコックの作品を挙げるが、まさに黒沢作品で描かれている自動車はヒッチコックと同様に「どこでもない場所」、「いつでもない時間」としての「宙吊り」の状態を表すものとして描かれているのだ。その事を示すものとして、黒沢作品における自動車の撮影方法が挙げられる。

2、

 黒沢清は自動車のシーンを撮影するときに「スクリーン・プロセス」という方法を多用する。「スクリーン・プロセス」というのは、昔の映画を思い出してもらえば分かりやすいが、スタジオの中にスクリーンを張ってそこに背景となる景色を映写しつつ、スクリーンの前に車や役者を配置して撮影することであたかもその背景の中に居るように見せる技法のことである。この技法を黒沢は自動車のシーンを撮るときに多用する。まさに蓮實が指摘したような自動車の「停止」を、黒沢は実際に自動車を止めて撮影しているのである。黒沢はヒッチコックが表現したような自動車の描き方をかなり意識的に行っているといえる。これについて黒沢は「古い映画が運命的な感じがしたのは、スクリーン・プロセスだから、なんかリアルじゃないから、昔作った人は狙ってもいなかったかもしれないけど、一種のあのスクリーン・プロセスの、リアルとも違うあの抽象的な空間が、これって運命かもしれないっていう効果をどうも上げてたらしい」と語っている。さきほど挙げたヒッチコックも自動車のシーンで「スクリーン・プロセス」を使っていた。このように、黒沢は自動車のシーンで「スクリーン・プロセス」を使うことで「リアル」ではない「どこでもない場所」、「いつでもない時間」を描いているのだ。そのように考えると冒頭で述べた『CURE』で描かれたバスのシーンというのは、宮台真司のいうような「ここではないどこか」を描いていたのだということがわかる。「スクリーン・プロセス」を使った効果によって、『クリーピー 偽りの隣人』における西野が「まだまだ行くぞぉ~」と言う時の車内の滑稽さと不気味さが混在したようなシーンや、『回路』や『散歩する侵略者』における車外のこの世の終わり観を強調している。だが、このような黒沢作品の中で異質な作品がある。それは『岸辺の旅』だ。

3、

 『岸辺の旅』は、2015年に湯本香樹実の小説を映画化したもので、三年間、失踪していた夫が、突然、妻の前に現われ、三年前に死んでいたことを告げる。戸惑う妻だが、そんな妻に夫は空白の三年間を巡る旅に出かけようと持ち掛け、それに応じた妻は、夫と思い出の地を巡る中で夫婦の隙間を埋めていく、といった話である。だが、この作品が黒沢作品で異質なのは、自動車、ないし乗り物においても「スクリーン・プロセス」を使っていないことである。特にこれまでの作品は自動車を何らかの形で主演の役者が運転するというシーンがあったのだが、『岸辺の旅』においては、バスが出てくるものの役者が運転はしない。しかも、バスのシーンも「スクリーン・プロセス」を使っていないのである。特徴的なのが、作品の冒頭で旅をする際の交通手段を考えるときに妻の瑞希に「レンタカーで行く?」と聞かれると、夫の優介は「免許証、燃やしちゃたんだよね。」とあっさり自動車に乗る選択肢を捨ててしまう。これは黒沢作品では珍しい。黒沢作品では、どこか遠く(「ここではないどこか」)へ行く時は必ずといっていいほど、自動車を使っていた。だが、『岸辺の旅』では、そのようなシーンは出てこない。これはどうしてなのだろうか?その答えは物語の構造にある。
 多くの黒沢作品においては、日常を淡々と生きている人間がいて、そこに非日常的な混沌をもたらす存在が現れて(『CURE』の間宮、『クリーピー 偽りの隣人』の西野、『散歩する侵略者』の宇宙人)、日常がかき乱される。だが、非日常を体験することで解放された人間が、また日常へ戻っていくという話が多い。『岸辺の旅』もそのカテゴリーに入る。しかし、『岸辺の旅』が他の作品と違うのは、非日常がもたらす混沌や混乱がないのである。妻の瑞希は非日常的なものを、抵抗なく受け入れている。むしろ、そのような生活を望みさえしている。これは他の作品にない特徴だ。黒沢作品においては、必ず非日常がもたらされた時の葛藤や迷いがある。そして、日常を希求している。だが、『岸辺の旅』にはそれがない。妻の瑞希にとっては日常も非日常も等価なのだ。むしろ、この作品は妻の瑞希が非日常という失われた半分を取り戻すという作品にみえるのだ。どういうことだろうか。
 他の黒沢作品においては、主人公が非日常的(脱社会的といってもよい)な気質を持つ人物、例えば、『CURE』の高部、『アカルイミライ』の仁村のような者であったとしても、最初は非日常的なものを退けようという意識がある。だからこそ、日常とのギャップに苦しみ、葛藤し、悩む。しかし、『岸辺の旅』における妻の瑞希においては、それはなく、非日常的なものが自然のごとく受け入れていく。むしろ、非日常的な世界の方が自然に物事をこなし、輝いてみえる。作品冒頭のピアノを教えている時の死んだような身振りを思い出してほしい。このように妻の瑞希にとっては、逆説的だが、非日常こそが日常なのである。するとラスト間際の「うちに帰ろうよ~。一緒に帰ろうよ~。」という小津的なセリフも違って聞こえる。これは通常の見方からすれば、夫の優介を日常に連れ戻したいという風に聞こえるが、むしろ逆である。夫の優介のいない世界が日常であり、死んだはずの夫の優介のいる日常こそが非日常なのだ。だから、消えようとしている夫の優介こそ日常的な人間で、妻の瑞希は非日常的な人間なのである。だから、さきほどのセリフは日常へ帰ろうとする夫の優介を妻の瑞希が非日常へ繋ぎ止めたいというセリフなのである。
 これで『岸辺の旅』の異質性が分かってくる。他の黒沢作品では、非日常をもたらす存在は、日常に戻ることなく(脱社会的存在のまま)、死ぬか消えていく。しかし、『岸辺の旅』では、夫の優介は日常に戻ることで、消えていくのである。そして、妻の瑞希は非日常的な世界を抱えたまま生きていく。これは他の黒沢作品とは、全く逆の構造なのである。いつもの作品であれば、非日常的な存在が日常を生きる人間を引きずりこみ、混沌を経て、解放させ、やがて非日常をもたらした存在がいなくなることで、日常に戻っていくが、『岸辺の旅』は、日常に戻ることを選ばない。日常にみえても、妻の瑞希は幽霊と一緒に生活をするような、非日常的な社会を生きることになるのである。だから、『岸辺の旅』においては、黒沢は「リアル」ではない「どこでもない場所」、「いつでもない時間」を描くための、自動車の「スクリーン・プロセス」を使っていないのだ。すでに『岸辺の旅』においての日常が非日常的であるため、「リアル」ではない「どこでもない場所」、「いつでもない時間」を描くための「スクリーン・プロセス」を用いる必要がないのだ。これが、『岸辺の旅』の異質性であり、黒沢が自動車を描かない理由である。

結、

 これまでみてきた通り、黒沢清は自動車に強いこだわりを持った作家である。そのこだわりとは、蓮實のいうヒッチコック的な「どこでもない場所」、「いつでもない時間」を描くものとしての、「スクリーン・プロセス」という技法であった。その技法を用いることで、「リアル」ではない「どこでもない場所」、「いつでもない時間」を描いていたのだ。だが、『岸辺の旅』においては、すでに日常が非日常なので、「スクリーン・プロセス」を用いる必要がなかった。これが結論である。これは9.11以降、現実の方が人間の想像より上回っているという事実に対する黒沢の応答であると考えられる。2000年以前は、日常と非日常の区別があり、非日常を描くことに意味があった。しかし、2000年以降は日常と非日常の区別があいまいになり、日常こそが非日常的なものとして認識されはじめた。その意味で『岸辺の旅』こそが、我々の社会に対する感覚を捉まえており、自動車にこだわり続けた黒沢清の新たな可能性を示す作品なのだといえる。


*1 蓮實重彦『映画の神話学』ちくま学芸文庫、107頁。

*2 前掲書、137頁。

文字数:5189

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