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何が見えましたか?

1、

 蓮實重彦は『表層批評宣言』の中でこのように述べている。

表層と呼ばれるどこでもない場所で、言葉は、はじめて「物語」の分節「装置」から「自由」になるだろう。(蓮實重彦 『表層批評宣言』、8頁)

 そのため、蓮實は映画批評においても徹底的に表層を論じる事によって安易な物語化を避け、言葉を自由にしようとする。蓮實のいう「物語」は「制度」とも「装置」とも「風景」とも言い換えることが可能だ。では、蓮實はその役割において目的を果たすことが出来たのだろうか。
 社会学者の宮台真司は『<世界>はそもそもデタラメである』において、写真家の中平卓馬を前期と後期にわけ、前期中平はベンヤミンのいう「シンボル」=近代の制度=全体性に対抗すべく「砕け散った瓦礫」=断片が一瞬の「アレゴリー」=「寓意」を示唆する瞬間を擁護していたが、後期中平においてはそのような「アレゴリー」も時がたてば、近代の制度に取り込まれ、「シンボル」となってしまうとしてベンヤミンの「アレゴリー」を否定することになったと述べている*1。そのような批判が蓮實にも当てはまるのではないだろうか。蓮實は「反=制度的」ではないとしつつも、「不自由」な「制度」や「物語」を退けようとする。そのために、あえて「制度」の「装置」や「風景」を積極的に模倣し、言葉が「自由」になる瞬間を夢みる。その姿勢が蓮實独特の一文がやたら長い文章を生みだし、映画批評においても映画の背景や歴史に注視するのではなく、あくまでも画面という表層にこだわり続けさせたのである。だが、ミイラ取りがミイラになるではないが、そのような試みも長い年月、続けば、制度の中に取り込まれてゆき、気が付けば、自身の役割が「不自由」な「制度」となってしまったのではないだろうか。あくまでも、はじめはオルタナティブとしてやっていた表層批評やB級映画擁護も、それが次第に受け入れられていくと、そのスタイルのみが受け継がれ、「制度」化され、権威となっていく。それは蓮實が最も恐れていたことではなかっただろうか。『ユリイカ』の蓮實重彦特集の中で映画監督の黒沢清と万田邦敏、青山真治の座談会で交わされた話が象徴的である。

万田 何かと「それって制度的だよね」とか言っていたじゃない。

黒沢 撮影現場でも先輩の助監督に「それって制度的じゃないですか」とか言ってみたり、恥ずかしい思い出だな。

青山 まさに「文革」(笑)。

(『ユリイカ』10月臨時増刊号 総特集*蓮實重彦、115頁)

 このエピソード自体が悪いわけじゃない。むしろそれは若い頃のあるあるとして微笑ましいくらいだ。しかし、問題はそのような事が笑いとして語られるぐらい、蓮實の言説自体が「制度」化され「物語」化されていたということだ。これは中平が否定し、蓮實が抗っていたもの、そのものではないのだろうか。
 では、この事態は蓮實に責任があるのだろうか。もちろん、少しはあるだろう。しかし、それは避けられないことなのだ。なぜなら、蓮實がその役割において実践したアイロニカルな試み自体が、ポストモダンにおけるシステムから逃れる事ができないという証左であるからだ。ミシェル・フーコーは全ての言説はシステムの産出物であり、そのような言説を述べるフーコー自身の言説自体もシステムの産出物に過ぎない(永遠の影ふみ)と述べたとされている。そのフーコーのいうシステム=「制度」とも「シンボル」ともいえるものから、逃れられないという事実を暴いたということがポストモダンの本質であり、本人はポストモダンを否定したとしても、その意味で蓮實はポストモダンを徹底したといえるであろう。では、蓮實は具体的に映画批評を通じてどのような事をしようとしていたのか。それを次項からみていく。

 

2、

 宮台によれば、さきほど挙げた中平について、後期中平はベンヤミンの「アレゴリー」を否定して、表現しようとしたが、「シンボル」=「制度」から逃れられないことに、苦闘した末に記憶と言葉を失ってしまったとする。だが、言葉を失ったことで、中平は表現から自由になり、モノそれ自体を撮る事ができるようになった。しかし、多くの人にとって言葉を用いないことは出来ない。そこで、蓮實的な戦略が必要になってくると宮台はいう。そのような戦略とは次のようなものだ。

後期中平の如き存在になれる者は、幸いなるかな。大抵の者には無理だから、前期中平に留まるしかない。だが更に、前期中平やゴダールの如く表現できる者は幸いなるかな。大抵の者にはフツーの写真や映画の享受しかできない。そこで、蓮實的戦略の出番である。
まず、表現を透明な媒体(メディア)つまり「シンボル」と見做す発想を拒絶する。次に、表現を、不透明な瓦礫たちによる過去の一瞬の甦り、つまり「アレゴリー」と見做す。だから、映画を反復芸術だと見做すロマン派的伝統へと連なりつつ、フツーの映画を擁護する。
(宮台真司 『<世界>はそもそもデタラメである』、329頁)

 そのため、蓮實は物語体験ではなく、フィルム体験への集中を呼びかけるのだ。フィルム体験とは、作者と観客に区別することなく、主体性を映画自体に譲り渡すことで得られる体験の事だ。蓮實の言葉でいえば、「作品」=「怪物」と遭遇することであり、宮台のいう「世界」のことだ。これは、中平とは違った方法でモノそれ自体=「作品」=「世界」と出会う体験をすることなのである。

 日本では2015年ごろから、新たな哲学である「思弁的実在論」に注目が集まっている。「思弁的実在論」というのは、哲学者の千葉雅也によれば、カント哲学以降の「物自体」は認識不可能であるから、モノそのもの=世界そのものを考えるのではなく、「わたしたち人間が世界についてどう考えるか」(これを思弁的実在論の主要な哲学者カンタル・メイヤス―は「相関主義」とする)という哲学を批判して、人間の思考とは独立し、「実在」している「モノ」について考えていく哲学のことである*2。まさに「モノ」そのものについて考える哲学ということは、「世界」そのものを考える哲学ということである。「思弁的実在論」の代表的な哲学者であるグレアム・ハーマンは『四方対象』の中で、ハイデガーやフッサールの「現象学」を参照して、オブジェクト指向存在論という哲学を打ち出している。オブジェクト指向というのは、もちろんその名の通り、オブジェクト=モノを志向する哲学のことなのだが、オブジェクト指向という言葉は、プログラミングの世界では、馴染みの言葉で、GoogleなどのWebページに使われているJavaScriptなどのプログラミング言語はオブジェクト指向言語と呼ばれている。ITの世界では、オブジェクト指向という概念は、1960年代から使われており、それが哲学の世界でも使われるようになったというのは、「思弁的実在論」というのが、理系と文系とカテゴリーを超えて、大きな枠組みで思考していること、また最近の世界の社会情勢や技術に対しての考え方を取り入れている事がわかる。また、「思弁的実在論」は英語にすると”Speculative  realism”となり、略してSRと呼ばれる。その呼び名からピンときた方もいるかもしれないが、SFのことを”Speculative  Fiction”(思弁小説)とすることもあり、SF的世界と親和性が強い。実際、メイヤス―も『SFとXSF』という本を書いている。

 ここで最近、『ブレードランナー2049』でも話題となったドゥニ・ヴィルヌーヴが監督を務めたSF映画『メッセージ』についてみていく。『メッセージ』はある日突然、謎の飛行物体が世界各地に現れ、世界を混乱に陥れる。その飛行物体の中には劇中では「ヘプタポッド」と呼ばれる地球外生命体が乗り込んでいた。映画はその地球外生命体である「ヘプタポッド」とのコンタクトとを試みる作品である。「ヘプタポッド」が、地球に来た目的を尋ねると、人類に「武器=道具」を与えるためにやってきたことがわかる。本来は人類を滅亡から救うために、「武器」=「未来を認識できること」を得ることで滅亡から回避させるためだであったのだが、「ヘプタポッド」には時間という概念がないため、「武器」という言葉から受け取った相手が連想されるイメージ、予測される行為が分からない。東浩紀のいう「パフォーマティブ」(振る舞い)な水準がない。ただ、事実の積み重ねがあるのみだ。これを、人類は文字通り「武器」=「生命体を傷つけるもの」と受け取り、「ヘプタポッド」は人類を争わせるために来たのだと判断し、「ヘプタポッド」を追い出すために、戦争の準備にとりかかる。しかし、作品の終盤で「ヘプタポッド」の真意を知った言語学者のルイーズ・バンクスは「未来を認識できること」=「武器」を受け取り、それを使い、戦争を回避することができた。
 ただ、ここで象徴的な事は主人公のバンクスは「未来を認識できること」で、将来、自分が同じく「ヘプタポッド」の「メッセージ」を読みとこうとしていた同僚の物理学者イアン・ドネリーと結ばれること、だが、その事で授かった娘が病気により、死んでしまうことがわかるが、ドネリーのプロポーズを受け入れることである。ここで、バンクスはなぜ、ドネリーのプロポーズを断らなかったのであろうと疑問が浮かぶはずである。しかし、それをしないのは、バンクスには、未来はすでに決まっている事、それは人間が認識できるより遥か大きな世界の摂理のようなもので決まっているため、人がどうこう出来る話ではなく、ただそのような世界を受け入れるという態度しかありえないということがわかっていたからだ。それは、佐々木敦が『未知との遭遇』の中で唱えた「全面的運命論」=「最強の運命論」という立場に近いのではないだろうか。もし、全てが決まっていたとしても、それをやること、そして、それがどのような結果であったとしても、それは運命なのだ=古谷実的な「もーしょうがない!」として受け入れていく立場。それは、まさに蓮實が映画批評において実践しようとした方法=「フィルム体験」ではないだろうか。

 

3、

 蓮實は最近、『ユリイカ』の中で「あるとき見ることをやめてしまうことこそが最大の映画批評であるという可能性もあるのではないか?」と述べているが*3、これはいったいどういうことなのだろうか?あれほどまでに見ることにこだわり続けていた批評家が、見ることをやめてしまうことを肯定するかの発言をするとは、どういう意図なのだろうか?文字通り受け取っていいものだろうか?そのことの真意を問うために。そもそも私たちは何を「見ている」のかについて考察していく。

 脳機能学者の苫米地英人によれば、私たちの脳は自分にとって関係がないと思っていることは、脳幹にあるRAS(網様体賦活系)と呼ばれるフィルターが遮断し、情報を情報として受け取れていないという*4。つまり、我々はRASによるフィルターを通して、現実世界を認識しているのである。その結果、我々はしばしば、目の前にあるものが見えなかったり、ないものが見えたりすることが起きる。このような、認識できていない部分のことを苫米地は「スコトーマ」(盲点)とする。これは宮台のいう「見たいものしか見ない」ということ繋がるのではないだろうか。『世界はそもそもデタラメである』の中でも、宮台は安定した世界像の方こそが主観性による世界の体験加工なのだとして、体験加工以前の世界が描かれている映画を擁護する*5。
 このように考えると蓮實の映画批評における徹底して、「画面」=「表層」を「見る」とは、苫米地のいうような「スコトーマ」を失くし、現実世界そのものを認識しようとする試みであったといえる。ただ、全てを見ようとしても、人間の脳には限界があり、全てを見ることが出来ない。また、メディアなどの変化により、DVDなどで自分が見えていたと思っていたものを検証することが可能となった。その結果が、さきほど挙げた『ユリイカ』の中での蓮實の発言だったのではないだろうか。同じ『ユリイカ』のインタビューの中で蓮實はこのように述べている。

いままでのわたくしは、最善の映画批評に辿り着くためにたえず見つづけることを選んできました。(中略)ところが、映画を見つづけてきた方なら誰しもおわかりになるはずですが、「この映画については自分はよく知っている」と思っていても、いざ見返してみると、「え、こんな画面あったの?」と驚かされることが多々ある。これは要するに、その画面は過去にたしかに見たはずなのに、自分が意識化するという作業をいままで怠ってきたということですから、そんなふうに驚いてばかりいる自分は、はたして何かを見たと本当に言えるのかと自問せざるをえなくなってきます。ただ、同時に、そもそも生きているとはそういうことなのではないかとも思うわけです。言い換えれば、フーコーが「先験的かつ経験的な二重体」と呼ぶところの「人間」はそもそも、生きているかぎりにおいて、そういう仕方でしか映画との関係を築けないのではないか、と。
(『ユリイカ』10月臨時増刊号 総特集*蓮實重彦、22頁)

 これは要するに、今まで蓮實は全てを「見る」ことは不可能だとは知りつつも、あえて「見る」ことを強調することで、また自分に課すことで、現実世界 ー 世界と言い換えてもいいだろう ー を認識しようとしてきたということだ。だが、本来、それは画面に写っているが、人が「見えていない」とされてきたものを「見える」ようにしてきたはずなのに、「ネタがベタ」とになるではないが、人は本当に「見た」ものだけについて語りだすという状況になってしまった。そのような全てが「見える」、正確にいえば、「見えている」と思い込んでいる状況の中で、全てを「見る」ことは不可能だという、「不可能性」を強調することで、逆説的に「見る」ことを取り戻そうとしているのでないだろうか。それが、見ることをやめてしまうことを肯定するかのような発言をさせたのではないか。
 その意味で蓮實は「見る」ことを放棄したのではない。全てを「見ることができない」=「見ることの不可能性」を所与の条件としながら、むしろ「見る」ことを強調しようするアイロニカルな戦略なのではないだろうか。

 

4、

 蓮實のいう「作品」=「怪物」とは、宮台のいう「世界」だと二項で述べたが、そのような「作品」=「怪物」、「世界」とは何なのであろうか。その事を考察するために、2016年にヒットした『この世界の片隅に』についてみていく。

 『この世界の片隅に』は、太平洋戦争の中を主人公のすずがどのように生きたかを描いたアニメーション映画である。『この世界の片隅に』はすずの日常に絞って描かれているという点で、いわゆる「日常系」と呼ばれるものと近い構造になっている。だが、「日常系」と違うのは、戦争の真っ只中ということ、それにより度々、「日常」が壊されることである。すずは、そのように壊された「日常」を取り戻そうと必死になる。しかし、そんなすずは宮台の言葉でいえば、「脱社会的存在」なのである。なぜだろうか。
 ヒントとなるのは、映画の中で何回も語られるすずの「ぼっーとしている」性格にある。これにより、何かがあるたびに、周囲との時間差が生じる。その事によって戦争という悲惨な状況から一歩、ずれる事ができるのだ。ロラン・バルトは「鈍感さ」は「意味されるもの」(シニフィエ)をずらす作用があると述べているが*6、すずの「ぼっーとしている」という「鈍感さ」は戦争というのは、「悲惨である」という「意味されるもの」をずらしていく。象徴的なのは、はじめて呉に襲撃が来るシーンだ。砲弾や戦闘機を見たすずは、「いま、絵の具があれば」と思い、一瞬、隠れるのが遅れる。そのようにすずは。敵の戦闘機や砲弾を見ても、「恐怖」や「憎悪」を感じるよりも「美」を感じてしまうのである。宮台によれば、「社会」とは「あらゆるコミュニケーションの全体」で、「世界」とは「ありとあらゆる全体」のことであるとする。「世界」は「社会」よりも大きい。すずは、その遅れによって、「世界」を体験することができるのだ。さらに、『この世界の片隅に』の中には、本当にいるかいないのか分からない「ばけもの」が登場していた。この「ばけもの」は、映画全体の重要な役割を担っており、いないとしたら、映画全体の構成を壊す「両義的な存在」であった。これ自体が「作品」=「怪物」=「世界」といってもいいかもしれない。

 『この世界の片隅に』を通して、蓮實の「作品」=「怪物」とは、人が「コミュニケーションが不可能」なものであり、それゆえに作者のものでも、観客のものでもなく、「意味される」ものからずれた(「恐怖」と「憎悪」の対象に「美」が宿っているような)ものである。だからこそ、蓮實は「怪物」と名付けたのであろう。(黒沢清の『散歩する侵略者』の中に出てくる、宇宙人は「意味されるもの」=「概念」を持たず、人間の「概念」を集めているという意味で「怪物」的だ。)

 

5、

 最後に蓮實重彦の功罪について述べていく。

 宮台は『限界の思考』の中で、かつて自分が蓮實ゼミに所属していたことを明かしつつも、蓮實のポイントについて、次のように述べている。

「映画はクラッシック音楽などと同じ『反復芸術』だ」ということにあります。論者が後生大事に奉る物語性や社会性や思想性も、反復される形式にすぎない。クラッシック音楽と同じく、よい反復と悪い反復があるだけだというんですね。
(中略)
その意味で、蓮實さんの「表層批評」は、反復芸術に無知な輩が展開する内容主義に対するアイロニーだけど、オブセッシブなアイロニズムについても無知な輩のなせるワザとして批判的でした。よいアイロニズムと悪いアイロニズム、つまり、よい表層批評と悪い表層批評を、ちゃんと区別しようとしていたんですね。
(宮台真司・北田暁大 『限界の思考ーー空虚な時代を生き抜くための社会学ーー』、419頁)

 つまり、蓮實は映画を「反復芸術」とみなし、「物語」や「社会」や「思想」とは関係のない「表層」に留まることで、「よい反復」について批評しようとしていたということになる。「よい反復」とは、何か。それは、「反復」の中に「怪物」 ー 宮台の言葉でいえば「縦の力」 ー が降りてくることである。そのために、蓮實は「表層」に「宙づり」で留まろうとする。これはロラン・バルトも「物語」の「神話作用」に対抗するために、「意味」を「宙づり」にすると述べている*7。國分功一郎のいう「中動態」とも似ているかもしれない。このように、徹底して、映画を「反復」と捉え、「意味」や「物語」を退け、「表層」に「宙づり」で踏み留まることを唱えた蓮實だったが、多くの人にとっては、「宙づり」には耐えることはできず、「大きな物語」はなくなったとしても「小さな物語」や「意味」を求めていくことになる。「表層」と「戯れる」という本来、「意味」や「物語」から「自由」になるための「アイロニカル」なものとしてあったが、「ネタからベタ」に転換してしまって、「戯れ」としての「アイロニー」であったものが、「強迫観念的」な「アイロニー」となり、「戯れ」がなくなってしまった。そして、かえって「凡庸な物語」や「凡庸な意味」が溢れてしまった。つまり、一項で述べたように「制度化」してしまった。これが蓮實重彦が果たした役割の功罪の罪の部分ではないだろうか。
 しかし、そのような事態は中平が示した通り、避けられない。その意味で、技術がいくら進歩しようとも、人間が変わることがないと事実がある限り、歴史は繰り返される。そう「反復」される。そのような意味で、一貫して「反復」されるという姿勢を貫き、証明してみせた蓮實重彦の役割というのは大きいのではないだろうか。大事なことは「よい反復」を見つけることである。だから、我々にとって必要なことは、蓮實的なものを退けるのではなくて、むしろ徹底、無限の「宙づり」に耐えることなのではないだろうか。

 

 


注釈

*1 宮台真司『<世界>はそもそもデタラメである』メディアファクトリー、325~329頁。

*2 東浩紀編『ゲンロン2--特集 慰霊の空間ーー』ゲンロン、193頁。

*3 『ユリイカ』10月臨時増刊号 総特集*蓮實重彦 青土社、22頁。

*4 苫米地英人『まずは親を超えなさい!』フォレスト出版、6頁。

*5 宮台真司『<世界>はそもそもデタラメである』メディアファクトリー、325~329頁。

*6 ロラン・バルト『ロラン・バルト映画論集』ちくま学術文庫、30~42頁。

*7 ロラン・バルト『映像の修辞学』蓮實重彦、杉本紀子訳、ちくま学芸文庫、108頁。

参考文献

中平卓馬『見続ける涯に火が・・・ ーー批評集成1965-1977--』有限会社オシリス。

グレアム・ハーマン『四方対象ーーオブジェクト指向存在論入門ーー』山下智弘、鈴木優花、石井正雅巳訳、人文書院。

佐々木敦『未知との遭遇ーー無限のセカイと有限のワタシーー』筑摩書房。

宮台真司・北田暁大『限界の思考ーー空虚な時代を生き抜くための社会学ーー』双風舎。

 

 

 

 

 

 

 

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