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蓮沼執太はいったいどこに行こうとしているのだろうか

 蓮沼執太はいったいどこに行こうとしているのか?
 『RAW TOWN』は2016年にリリースされたアルバム『メロディーズ』に収められた一曲である。『メロディーズ』は「シティ・ポップ」を思わせる軽快なリズムとキャッチーなフレーズが特徴のアルバムであるが、その中に収められている『RAW TOWN』はこの様な歌詞から始まる。

丸の内中央口

雨のなか皇居方面へ

日比谷通り和田倉門

千代田線二重橋前駅の

6番口階段下って

改札からPLATFORMに

「多摩急行小田急線の

唐木田行きに乗ってきて」って

 蓮沼はこの曲の作詞を担当したイルリメと一緒に東京をフィールドワークして作ったと述べている*1。この後、『RAW TOWN』では国会議事堂方面へ向かう。『CINRA.NET』のインタビューの中でインタビュアーが「そこには何らかの想いがあるんじゃなんかと思うんですね。例えば、イルリメさん作詞の“RAW TOWN”には「国会議事堂」、蓮沼さん作詞の“ハミング”には「シュプレヒコール」っていう言葉が出てくるあたりに、時代性も感じました。」と述べている。確かに『RAW TOWN』には、皇居、国会議事堂、総理官邸前など政治に関係している場所が出てくる。また、『ハミング』の中で歌われている「シュプレヒコール」はSEALDsなどのデモが思い起される。インタビュアーのさきほどの発言は、そのような意味においてだったのだろう。
 それに対して、蓮沼は「イルリメさんは、そこまで社会的というわけではないですけど、思想やポリシーがある方なので、僕にとって影響は大きくありますね。」としつつも、「僕の場合は、メロディーに言葉が乗っても、それは音なんですよね。シンガーソングライターやラッパーのように、言葉とメロディーでメッセージを伝えるというよりは、言葉の意味や響きも含めて「作曲をしてる」という感じが強いです。」と述べている。そこから考えると、蓮沼は歌詞に政治的な意図を込めたわけではなさそうだ。しかも、『RAW TOWN』の作詞は蓮沼でなく、イルリメだ。しかし、私は蓮沼が作詞していないものの、イルリメの作詞に影響を与えていると思う。なぜなら、無意識にしろ、蓮沼の作曲やアルバムのコンセプトの影響を受けていると考えるからだ。
 では、どのような影響か?それは人間が主体でないという事だ。蓮沼作詞の『ハミング』では、このように歌っている。

知らない過去の風景と空気は

土地と人間で繋がっているのよ

種膨らみ 草木なびき 空がうなり 陽は黙る

土が鳴き 風が踊り 水が笑い 血が通う

 このように蓮沼は太陽や土や風、水に主体性を認めている。これが『RAW TOWN』には色濃く表れている。どういう事か。『RAW TOWN』の歌詞には何度も「きみ」というフレーズが出てくる。しかし、この「きみ」は人間ではない。「街」なのである。社会学者の宮台真司は『まちづくりの哲学ーー都市計画が語らなかった「場所」と「世界」--』(ミネルヴァ書房)の中で、「街」という生き物は「人間たち」の営みを織り込むとして、場としての「街」の主体性を認めている*2。そう、『RAW TOWN』は人間が主体ではなく、「街」が主体になっている曲なのである。歌詞の中に出てくる「生のきみに会いにいくって」の「生のきみ」は他ならぬタイトルの『RAW TOWN』=「なまの街」の事なのである。

 『RAW TOWN』にはこのような歌詞が出てくる。

うまいなあきみはさ

ぼくの気管すぐ乗っ取って

SAXみたいに吹きこなし

喉から手出させる魔法で

 これも「街」が主体だと考えれば、意味がわかる。図1の気管と図2のSAXを見てもらいたい。気管とSAXの形がそっくりではないだろうか。そう、「街」が蓮沼の気管を乗っ取って、SAXに見立てて、吹いているのである。実際は『RAW TOWN』のMVのように蓮沼が口笛を吹いているのだろうか。しかし、これは人間のメロディーではなく、「街」のメロディーなのである。SAXを使う音楽といえば、JAZZが真っ先に思い浮かぶが、JAZZといえば、即興がウリの音楽だ。そこから考えると、冒頭に述べた「蓮沼執太はいったいどこに行こうとしているのか?」という問いに対しての答えはこうだ。蓮沼が主体的に、あるいは初めからどこに行くのかを決めているのではなく、「街」が主体となって、「街」のリズムに合わせて、即興的に蓮沼を連れていっているのだ。宮台は前掲書で、かつてナンパをしている頃は、女の子たちというより、「街」とまぐわっていたようだったと述べているが*3、蓮沼も『RAW TOWN』の中で「街」とまぐわっていると言えるかもしれない。

 

図1 気管

 

図2 サックス

 

 環境倫理学者のJ・べヤード・キャリコットは『地球の洞察ーー多文化時代の環境哲学ーー』(みすず書房)の中で、伝統的なハワイ人は、欧米人から土地を売るように圧力をかけられたとき、土地を売買することは「自分の兄を売買するに等しい」と信じていたとし、土地の個人所有という概念は、伝統的なハワイの世界観においては成り立ちえなかったとする*4。私的所有権という考えはイギリスの哲学者であるジョン・ロックが打ち出し、今では当たり前のようになっている。個人が土地に自身の労働を加え、そこから生じた成果によって土地の価値が高まる。それによって個人は利益を得る。しかし、個人の一生は短い。ある人が行った土地の開発により、「街」が栄えたとしても、別の人に渡れば、全く別の開発によって「街」や土地が廃れてしまう事は良くあることだ。だが、土地は個人が死んだあとでも、生き続ける。だから、前掲書の中で宮台は人間だけでなく土地の主体性を認め、「場所としての生き物」の観点から「街」を考えるべきだと主張するのだ。
 蓮沼は先述したインタビューの中で『メロディーズ』は「時間」がキーワードとなっていると述べているが、これも土地を「場所としての生き物」と考えるとつながってくる。先ほどあげた『ハミング』の中の「知らない過去の風景と空気は土地と人間で繋がっているのよ」という歌詞は、人間の記憶は限りがあるが、土地はその人間が知らない過去のことも記憶していることを歌っている。そのように、土地と繋がることで、人間は過去のことを知ることができるのだ。『RAW TOWN』も土地という「街」を主体とすることで本当の「街」を知ることができる。だから、『RAW TOWN』では「生のきみ」=「なまの街」としているのだ。人間が主体となって「街」を訪れるのでは、「生のきみ」=「なまの街」には会うことはできない。「街」を主体とすることで、初めて本当の街に出会える可能性がでてくるのだ。私が蓮沼の作詞ではない『RAW TOWN』をあげたのは、冒頭の方で述べたとおり、作詞が蓮沼ではないからこそ、逆に蓮沼の作曲やアルバムのコンセプトが顕著にあらわれていると考えたからだ。『RAW TOWN』には、蓮沼の作曲やアルバムのコンセプトが凝縮されている。
 『RAW TOWN』の中で蓮沼はどこかに行こうとしているのではない。今までみてきたように、「生のきみ」=「なまの街」に出会うために、「街」を「場所としての生き物」として認めることによって、「街」が主体となって蓮沼を連れまわす。そのような曲なのだ。蓮沼は「街」のリズムに合わせて、SAXの演奏のように即興的に音を鳴らせる。
 私は冒頭で『メロディーズ』は「シティ・ポップ」を思わせると述べたが、『RAW TOWN』はまさに「街」=都市が主体となった「シティ・ポップ」なのである。

 


*1 CINRA.NET  『「自分で歌う」を選んだワケ 傑作を生んだ蓮沼執太インタビュー』https://www.cinra.net/interview/201602-hasunumashuta

*2 蓑原敬・宮台真司『まちづくりの哲学ーー都市計画が語らなかった「場所」と「世界」--』(ミネルヴァ書房)、2016年6月、27頁。

*3 同上、387頁。

*4 J・べヤード・キャリコット『地球の洞察ーー多文化時代の環境哲学ーー』(みすず書房)、2009年11月、263頁。

 

 

 

 

 

 

 

 

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