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富士山から考える

 

序、

 私は、富士山から日本文化を考えたいと思う。哲学者の梅原猛は川勝平太との対談集『日本思想の古層』(藤原書店)の中で、自身の哲学の土台となる「草木国土悉皆成仏」という思想を体現しているのが富士山であると述べている*1。「草木国土悉皆成仏」というのは、仏教の天台本覚思想から派生したものであり、人間だけでなく、動物も植物もあらゆるものが仏になる事が出来るという思想だ。それを体現しているのが富士山だと梅原はいう。
 富士山は2013年にユネスコの「世界文化遺産」に認定された。そこから考えると梅原が富士山を日本文化の象徴というのも、頷ける。事実、富士山は数々の詩人が富士山について歌い、多くの画家が富士山を描いている。現存する富士山が描かれた最古の絵が聖徳太子の富士山の山越えというのも興味深い。聖徳太子といえば、日本で仏教を広め、十七条憲法を作り、その中で「和を以て貴しと為す」と述べた事は有名だ。そのような平和を訴えた聖徳太子が、梅原のいう「草木国土悉皆成仏」という平等思想の象徴である富士山の山越えをしたと伝わっているのは日本の文化を考えるうえで大きな示唆に富んでいるのでないだろうか。

1、山岳信仰としての富士山

 鈴木政崇の『山岳信仰』(中公新書)によれば、富士山の信仰は縄文時代中期の静岡県富士宮市の千居遺跡や山梨県都留市牛石遺跡まで遡るという。そこから八世紀末になると火山活動が活発になり、何度も噴火を起こした。それを経験した当時の朝廷は、噴火を収めるために、富士山に「浅間山」という神名をつけ、奉幣を捧げる官社を作った。それが現在の河口浅間神社である。富士山は豊富な水と火山の畏れに対する信仰であった。
 富士山の登拝が始まったのはさきほど序であげた聖徳太子の富士越えがあるが、伝説の域を出ないので、本格的な登拝は、噴火が収まった十二世紀以降である。駿河国の末代は富士山登頂回数が数百回に及び、富士上人と呼ばれ、山頂に大日寺を建立したと『本朝世紀』に記されている。大日寺といえば、祀られていたのは、大日如来であり、太陽の仏である。そこからも梅原のいう太陽と水の信仰が交わるのが富士山であると主張する意味がわかる*2。そのようにして、富士山の山岳信仰は仏教化していく事となる。浅間大神も大日如来を本地仏とした富士浅間大菩薩へと変容していった。
 その後、山岳登拝は修験道へと展開していく。江戸時代初期には、富士山興法寺を拠点に、村山三坊(大鏡坊、池西坊、辻之坊)が中心となり、他の同行と合わせて「山伏十三人衆」と称して修験道を行っていた。修験道の行法や思想は後に富士講の中に拡散、浸透し、民衆化していく。富士山が一合目から十合目に区別される由来は、人間が仏に至る十の段階(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)にあたるとされている。そのように、擬死再生の修行を行い、即身成仏を遂げて、山頂で大日如来の密厳浄土、阿弥陀如来の極楽浄土に到達したとみなし、太陽の御来光を拝んで、死後の成仏を願い、現世利益の様々な祈願を太陽に込めて再生と復活を願ったのである。
 梅原によれば、古代エジプトでも太陽の神であるラーに対する崇拝があったという*3。ラーの神は生死を繰り返していて、夕日とともに死後の世界へ入って行って、死の世界をくぐって、再び朝日とともに東の空へ蘇る。そのような神だ。日本の神話に出てくる神も太陽の神である天照大神、仏教の大日如来も太陽の仏である。このように日本の文化の中心である仏教と神道の太陽崇拝は普遍性があるのではないだろうか。そのようにして民衆化していった修験道は、富士講として、江戸時代の半ば以降、拡がっていく。講とは、寺社や霊山に参拝するための信徒団体のことである。岡本亮輔の『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)によれば、最盛期には「江戸八百八町に八百八講」と言われるほど存在していたといわれる*4。
 富士講の開祖とされる長谷川各行(1541~1646)は、一切衆生を目指しており、それを継いで、富士講の流行の火付け役となった食行身禄(1671~1733)も、階層や身分を超えた平等思想を説いていた事から平等思想を説く富士信仰の特徴がわかる。これも、また梅原のいう「草木国土悉皆成仏」という平等思想に繋がっていく。江戸の各所には、登拝に行けない人のために、溶岩や土で作られた富士塚が築かれた。現在でも、江戸七富士として残っており、毎年、お祭りも行われている。また、東京とその周辺には、富士見台や冨士見坂という地名などが残っている、
 このように、山岳登拝から始まった富士講は今ではほとんどなくなってしまったが、富士講の修行場であった場所も世界遺産に登録され、山岳信仰としての富士山も見直されていくのではないだろうか。

2、鎖国と明治維新

 ここからは富士山から離れて、富士山が象徴する日本文化の基盤について考えていきたい。まずここでは鎖国と明治維新を扱っていく。日本の文化を考えるうえで、鎖国と明治維新は避けては通れない話題だ。そこで、現静岡県知事であり、学者でもある川勝平太の『日本文明と近代西洋ーー「鎖国」再考ーー』(NHKブックス)をベースに鎖国と明治維新について考えていく。
 日本は西洋以外で唯一、近代化が成功した国であり、かってのような勢いはなくなったものの、現在でも経済大国である。それは、鎖国から明治維新で西洋文化を受け入れて、富国強兵を実践してきたからだというのが、一般的な理解だろう。しかし、川勝はそこに疑問を投げかける。①なぜ、日本は西洋列強に植民地化されなかったのか、②そもそも、なぜ日本は近代化に成功したのかである。①については、明治維新の頃、中国をはじめアジア各地が西洋列強の植民地にされており、急速に富国強兵をすすめたとはいえ、西洋列強に比べて、「後進国」とみなされていた日本が植民地化されなかったのは不思議である。②についても、西洋以外の国でも近代化をすすめようとして成功しなかったのに、日本だけ成功したのは不思議である。
 川勝は、②について、明治維新によって急激に近代化出来たのは、「鎖国」体制下の日本で近代化の下地が出来ていたからだとする*5。そこで、川勝は「鎖国」体制下の日本と「近代世界システム」下の近代西洋の物産構造が類似している事に注目する*6。開国後、日本と西洋が貿易した中身で西洋側が売った品目の中心は木綿と砂糖、日本が売った品目の中心は生糸と茶であった。これらの[木綿、砂糖、生糸、茶]という四品目は日本が近代世界システムと接触する以前から国際商品であり、近代世界システムの中で広く需給されていた物産であったが、それを日本は鎖国j時代に自給していたのである。では、なぜ日本は国際商品である四品目を自給できたのか。
 川勝は山崎正和の『室町記』や内藤湖南の『日本文化史』を引き合いに出して、日本では鎖国前の室町時代に今の日本文化のほとんどが生まれ、応仁の乱以前と以後では、文化・物産複合の大転換が起きていたとする*7。そのころには[木綿、砂糖、生糸、茶]という国際品目である四品目の需要が増え、中国だけでなく、インドなどの南・東南アジアとの交易をおこなうようになっていた。そのように早くから南・東南アジアと交易をしていたからこそ、ノウハウを蓄積し、鎖国時には自給できていたのである。しかし、これは開国時、日本が植民地化される危機がむしろ強かったことを意味する。なぜなら、物産構造が類似しているということは、競争に巻き込まれるということになるからだ。つまり、物産構造が似ていて、「後進国」という事は、「先進国」の大量生産で安価な商品に負けてしまう可能性が高いことを意味する。しかし、そうはならなかった。その理由を川勝は国際商品であった[木綿、砂糖、生糸、茶]という四品目の中の「木綿」に求める。
 ヨーロッパにおいては木綿は[長繊維綿ー細糸ー薄地布]が好まれた。それに対して、日本は[短繊維綿ー太糸ー厚地布]が好まれた。そのような違いがあったからこそ、日本は西洋列強と競合にならず、棲み分けする事が出来たので、植民地化されなかったというのである*8。これが、①に対する川勝の答えである。そして、その間に鎖国時に築かれた近代化の下地を利用しつつ、西洋文化を急速に取り入れて近代化していく。
 そこからみえるのは、従来の閉ざされた日本ではなく、開かれた日本の姿だ。そこから鑑みると今の日本文化に対するイメージとは違う日本文化が浮かびあがってこないだろうか。哲学者の東浩紀は対談集の中でこのように述べている。

……危機のとき、日本は常に「外に身を開くこと」でそれを克服してきた国だと思う。具体的には、たとえば外国からの移民や投資を大胆に受け入れてもいいのではないか。それこそが日本の本来の姿なのではないか。
(『震災ニッポンはどこへいくーー東浩紀対談集 ニコ生思想地図コンプリートーー』株式会社ゲンロン、151頁)

3、縄文と弥生

 日本文化を考えるうえでもう一つ欠かせない事がある。それは縄文文化と弥生文化だ。梅原猛は、縄文は森の文化、弥生は稲作の水文化という。縄文文化は約二千~三千年前まで一万年以上も続いたといわれている。縄文文化の特徴は、狩猟採集文化であり、アイヌ文化がそれを継承していると梅原はいう*9。アイヌでは山も川も生きていると考えられている。そのように考えると、日本仏教の「草木国土悉皆成仏」という思想につながるのもわかる。
 次に弥生文化だが、宮本常一の『日本文化の形成』(講談社学術文庫)によれば、弥生文化を代表する稲作は中国の沿岸から朝鮮半島の南部を経由して、日本にもたらされたものではないかとしている*10。そこから、宮本は『魏志』の「倭人伝」に出てくる倭人とは、このように中国の沿岸からやってきた弥生文化人の事を指し、古くから住んでいる縄文文化人とは違うのではなかったのではないかと述べている*11。なので、『魏志』の中に出てくる倭国は当時あった邪馬台国とは別ものであったとする。さらに、『日本書紀』によれば、律令国家を形成したのは、縄文文化人でなければ、弥生文化人でもないそうだ。当時、弥生文化人は土蜘蛛とか、国樔であるとか、海人と呼ばれており、縄文文化人は蝦夷と呼ばれていた。このような人々を統一して国家を形成したのは、あらたに海の彼方から渡来してきた人たちであったとしている。
 それに関して、川勝は序で挙げた梅原との対談集の中で大化の改新で日本国家の礎を築いた藤原鎌足は実は百済王の息子ではなかったかと推測している*12.また、大化の改新で滅ぼされた蘇我家には蘇我蝦夷がおり、元から日本にいた縄文文化人だと考えられる。さらに、鎌足により流罪にされた秦河勝は新羅系とされていているが、キリスト教ネストリウス派(景教)の信者ではなかったのかというのだ。
 川勝は司馬遼太郎の『ペルシャの幻術師』(文春文庫)を引き合いに出して、「秦氏」が居住した京都の太秦は、「うずまさ」と呼ぶのではなく、「ローマ」を指す「大秦」という漢字表記で、「太」というのは「大」を二つ重ねて「大」を強調する文字なので、「偉大なるローマ」という意味になるという*13。その上、ペルシャのゾロアスター教までも当時の日本に入ってきてたのではないかというのだ。なぜなら、聖徳太子から秦河勝に下された太秦の弥勒菩薩=半跏思惟像の「弥勒」とはサンスクリット語の「マイトレーヤ」の漢字表記であり、マイトレーヤは「ミスラ」「ミトラ」の転化で、ゾロアスター教の神であるからだ。
 このように考えると古代日本には、すでに様々な文化、宗教が入ってきており、また、縄文文化人や中国の沿岸部から来た弥生文化人、朝鮮半島から逃れてきた百済人、新羅人など多種、多様な文化であった。ここで、もう一度、東の引用をする。

よく言われているように、日本人という単一の民族は存在しなくて、いろんな人間が流れ込んで混血を繰り返した結果できたものにすぎない。また歴史的に見ても、この国は、大化の改新(乙巳の変)と明治維新の二回、唐や西洋といった外国のシステムを億面もなくそのまま導入することによって国難を乗り越えている。僕は、その臆面のなさというか、破廉恥さにむしろ希望を見出したいんですね。かって百済の王族が新羅と唐の連合軍に負けたとき(筆者注:白村江の戦)、逃げ込んだのは日本だった。日本はそういう亡命者や難民が作り出した国です。僕は、その歴史は誇りに思うべきだと思う。というのも、伝統的に日本は脱落した人々に優しい国だったことを意味するからです。外国から「二流」の連中がやってきてこの国で変な文化を生み出していく、そのような歴史を繰り返すことによってこの国はダイナミズムを確保してきた。
(『震災ニッポンはどこへいくーー東浩紀対談集 ニコ生思想地図コンプリートーー』株式会社ゲンロン、150頁)

4、結

 最後にもう一度、富士山に戻りたい。今までみてきた通り、日本文化は古代から、様々な宗教、人種が混ざって出来たものであった。また、鎖国以前から国際的な交易を行っており近代化の基盤が出来ていた。だからこそ、明治維新以降は西洋のシステムを急速に取り入れ、近代化する事が出来たのである。そのような日本文化の象徴である富士山は古代から山岳信仰の場であり、太陽と水の信仰があった。
 梅原によれば、太陽は縄文文化、水は弥生文化の信仰の対象であったという。そこから、富士山は縄文文化と弥生文化が交わった場所だと考えられる。また、江戸時代には、富士講が流行り民衆の中にも根付いた。明治になって、富士講は廃れ、山岳信仰はほとんどなくなってしまったが、いまだに、葛飾北斎の「富嶽三十六景」など、富士山が描かれた浮世絵などは人気があり、日本人の心の中に富士山への愛着は残っている。梅原のいうあらゆるものに仏性が宿っているとする「草木国土悉皆成仏」という思想は日本仏教から出てきたものだが、これも日本の古層にある山や川も生きているとする縄文文化から引き継がれてきたものだと考えると納得できる。
 東は梅原のインタビューの中で「『アニメーション』は、アニミズムと語源が同じでモノに魂を宿らせる技術のことを意味します。(中略)アニメがなぜ日本で強いかという問題ともつながります。*14」と述べている。そのように、古代から外に対して開かれていて、あらゆるものを取り込んだ日本文化。それは、現在、我々が想像する日本文化とは違うのかもしれない。だが、そこにこそ希望があり、未来がある。我々はもう一度、本来の日本文化を見直す必要があるのではないだろうか。富士山が「世界文化遺産」に2013年に登録されて4年がたったが、富士山をどのように捉え、世界に発信していくことが、日本文化を考える事になると思う。

 


*1 梅原猛・川勝平太『日本思想の古層』藤原書店、2017年8月、89頁。

*2 同上、65~66頁。

*3 梅原猛『人類哲学へ』NTT出版、2013年10月、32頁。

*4 岡本亮輔『江戸東京の聖地を歩く』ちくま新書、2017年3月、42頁。

*5 川勝平太『日本文明と近代西洋ーー「鎖国」再考ーー』NHKブックス、1991年6月、2~3頁。

*6 同上、30頁。

*7 同上、26~27頁。

*8 同上、91~92頁。

*9 梅原猛『人類哲学へ』NTT出版、2013年10月、29頁。

*10 宮本常一『日本文化の形成』講談社学術文庫、2005年7月、35頁。

*11 同上、47頁。

*12 梅原猛・川勝平太『日本思想の古層』藤原書店、2017年8月、47頁。

*13 同上、189~193頁。

*14 東浩紀編集『日本2.0--思想地図β vol.3ーー』株式会社ゲンロン、2012年7月、315頁。

 

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