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美しい星の美しい国

 私は、今回の課題に対して、三島由紀夫の『美しい星』を取り上げたい。
 国内で共謀罪や憲法改正、天皇陛下退位の特例法案など政治的に大きな変化が起こりつつある現代と、この本が刊行された一九六二年は安保闘争が激化していた時代である。また、国際的にみても、刊行された年は東西冷戦が激化して、核戦争の危機の時代であったのと、現在のアメリカ、中国などの超大国の対立や、北朝鮮の核問題などの政治的混乱の状況も似ている。
 そのような中で、この本を取り上げる事によって、現在の日本における文学の可能性を考えていきたい。

 三島由紀夫の『美しい星』は三島の作品では異色のSF的作品で、今年、『桐島、部活やめるってよ』などの映画作品を手掛けた吉田大八監督によって映画化され、今また注目されている。
 さて、『美しい星』のあらすじは、地球とは別の天体から飛来した宇宙人であるという意識に目覚めた一家が核兵器による人類の滅亡を防ごうとする作品である。
 今回は三つの議論を通じて、これからの文学の可能性について探っていく。

 ひとつめは、『美しい星』において、円盤飛来地がなぜ、東生田や内灘だったかについて考えていきたい。
 これについては、文学研究者の九内悠水子の「三島由紀夫「美しい星」論――円盤飛来地の意味するもの――」*1に書かれているものが参考になる。
 九内によれば、東生田や内灘は「戦争・占領という歴史が忘却された地であった。その上に成り立つこれらの空間、円盤飛来地が、空虚な日本の姿の表象として示されている*2」のではないかと述べている。
 『美しい星』に出てくる東生田駅は小田急電鉄小田原線の駅であり、今では「生田駅」に改称されている。かつて、この地では、通称登戸研究所とよばれた旧陸軍の科学研究所が存在し、生物兵器をはじめとする研究を行っていた。終戦後、GHQが研究成果を軍事目的に利用しようとして、関係者と取引をした事で知られている。
 次に、内灘は金沢市の近郊、日本海と河北潟に挟まれた砂丘の村である。この地では、一九五二年、米軍砲弾試射場設置に反対する内灘闘争が行われた場所である。一時期は全国規模の運動にまで発展したが、複雑な組織関係や、内部抗争から次第に状況は膠着、長期化の様相を呈し、最終的には一九五七年の米軍撤収により終息した。
 九内は、このような地を三島が選んだのは、「円盤飛来地という空間に隠ぺいされた時間――歴史の再提示であり、それは、表層の時代、すなわち核兵器を含めた科学の進化、あるいは経済的発展という近代化の上に成立している空虚化大衆化した日本の姿への警鐘でもあった。*3」と述べている。
 私は、これは、今でいえば、ダークツーリズムにつながる議論ではないかと考える。歴史的に忘却された場所を円盤飛来地という一種、「聖地」のような場所に仕上げる事。これは、文学の想像力によって、忘却された場所を「聖地」にする可能性を『美しい星』が示したと考えられないだろうか。

ふたつめは、『美しい星』において、政治と文学の関係がどのように描かれているかをみていきたい。
 東浩紀の『セカイからもっと近くに――現実から切り離された文学の諸問題――』*4(以下、『セカイから』)によれば、政治とは現実、文学とは想像力の事だと定義している。そして、現在は想像力と現実が関係をもちにく時代であると述べている*5。『セカイから』はそのような状況の中で、四人の作家を挙げ、想像力と現実を再縫合しようと試みている著書である。ふたつめの議論ではこの本をベースにして、考えていく。
 まず、一般的に三島の生きた時代、特に『美しい星』が書かれた一九六二年というと政治と文学が一致していると信じられた時代なので、本書も政治と文学がきちんと描かれている思われるだろう。だが、本書を読むと、実に「セカイ系」と似た構図になっている。どういう事か。
 「セカイ系」とは、一般には、主人公とその恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項を挟むことなく、「世界の危機」や「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力の事だと理解されている。『美しい星』では、まさに核戦争による「世界の危機」を恋愛関係こそ描かれないものの、主人公と、主人公の家族という小さな人間関係によって描かれている作品になっている。
 事実、主人公の重一郎と家族は、核戦争による人類の滅亡を防ごうと奔走するが、近所の雑貨屋からは「狡いことをしてお金を儲けていながら、浮世の塵には染まらないというような顔をして、一家そろってお高くとまって暮らしている。ほんとに気障ったらしい家ったらありゃしない」*6と疎まれているのに対して、娘の金星人である暁子(この設定自体、セカイ系ぽい)は、その雑貨屋の事を「私には拒まれているけど、あそこに地球人の生活があるのだわ。私たちの力で、どうしてもあの人たちを水素爆弾から守ってあげなくては」*7と勝手に思い込んでいるところなどは、いかにも「セカイ系」そのものではないだろうか。
 しかし、ただの「セカイ系」文学でない。その理由は私が最初、東の『セカイから』の議論をベースにして考えていくと述べた事にヒントがある。というのは、『セカイから』で取り挙げている四人の作家の中で『美しい星』と同じような方法によって「セカイ系の困難」を乗り越えようとした作家がいるのだ。それは新井素子である。
 東は、新井が「家族」のモチーフを作品に取りいれる事によって、「セカイ系の想像力」に無意識に「抵抗」していると述べているのだが*8、『美しい星』も「家族」が中心の作品である。なぜ家族が「抵抗」になるのだろうか。それは、東によれば、「セカイ系」は「想像界と現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く」表現形式なのだが*9、「家族」はそのいずれにもきれいに収まらないからだと答える。詳しく説明していこう。
 まず、「象徴界」とは、社会の公共的な物事、「想像界」とは、恋人関係などの幻想世界、「現実界」とは、そういう公共的な物事や幻想を壊すリアルなものであるが、「家族」は「象徴界」、「想像界」、「現実界」の全ての要素を含むものだからである。なので、「セカイ系」という「象徴界」を欠く表現形式の埋め合わせをする事が出来るのである。
 さらに、新井は「拡張」された「キャラクターたちの家族」を描いているのだが、『美しい星』も家族という体裁はとっているものの、各自、やって来た星はバラバラの宇宙人の家族いう設定である点で、新井の方法論と似通っている(ちなみに、主人公である父親の重一郎は火星人、母親の伊余子は木星人、息子の一雄は水星人、娘の暁子は金星人だ)。つまり、家族ひとりひとりが宇宙人という「キャラクター」なのだ。その「キャラクター」である宇宙人たちが家族を営む物語。それが、『美しい星』である。

 最後に、この作品に表れている三島自身の思想の限界と可能性を考えたい。
 物語の中で一家の父親であり、火星人の重一郎と抵抗勢力の白鳥座第六十一番星の未知の星から来たという仙台の羽黒助教授との人類の運命に関する論争についてみていく。
 この場面は文芸評論家の奥野健男がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章を思い浮かべたとと述べるほど*10、この作品の中でも一番、力を入れて書かれている場面であり、多くのページが割かれている。
 ここで、羽黒は人類が滅亡した方がよい理由として、事物への関心、人間への関心、神への関心という三つの宿命的な病気ないし、欠陥があるためだと語っている。羽黒は、これらは「人類の理性的一面の抽象であり、これらの知的関心がいずれも核戦争のボタンを押すことにつながっている*11」のだと述べている。
 それに対して、重一郎は人間の五つの美徳を挙げ、人間を擁護する。

『地球なる一惑星に住める

人間なる一種族ここに眠る。

彼らは嘘をつきっぱなしについた。

彼らは吉凶につけて花を飾った。

彼らはよく小鳥を飼った。

彼ら約束の時間にしばしば遅れた。

そして彼らはよく笑った。

ねがわくはとこしえなる眠りの安らかならんことを』(三島由紀夫 『美しい星』 p297)*12

 いかにも芸術家気質の重一郎の詩だが、簡単にいうと、これらは人類が生きていくために身につけた処世術のようなものである。これによって、羽黒の理性面からの主張に対して、重一郎は美的面での対抗をする。ここに三島の思想が表れているのではないだろか。理性に対する美の擁護。
 しかし、その後、重一郎は末期のがんに冒され、家族とともに、円盤に乗って故郷へ帰るため、病院を後にする。その道中、重一郎が息子の一雄に「われわれが行ってしまったら、あとに残る人間たちはどうなるのでしょう」と問われ、「何とかやってくさ、人間は」*13と答える。その後、一家の前に円盤が現れる。これは、美の現実に対しての、敗北なのか。
 その後、三島は市ヶ谷駐屯地にて、自衛隊のクーデターを呼びかけ、割腹自殺。評論家の宮崎哲弥は社会学者の宮台真司との共著*14のなかで、「晩年の三島は、[……]忘我に向かう意識状態とそれを鋭く否定する近代的理性とが拮抗していたんじゃないかという印象がありますねぇ。その鋭利な刃の上で均衡しているような精神状態に耐えられなくなり、自己を虚無に向かって投げた。*15」と述べている。
 ここでいう忘我に向かう意識状態とは、美的陶酔とでもいえばよいだろうか。作品の中で娘の暁子が内灘で文通相手の竹宮と円盤をみた時の陶酔状態と似ているかもしれない。『美しい星』の中で対立していた考えが、三島の中でも拮抗していたのであろうか。
 だが、これでは、美は現実に負け、三島のような運命を辿ることになってしまう。しかし、そうならないためのヒントが、重一郎の言葉に隠されている。それは、「気まぐれ」だ。
 作品の中で羽黒がさきに述べた三つの宿命の為に、人類は水素爆弾のボタンを押す事になると述べた後に、重一郎が「あなたは人間どもは必ず釦を押すと言う。それはそうだろう。しかし釦を押す直前に、気まぐれが微笑みかけることだってある。それが人間というものだ*16」と述べ、人間を擁護する。
 さらに、重一郎は「気まぐれこそ人間が天から得た美質で、時折人間が演じる気まぐれには、たしかに天の甘美なものの片鱗がうかがわれる。*17」と述べている。理性と美の二項対立を中和する第三項としての「気まぐれ」。重一郎は続ける。「私が希望を捨てないというのは、人間の理性を信頼するのではない。人間のこういう美しい気まぐれに、信頼を寄せているからだ。*18」と。
 これは、哲学者の東浩紀が『ゲンロン0――観光客の哲学――』*19の中でルソーを引き合いに出して述べられている「憐れみ」の概念と似ていないだろうか。東のいう「憐れみ」はたまたま苦しんでいる人に声をかける。これが連帯の基礎になると述べている*20。この、「憐れみ」の「偶然性」こそ、重一郎のいう「美しい気まぐれ」に他ならない。
 ここに、三島の限界を乗り越える希望がある。「気まぐれ」=「憐れみ」の美しさについて、書かれた文学。それが、『美しい星』でなかろうか。
 この三つの議論によって、美しい星の美しい国において、どのような文学が可能かについての探求を終えたい。
 

 

 

 

 


*1  九内悠水子「三島由紀夫「美しい星」論――円盤飛来地の意味するもの」、『近代文学試論』 (広島大学近代文学研究会)第47号 2009年12月

*2 同上 68頁。

*3 同上 71頁。

*4 東浩紀『セカイからもっと近くに――現実から切り離された文学の諸問題――』東京創元社、2013年12月。

*5 同上 2~3頁。

*6 三島由紀夫『美しい星』新潮文庫、1967年10月 42頁。

*7 同上 44頁。

*8 東浩紀『セカイからもっと近くに――現実から切り離された文学の諸問題――』東京創元社、2013年12月 23頁。

*9 同上 19頁。

*10 奥野健男『三島由紀夫伝説』新潮文庫、2000年11月 385頁。

*11 同上 387頁。

*12 三島由紀夫『美しい星』新潮文庫、1967年10月 297頁。

*13 同上 356頁。

*14 宮台真司×宮崎哲弥『エイリアンズ――論壇外知性体による「侵犯」的時評’03-’04――』インフォバーン、2004年 10月。

*15 同上 341頁。

*16 三島由紀夫『美しい星』新潮文庫、1967年10月 295~296頁。

*17 同上 294~295頁。

*18 同上 295頁。

*19 東浩紀『ゲンロン0――観光客の哲学――』 ゲンロン、2017年 4月。

*20 同上 197頁。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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