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侵略者はもう来てくれない。黒沢清監督『散歩する侵略者』が描く世界。

 

◎立派な大人とは?

立派な大人とはどのような存在であるか? 黒沢清は映画を撮ることで考え続けて来た。それは本人が書いた文章にも強く刻まれている。自らが撮った作品を時間を経てから観るとパニック状態に陥るという文章の後に来る一文だ。

 

そんな情けないことで立派な大人と言えるのか、とお叱りの方もおられよう。大人なら目の前の現実と堂々と向き合わなければならない……のかもしれないが、私は遠慮しておく。幸いこっちは政治家でも教師でもなく、映画を作っているだけの人間なので、そうそう厳しい現実と向き合う必要性を感じていない。

 

これは映画『散歩する侵略者』公開に合わせて刊行された『黒沢清の全貌』(文藝春秋社)の冒頭にある序文の一部だ。その本のタイトルの上には「世界最恐の映画監督」とある。世界最恐監督は「立派な大人」の存在が気になってしまうのである。私も「立派な大人」について考えたい。

 

2017年に公開された黒沢清監督の映画『散歩する侵略者』は、侵略SFと語られている。地球外生物によって人類が絶滅する恐怖を描く作品だ。この映画の紹介には「黒沢版 宇宙戦争」という見出しもよく見られた。2005年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の『宇宙戦争』は、SFの父とも呼ばれるイギリスの小説家 H・G・ウェルズが1898年に発表した小説を原作にした映画で、主演のトム・クルーズは圧倒的な力を持つ宇宙人から子供を守るために奮闘する。黒沢はゼロ年代映画のベスト10においてこれを選んだことが知られている。しかし、『散歩する侵略者』に登場する宇宙人は、その映画のように圧倒的な力で人類を殲滅しようとする者ではない。友好的であるか、暴力的であるかは状況によって違うのだ。この映画を侵略SFと言ってしまうのは少し乱暴なのではないか?

 

まず気になるのは、圧倒的な力を持った宇宙人が地球侵略しようとするにも関わらず、地球人を知るために概念を奪って歩くという設定だ。侵略者というのは相手を知ろうとするものなのだろうか? 情が湧いて侵略しにくくなるんじゃないか? この映画に前川知大の原作があることはもちろんわかっているが、原作で気になる箇所があれば、それを変更することも黒沢はできたはずで、これまでにもそのようなことはあった。

 

スピルバーグの『宇宙戦争』では、宇宙人は会話しようとすることなく、ひたすら人間を食べようとする。侵略者が相手を知ろうとする理由とはどのようなものだろう。真っ先に思い出されるのが、太平洋戦争における日本の敗戦後のことである。アメリカは終戦になるかなり前から日本をどう統治すべきか研究していたという事実だ。戦力の差は歴然とあった。その研究の結果、終戦後、周辺国の反対にも関わらず昭和天皇の責任は免除され、アメリカ主導のもと象徴天皇制が作られている。天皇制を残した方が、日本国民を自らの目的に沿うよう動員しやすいと考えたためだ。例えば、日本に小麦を中心とした農産物の輸出先としてのマーケットを育てる必要がアメリカにはあった。もしくはソビエトを中心とした共産主義国の拡大を防ぐための前線基地として、日本を役立てるという目的もあった。

 

吉見俊哉『親米と反米』(岩波新書)は、連合国軍最高司令官マッカーサーが行ったイメージ操作を指摘している。占領体制確立以降、マッカーサーは極力日本国民の前に顔を出さないよう心がけていた(逆に昭和天皇は国民の前に出し人間であることを印象付けた)。メディア検閲も活用されている。アメリカの占領はその強制が可視化されないよう配慮されたのだ。有名な昭和天皇との写真も、友好関係を示すために出しただけで、大きなアメリカと小さな日本という力関係を示す演出ではなかったとジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店)を引用しながら指摘する。

 

『散歩する侵略者』の宇宙人の外見は人間と変わらない。どこから見ても日本人であり、宇宙人であることはわからないのだ。だが、3人の宇宙人にはアメリカのように日本へ来るべき理由が存在しない。偵察するのであれば近所を散歩するよりも他にやるべきことがあるはずで、彼らはなぜ身近な人々のことを知りたがるのか? 3人はその理由を考えもせず当たり前に散歩する。一旦、侵略SFという設定を除外し考えて観るべきではないか。

 

◎黒沢清と3匹の子豚

この映画を観て童話『3匹の子豚』を思い出すのはおかしなことだろうか? 母親に自立を促された3匹の子豚。1番目の子豚はワラで家を作るが簡単に吹き飛ばされて狼に食べられる。木で家を建てた2匹目も同様に食べられる。3匹目だけが頑丈なレンガの家を建て、狼を倒す話だ。この童話は民間伝承として伝わり、19世紀にグリム童話に収録される。そして、その存在が広く知られるのは、ディズニーのアニメ映画『シリー・シンフォニー』の1話として1933年に公開されて以降のことである。多くの童話がそうであるように、この話にも教訓が書き込まれている。『散歩する侵略者』の3人の宇宙人からも教訓が得られるだろうか?

 

3人の宇宙人の内、家族との関係が全く描かれない女子高生の立花あきらは、命の重さを全く感じない人物として存在し、躊躇なく人を殺す。テロリストと言ってもいいだろう。自らの命をも軽く扱い死んでしまう。次にジャーナリストの桜井をガイドに選ぶ天野は、桜井と損得を中心にした契約関係を築くが、その後、それを超えてお互いを理解し始める。最後には桜井に身体を差し出してもらうことで自らのミッションを成功させる。企業戦士に見えるが、やはり死ぬ。そして、3人目。松田龍平演じる真治についてはもう少し詳しく観ていこう。

 

行方不明になっていた真治は病院に運び込まれ、長澤まさみ演じる妻の鳴海に引き取られる。行方不明になる前、真治の浮気がバレて夫婦仲は最悪だった。だが、宇宙人に乗っ取られた真治は、まるで子供のように何もできない存在として戻る。鳴海はイラつきながらも真治を躾けていく。そして、真治は散歩しながら隣人の概念を奪い、次第に人間らしくなって行くのだ。ついには鳴海との「愛」の受け渡しに成功することで、大人になり生き延びた。一方、「愛」の概念を奪われて無気力状態になった鳴海は、まるで介護を受ける年老いた母のごとくあった。

 

このように見れば、侵略 SFではなかったという主張も少しは真実味を帯びてくる。侵略SFの体裁を借りた童話であると。だが、観客は激しいアクションシーンや派手な空爆シーンがあったことを例にそれを否定するかもしれない。あれはなんだったのか? 厨二病的妄想シーンだと言うのは、確かに無理がある。二人は死んでいるのだから。

 

では、なぜ黒沢は子供教育について映画を撮ることにしたと言えるのか? 黒沢の映画では常に「近代」と「前近代」についての考察が見られる。フランスの歴史学者アリエスが言うように中世には「子供」という概念は存在しなかった。「子供」は近代になって発見された概念ということが知られている。前近代においては、仕事をこなせるようになれば一人前というように、それまでは人として扱われなかった。日本において江戸時代に行われた赤子の間引きなどもそれを証明するものだろう。

 

黒沢の作品において、もっとも明確に「近代」と「前近代」が描かれているのは1999年に公開された『カリスマ』だろう。役所広司演じる刑事の藪池は警察行政という近代組織に属しているが、ある事件を契機にシステムから外れてしまい、仕事も家庭も捨てて別の秩序を持った森の中に入って行く。そして、カリスマと呼ばれる木に感染し、ついには自らもコントロール不能なバケモノ的存在に変貌する。

 

日本においては、経済は江戸時代から近代化していたことが知られている。大阪の堂島では世界に先駆けて米の先物取引も行われていた。しかし、政治については明治憲法ができるまで待たなければならない。ここでは万世一系の天皇を君主とする立憲君主制が取られている。しかし、昭和になり太平洋戦争の敗戦によって象徴天皇制に変わるのだ。藪池は秩序ある近代的世界から前近代的な森に入り込み、そして、混沌の中でカリスマへと変貌する。黒沢の映画に登場する幽霊も、殺人鬼も、「近代」の制度の外にいるバケモノなのだ。

 

『3匹の子豚』が収録されたグリム童話も近代化と関係する。産業革命が起こった後の近代化が進んだ世界で普及している。日本にそれが登場したのは、現存する資料では1886年(明治19年)となっている。奈倉洋子著『日本の近代化とグリム童話』(世界思想社)には、日本が急速に近代化を遂げるのに必要な人材を育てるための教材として、グリム童話が使われたと書かれている。ヘルバルト派の近代的教授理論の実践的例として、グリム童話が使われていたのだ。ヨハン・フリードリッヒ・ヘルバルトはドイツの哲学者で、スイスの教育実践家であるヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの教えを発展させて大学での教育に役立てた。日本ではそれまでペスタロッチの教育思想などが取り入れられていたが、より道徳的なヘルバルト教育学が採用される。それは1890年(明治23年)に発布された教育勅語に繋がる流れとしてあった。

 

『散歩する侵略者』で宇宙人に身体を乗っ取られ子供になってしまった夫と二人暮らす鳴海は、新しい真治を愛していると自覚する中で、それでも宇宙人の総攻撃は不可避だと知ると、「やんなっちゃうな」というセリフを呟く。それは小津安二郎監督の映画『東京物語』において長女役の杉村春子がつぶやくセリフでもある。『東京物語』は1953年、朝鮮戦争が終わった年に公開された。この戦争により日本では朝鮮特需と呼ばれる好景気の時代があり高度成長期を経験する。その中で忙しさのあまり両親に冷たい態度を取る娘、息子たち。そして、戦争で亡くなった息子の嫁。この原節子が演じた血は繋がらないが、とても優しい嫁の存在は失われゆく理想化された日本人像なのだろう。その先の未来にわれわれが暮らす現在がある。

 

2013年に公開された黒沢作品『トウキョウソナタ』はまさに日本の近代化が失敗したことを観客に突きつけた映画と言えるだろう。『東京物語』にはまだ少なからず存在しえた父の威厳は、この映画で見事に粉砕されている。一時とは言え、80年代後半に将来世界一の経済大国になると言われた誇らしき日本は完全に過去だ。ダークカラーのスーツに包まれたサラリーマンの一団が、沈む船のごとく坂道を下るシーンの怖さは印象深い。

 

しかし、日本は黒船が来ないと変われない国だと言われている。自ら変わることができず強大な武力を持つアメリカのような軍事大国の圧力がないと変われない国と言われているのだ。だが、黒沢清の『散歩する侵略者』に侵略者は登場しない。登場するのは未来からの贈り物である3人の子供たちだ。しかし、少し立ち止まって考えて欲しい。侵略者がこなくとも既に荒廃した世界はそこにあるのではないか。それはこの映画に登場する鳴海以外の大人たちを見ても明らかだろう。

 

もしくは、侵略者は見えない強風としてきょうも激しく吹き続けているとも言えるだろうか。太平洋戦争での敗戦以降ずっと可視化されない状態で占領されているという主張もあるだろう。ミサイルすらも日本の遥か上空を素通りして本丸に向かう。ミサイルもこない。いや、起こらないはずの原発事故だって実際に起きたことをわれわれは知っている。ミサイルが実際に日本に落ちることだってあり得るのかも知れない。だが、それが起きたとしても日本が変わらないこともまた知っているのだ。

 

映画の終盤、宇宙人の総攻撃が始まり、鳴海と真治は海辺の断崖の上で猛烈な突風に吹かれている。それは狼が子豚の家を吹き飛したよりもずっと厳しい風だ。しかし、それでも二人は生き延びる。3匹目の子豚が生き延びたように。二人は確かな絆を作ることで生き延びる。黒沢清は『散歩する侵略者』という童話を語って見せることで、「立派な大人」であることを引き受けたのではないか? そして、そこに書かれた教訓は、われわれの世界を立て直すのは侵略者ではなく、そこに住むわれわれでなければならないということだろう。もっといい侵略者なんて絶対に来ないのだから。(おわり)

 

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