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消え逝く愛をつなぎとめるための「手」。 観客はサッカーの敵なのか?

 

来年2018年には、4年に1度のお祭りFIFAワールドカップがロシアで開催される。この12月1日にはモスクワで抽選会も行なわれ、日本の対戦相手がコロンビア、セネガル、ポーランドの3チームと決まった。サッカーファンならずともその熱気を感じる機会がこれから増えて行くことだろう。しかし、サッカー日本代表への関心は2002年の自国開催をピークに年々低下している。日本代表への関心の中心は、ゴールの瞬間でもなく、勝利の瞬間でもなく、スター選手ですらない。サッカー日本代表という言葉がでたとき、人々が最初にイメージするのは、いまや渋谷スクランブル交差点でハイタッチを楽しむ人々なのだ。サッカーの観客は「手」を使って楽しむ人になった。「足」から離れてしまったサッカーへの関心を「手」に取り戻すためにはどうすればいいか? 半年後に迫ったワールドカップを前に考えたい。

 

サッカー日本代表の試合が終わって数十分が経過した頃ハイタッチがスタートする。付近のスポーツBARで試合を観戦した人々が徐々に渋谷駅前の交差点に集まって来るのだ。信号が赤から緑に変わると、四方から一斉に交差点中央を目がけて駆け出す。すれ違いざまに見知らぬ人々とハイタッチを交わすのだ。いつもはすれ違う他人でしかないサッカーファン同士が、このときだけはハイタッチという親愛の情を交わすことが可能となる。その開放感を素敵なひと時ということも可能だろう。だが、以下の事実を知ったあとでは、ハイタッチする人々をサッカーファンと呼ぶことも難しくなる。

 

前回、ブラジル・ワールドカップ初戦でコートジボワールと対戦した日本。本田佳祐の素晴らしいゴールで先制したものの、その後は、訪れたゴールのチャンスを活かすこともできず、さらにミスを連発して逆転負けしてしまう。勝てた試合を落としたことで、日本はその後の2試合でも実力を発揮することなくグループリーグで敗退する。あまりに痛い敗戦だった。そのとき試合後の渋谷の様子はどうだったか・・・

 

◉【ワールドカップ】日本敗戦も渋谷はハイタッチで大興奮(動画・画像)

http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/15/wc-shibuya_n_5496097.html

サッカーのワールドカップブラジル大会で15日、日本は初戦となるコートジボワールと対戦し、1-2で逆転敗けした。試合終了後、東京・渋谷駅前のスクランブル交差点には続々とサポーターらが集まり、交差点上でハイタッチをするなど大混雑となった。この日のために警視庁は約800人の警察官を配置。信号が青になると同時に青いユニフォームを着た群衆が横断歩道ですれ違いざまにハイタッチを繰り返し、至るところで「ニッポン、ニッポン」と声援が飛び交った。警察官が「立ち止まらないでください」など注意を促す声もかき消されるほどの盛り上がりをみせた』

 

警察官800人。いつも以上に盛り上がったようだ。日本代表の敗戦はまったく関係なかった。熱心なサッカーサポーターは敗戦のストレスを渋谷で騒ぐ人々を非難することで解消しようとした。負けたのにハイタッチかよ!

 

例えば、ワールドカップにおいて、退屈な試合が行なわれるとき、観客はそのことを選手に伝えるために両手をあげて「ウェーブ」を起こす。「私たちはいま退屈している」という表現はスタジアムで観戦する人々の正当な抗議の手段と言えるだろう。渋谷でハイタッチする人々も退屈極まりない試合を90分見せられた抗議の表明として、渋谷交差点で感情を爆発させたのだろうか? そうであるならハイタッチも正当な抗議の手段と言える。だが、その満面の笑顔からそのような意味を受取るのは不可能だ。そもそもがハイタッチをするためにわざわざ渋谷まで来てサッカーを観たのだろう。日本代表はハイタッチにも負けたわけだ。

 

それでも、彼ら、彼女らだって日本代表の試合をテレビで観ているはず。であるならサッカーは観客の獲得に成功したと言える。動員に成功した後で、その者たちがどう振るまうとしてもサッカーの問題ではない。だが、そう簡単に言えることでもないのだ。驚くべきことに、テレビ観戦のときにおいてすらも、観客の関心は足にもボールにもなく「手」にあると言える。日本代表のテレビ中継において一番の注目選手はピッチ上にいない。いまテレビ視聴者が一番注目する選手は、80年代に日本代表DFとして活躍した松木安太郎だ。

 

テレビ朝日のサッカー解説者である松木安太郎の役割は試合の解説ではない。サッカー中継のクライマックスは、松木が叫ぶ主審への罵声だ。劣勢に苦しむ日本代表。相手チームの選手がハンドの反則をしたにも関わらず、主審がそれを見逃したときにそれは顕著だ。「おい主審、いまのハンドだろう!」はネット上でも話題になった。サッカー解説者ではなく彼がただのサッカーを観てるオヤジに過ぎないという笑いだ。視聴者の感情を代弁する存在として松木は存在する。観客はハンドの瞬間を今か今かと心待ちにしている。

 

なぜなのか? 日本代表でしかサッカーに触れない視聴者にとって、サッカーとは「手」のことなのだ。サッカーを最も特徴づける要素は、言うまでもなく手を使わないことであるのに! しかし、そのようなことはサッカー以外でも普通に存在する。アイドルもそうだ。ここでも重要なのは「手」の存在感の大きさだ。

 

AKBのCD585枚投棄 容疑の男を書類送検 「処分困り」山に

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/366336/

 

現在、世界で一番CDを売るグループ、AKB48。そのCDが山に大量破棄されたというニュースがあった。AKBのCDはゴミなのか? これまでにもそのようなニュースはあったが、ここでは廃棄した男が書類送検されている。このニュースが意味することは、彼は音楽を聴くことを目的にしてCDを買っていないということだ。CDに付属した握手券や投票券を目当てにしてCDを買っている。そして、そのことは既に多くの人が知ることだ。だが、なぜかそのことがメディアで追求されることはなく、あくまでも「ミリオンセラー」という記号のみが流通する。

 

◉秋元康コラム:欅坂46が売れた理由(2017年5月8日)

http://www.yomiuri.co.jp/entame/ichiran/20170501-OYT8T50003.html

「なぜ、欅坂46が爆発的に売れたのか?」正直に言えば、それは僕にもわからない。僕は総合プロデューサーとして、作詞家として、いつものようにベストを尽くしただけだ。「サイレントマジョリティー」の歌詞の世界観やミュージックビデオのパフォーマンスで、反逆のアイドル笑わないアイドルと呼ばれるようになったが、それも、狙ったわけではない。オーディションの最終選考にったメンバーが、みんな大人しくて、どちらかと言うと、暗い印象があったのと大人や社会と接することを拒否しているような引きこもり感があったから、君は君らしく生きて行く自由があるんだ 大人たちに支配されるなという歌詞が浮かんだのだ。言わば、て書きである

 

AKB48や欅坂46のプロデューサー秋元康は、それらのグループが売れた理由を、自らの書いた歌詞や世界観が、偶然にも若い世代の感性と共鳴したからだと言いたいようだ。つまり、音楽が評価されたと言いたいわけだ。しかし、この言葉をなんの疑いもなく受け入れる者はそれほど多くない。なぜなら、山に捨てられるAKB48と同じくファンが買っているのは欅坂46のCDではないからだ。秋元がプロデュースするグループは、テレビ、雑誌などに大量露出したタレントを使い、接客することでCDを売るという手法を取る。CD1枚を買っただけでは10秒程の握手しかできないが、「まとめ出し」という言葉もありCDの枚数分アイドルと会話することが可能となっている。ファンはアイドルが接客する時間を購入していると認識しているのだ。お酒のでないガールズBARと言ってもいいだろう。

 

「アイドルはゼロ記号」と認識しているかもしれないファンに対して接客をしなければならないアイドルたち。その恐怖、精神的負担は想像を絶するものだ。彼女たちも斬りつければ血が出る生身の人間なのに。動員のための生贄は今週末も日本のどこかで握手を繰り返す。それがゴミになるCDを売るためだとしても。

 

アイドルも、サッカーも、動員だけを考えるのであれば、内容なんて空洞の方がいいのだろう。空洞は考え方の違いを超えて集まることを可能にする。だが、そこに人を集めるためには何らかの強度は必要で、それが「手」と「手」が触れ合ったという確かな実感なのだろう。だが、それが有効であるのはその接触の瞬間のみだ。その瞬間の延長を求めてお金の限りCDを買う。アイドルへの愛は使った金額で計られるしかない。それは本当に愛なのだろうか?

 

ワールドカップを主催するFIFAだって、観客が求めるものがサッカーでないことは認識している。無謀とも言えるワールドカップの規模拡大はそのことを証明している。前回のブラジル(2014年)開催、今回のロシアは旧東側諸国での初開催、さらに次回には中東での初開催となるカタール(2022年)と続く。南アフリカからの流れは工業によって発展した国々ではなく、はっきりと資源国での開催となっている。ワールドカップを開催したことがない地域で、かつ資金力のある国々での開催と言えるだろう。この流れはアメリカやイギリスなどを挟みつつ、これからも続くと予想される。そして、FIFAが最も注視するのは、10億超の人口を持つ2つの大国、中国とインドだ。発展著しいそれらの国々でのサッカーの普及は、マーケット拡大を考える上で外せない重要事項となっている。

 

だが、FIFAはそれらの国で開催するまで待てなかった。2017年1月、これまでのワールドカップ出場国数を32カ国から50%増、48カ国にすることを決定した。インドや中国の出場可能性を増やす為に、アジアからの出場国は今回の4・5カ国から2026年大会には8カ国に増加させることにしたのだ。

 

2つのグループに分けて行なわれるアジア最終予選において、グループ4位に入ればワールドカップ出場が可能となる。ちなみに、今回の予選を例にして言えば、イラン、日本、サウジアラビア、韓国、オーストラリアというワールドカップ出場を決めた5カ国に加えて、シリア、ウズベキスタン、UAEまでが出場可能ということだ。シリアやウズベキスタンの国民以外でその試合を観たい人はどれだけいるのだろう? このことだけでも出場国増加のインパクトが実感できる。かつて最高のサッカーが行なわれる舞台と言われたワールドカップはそこにない。実は、日本が初出場を果たした1998年のフランス大会も、24カ国から32カ国に出場国が増加した大会だった。ワールドカップは既に実力を伴わない国々が参加する大会になっている。観客がサッカーよりもハイタッチを楽しむのも当然だった。

 

最早ワールドカップにおいてサッカーは問題ではない。サッカーを犠牲にすれば、サッカー観戦への動員が容易になる。インドはまだしも、中国にはFIFAの期待に応えて次回のワールドカップ出場を決めてもらうことを強く望む。それでも中国が出場を逃し続けるならば、ワールドカップの出場国はほどなく64カ国に増やされてしまうだろう。恐ろしい話だ。

 

サッカーファンとしての私は、サッカーの未来に暗さしか感じない。サッカーの質を下げてもマーケットの拡大を目指すFIFAに失望しかない。しかし、そんな中で、ロシア・ワールドカップから新たなルールが追加されたことを知る。VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)これはサッカーの未来に対する希望なのだろうか? それとも・・・

 

◉ブラジル戦で採用されたVARDF吉田が再言及 「次ないのであれば…より激しく」(Football ZONE web

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171113-00010015-soccermzw-socc

『ブラジル戦の前半7分、左CKの守備時に吉田はマークしていたMFフェルナンジーニョ(マンチェスター・シティ)を手でつかんで倒した。プレーが途切れた後にビデオ・アシスタントレフェリー(VAR)による映像確認が行われ、主審はペナルティースポットを指差しブラジルにPK判定。これをFWネイマール(パリ・サンジェルマン)に決められ、日本は開始10分でビハインドを背負う苦しい展開となった』

 

FIFAからは誤審を防ぐためという、VAR導入の理由が示されている。だが、試合をストップさせてビデオを確認する時間は試合の興奮を冷ますのではないか? そんな疑問も既に上がっている。実際に上記のブラジル戦では、数分間の中断があり、このシステムを本当に採用するのかと多くの人々が疑問を持った。だが、酷い反則も多くある中で、VARによって守られる選手もいるはずだ。例えば、最高のサッカー選手と呼ばれるメッシは歓迎するのではないか。現在、メッシに対して、相手チームのDFはゴールを阻止するため、あらゆる手段を使う。彼のドリブル・スピードに対抗するために「手を使ってでも止めるしかない」という対応が取られることはある意味仕方がない。実際に、このような手段は普段からよく観られる光景で、審判に気づかれないように「手」を使ってメッシを止めることもままある。

 

それはメッシの人間離れした超絶プレーを楽しみに待つ観客にとっては害悪でしかない。反則なしにメッシを止められないならば、潔くゴールされればいい。しかし、相手チームの選手もそのままやられるわけには行かないのだ。2人がかり、3人がかりでメッシを取り囲む。そうまでしてもやられる時にはやられてしまう。「手を使ってでも」という考えはこんな瞬間に訪れる。つまり、不可能を可能にしようとする「あがき」が「手」なのだ。

 

ハイタッチを楽しむ観客だってスター選手の素晴らしいプレーに感動したいはずだ。サッカーそのものに興奮したいのだ。試合が魅力的であればそれは可能だ。サッカーから美しさを阻害する醜さを取り除くべきという意見は正当と言える。ロシアで行なわれるワールドカップにおいて素晴らしいサッカーを阻む「手」からサッカーを取り戻すことを望む。それこそがサッカーの未来を作る。

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