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境界を消失させる「アイドル」という表現。

日本文化論を試みるとして、その成立は困難を伴う作業だ。テレビやベストセラー書籍に見られる「素晴らしい」日本文化論は、ナショナリズムの歪んだ形での表出という批判は多くの場合正しいものだろう。グローバル化の進行による先行きの不透明化によって、その不安を和らげる為にそれらが現実逃避的に必要とされているようにも見える。境界は揺らぎ始めており、日本にいても世界との繋がりは明確に感じられるし、世界中のどの国にいても日本を感じることは可能で、いつ何時、外国人から日本文化について説明を求められるとも限らない時代に我々は生きている。

例えば、きゃりーぱみゅぱみゅがフランスのテレビ番組に呼ばれ「アイドル」とは何かについて質問された事例がある。2013年、ある女性アイドルが男性アイドル宅に宿泊したところを週刊誌に撮影された。ここまでは週刊誌の低俗な記事で済まされる、あくまでも日本国内限定の話であった。ところが、ここから奇妙な方向に事態は動きだす。彼女が所属するグループには恋愛禁止のルールがあり、彼女は髪を丸刈りにして泣きながら謝罪する姿をYoutubeにアップする。そして、その映像が海外にまで拡散されてしまうのだ。泣きまくる彼女の痛々しい姿はナチスによるユダヤ人虐待を連想させ、CNNなど世界規模で報道される。炎上マーケティングでは済まされなくなった。

ここで一つのミラクルが起こる。メジャーデビュー曲『PONPONPON』のMVがYoutubeによって世界規模で視聴されていたきゃりーぱみゅぱみゅが、ヨーロッパでライブツアー中だったのだ。きゃりーはフランスのテレビ番組『LE PETIT JOURNAL』に出演し、その中で番組司会者から「アイドル丸刈り事件」について以下の質問を受ける。彼女はそこでどう答えたか?

 

司会者:日本のアイドルはなぜ、恋愛が禁止されているのか?

きゃりー:日本のアイドルって恋愛に関して厳しくて、男性の人が応援してくれている代わりに、自分はプライベートでは恋愛せずにアイドル一筋で頑張るという人が多いです。

司会者:あなたはアイドルじゃないの?

きゃりー:私はアイドルではないので、全然自由に恋愛しても大丈夫なんです。

司会者:何が違うんですか?

きゃりー:私のやってることって、全く男性受けしないことをやっているので、アイドルではないです。もっとアーティスト寄りのことをやっています。

 

きゃりーがフランスのテレビ番組に出演したことは、日本でもすぐに話題となった。ネット上では、「きゃりー、とばっちりで災難だな」など好意的なコメントが多くみられた。「アイドル」ではないのに「アイドル」の説明を求められ災難だという受け止められ方をしたのだ。だが、そうではない。これは災難などではなく、大チャンスだった。司会者は「アイドル」とは何なのかを知りたがっている。「アイドル」とガールズ・シンガーを隔てる境界について聞いているのだ。すでに海外においても、日本で使われる「アイドル」は、我々が知る英語の「IDOL」と違う概念らしいと気づいている。だが、それがどのようなものか、よく理解できない。しかも、彼女こそ「アイドル」に違いないと思っていた、きゃりーぱみゅぱみゅ本人から「私はアイドルではない」と言われてしまう。さぞかしフランス人は困惑したことだろう。彼女はさらに「私はもっとアーティスト寄り」と語った。つまり、アーティストでもないらしい。肉でもなく魚でもない。じゃあ、一体YOUはなに? 日本文化の曖昧さにフランス人は困惑するしかない。

これは「アイドル」という日本で生まれ発展してきた特殊な文化を世界に発信する大チャンスだった。80年代末、宮崎勤の事件(*1)をきっかけに「おたく」という言葉が世間一般にも知られることとなったたように、「アイドル」も「丸刈り事件」をきっかけに世界に向けて発信するチャンスだった。もし、きゃりーがここで「アイドル」という日本以外に住む人にとって新しい概念を明快に語ることができていれば、彼女はレディーガガやケイティペリー、ニッキーミナージュに続く、ポップアイコンとしての地位を確立できたかもしれない。「私は日本で半世紀も続く『アイドル』という表現を作品にするアーティストです」と宣言する必要があった。もちろん、司会者は「あなたの言う『アイドル』とはなんですか?」と質問するだろう。当然、その言葉は用意されて然るべきで、それができないのであればアーティストと呼ばれることはない。非常に残念な出来事だった。

しかし、そのことできゃりーを責めることはできない。なぜなら「アイドル」が誕生した日本においても、それを明快に説明する言葉はまだ存在しない。ピンクレディー論、山口百恵論、松田聖子論はあっても「アイドル」という概念を批評として論じる文章はまだ存在していない。「アイドル」批評は可能なのだろうか? 日本の批評家たちの言葉を援用し、きゃりーをぱみゅぱみゅを例に「アイドル」を語ることにする。

 

2010年代に世界的なスターとなったレディーガガがマドンナのリバイバルとして語られたように、きゃりーも70年代後半に日本で大ブームを起こした十代女性2人組アイドル、ピンクレディーのリバイバルとして語ることが可能である。ピンクレディーは「変身型アイドル」として、歌のなかで野球選手になってホームラン王と対戦したり、宇宙人と恋愛してみせたりした(*2)。評論家の中森明夫は、「子供たちはピンクレディーの曲を歌い踊りながら、『どこへだって行ける、何にだってなれる』と欲望を肯定された」と語る(*3)。女子にも熱狂的に支持された「アイドル」だった。

1971年に誕生した「アイドル」は、「変身型」と「疑似恋愛型」という大きく2つのタイプに分けることができる(*4)。後者は主にファンとの恋愛関係を歌うので、自分自身の恋愛は禁止されることも多い。きゃりーに恋人がいてもファンが減らなかったのは「変身型」であることも理由である。「アイドル」は歌やダンスを見せるが、その実力によって決定的な評価が下されることはない。歌もダンスも一要素に過ぎず、あくまでも他との差異においてそれらは評価される。例えば、80年代後半にピンクレディーのリバイバルとして「変身型」で登場し、超ミニスカートで歌い人気だった森高千里は、自ら作詞した『非実力派宣言』において「実力はないわ、いいわ」と歌っている。森高は作詞の能力を高く評価されながらも、「アイドル」であることを堂々と宣言する。この曲はアルバムのタイトルになり、そのアルバムは彼女の代表作になる。そこには、右手を高らかに挙げ、まるで人形のようにポーズをとる森高の姿があった。

「変身型」の曲や歌詞は、評論家であり、マンガ原作者でもある大塚英志の言葉を使って言えば「アニメ・まんが的リアリズム」(*5)を想像力にしてつくられる。その架空世界はアニメやマンガがそうであるように、「アイドル」の楽曲においても多種多様だ。音楽のジャンルも限定されず、そのことも「アイドル」の説明を困難にする一因であるだろう。

きゃりーの楽曲はすべて、ミュージシャンの中田ヤスタカによってつくられている。彼自身のグループCAPSULEでは、EDMと呼ばれるダンスミュージックで統一されたアルバムが制作されているが、きゃりーの楽曲においては、ロックもあれば、メタル、ダンスミュージック、あるいは童謡風の曲もあり様々だ。批評家の東浩紀は、ポストモダンのオタク文化を「データベース消費」という言葉を用いて解説している。それは作品(ヒット曲)を消費することでも、背後にある世界観を消費することでも、さらには設定やキャラクターを消費することでもなく、さらにその奥にあるオタク系文化全体のデータベースを消費することだと語る(*6)。きゃりーの楽曲にはそれぞれのコンテクストと切り離された様々な文化の断片が盛り込まれている。アートディレクターの増田セバスチャンによって制作された『PONPONPON』のMVは、「データベース消費」を目に見える物として具現化している。

「変身型アイドル」は、「アニメ・マンガ的リアリズム」でつくられた楽曲に、生身の「アイドル」を放り込む表現なのだ。それは「アイドル」自身がキャラクターに変身することを意味しているが、このことは「アイドル」の実存の問題として度々浮上することになる。社会学者の宮台真司の言葉で言えば、それは人間を物のように扱う「物格化」と言えるだろう。「アイドル」に限らず人気タレントがスキャンダル一つで袋叩きにあうような状況は、タレントのキャラクター化の副作用である「物格化」が原因している。

80年代後半、大塚英志は「アイドル」の実存について度々言及した。昨年発売した著書『感情化する社会』(太田出版)では、アイドルファンがネット上で行う無償労働について指摘している他、「アイドル」についてではないが「感情労働」(*7)についても指摘している。「疑似恋愛型アイドル」においては、パフォーマンスだけでなく握手会のような仕事もあり、ファンへの接客態度が重視される。疑似恋愛を前提にした接客は、「アイドル」に大きな精神的負担を強いている。これはかなり厳しい「感情労働」だ。一方で、2015年の国勢調査によると日本人男性の生涯未婚率は23・37%を記録している。その数値によって芸能事務所やアイドルファンへの批判が免れるわけではもちろんないが、現代日本において「アイドル」の役割は案外大きなものであることは確かだ。

また、「アイドル」は広告代理店とテレビによってつくられた動員の装置だと非難されることもある。それは概ね正しいが、その言葉からこぼれ落ちる物があることも事実だ。例えば、宮台真司は、きゃりーの海外ライブに集まるファンの多くが人種的にマイノリティーであることを映像で知り、「かわいい」による「社会的文脈の無関連化機能」がその人気の秘密だと語った。

宮台は「日本的サブカルチャー」の出発点に、70年代前半の少女マンガにあったような「乙女チック」的に使われる「かわいい」があると指摘する(*7)。そこから「かわいい」によるコクーニングによって性の解放があり、「アイドル」にも繋がって行く。グローバル化によって危機的状況に陥る人間が増えれば、秋葉系キャラクターによって救われる人間も増える。だが、それが生まれた日本においては、社会的文脈の無関連化が進み、既に効果はなくなりつつある。共同体も消失し、価値のある現実も存在しない。社会のフラット化が全面化し、別の意味でのきつさに変化していると語る。

「社会的文脈の無関連化機能」によってあらゆる境界を消失させる「アイドル」という表現は、その是非は問われるにしてもグローバリズムに適しているのだ。そうであるなら、日本に向けての言説だけでなく、世界に向けて「アイドル」を語る言葉が求められる。

 

*1:連続幼女誘拐殺人事件の犯人として1989年8月に逮捕された宮崎勤。当時、宮崎の部屋にはテレビなどのメディアが入り撮影を行っている。5763本のビデオや、マンガ、雑誌が散乱した「おたくの部屋」がテレビに映し出された。

*2:『歌のディズニーランド50周年を前に』

*3:『AKB48白熱論争』(幻冬舎新書)

*4:『歌のディズニーランド50周年を前に』

*5:『物語の体操』(朝日文庫)

*6:『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)。ジャンルが特定できない音楽カテゴリーは他に、「渋谷系」や「ヴィジュアル系」がある。それらの「系」に属するミュージシャンは、データベースにある様々なジャンルから自分の好む音を好きに組み合わせて楽曲をつくる。

*7:『日本的想像力の未来』(NHK BOOKS)東浩紀編

 

◉歌のディズニーランド50周年を前に

歌のディズニーランド 50周年を前に -「アイドル」にとっての1970年と2011年-

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