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私が見たり聞いたりした、心にもないことを

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遠くから声、私の名前のフルネームの後に「くん」をつけてから「助けてー」と。

 小学生のころ、同級生と歩く学校からの帰り道、隣がトヨタの部品工場の駐車場で何も建っていないので、数十メートル離れたところからでも屋上付き2階建ての自宅はよく見えた。初め、空耳かと思った白いコンリート外壁の2階の窓から聞こえる声は、おそらく曽祖母のものだ。

 同級生に「ああ。ちょっと。またね」と言って、走って帰宅する。家の前まで来て石の階段を登り、玄関の扉を開けて中に入ると、2階から祖母が曽祖母に気味の悪い声で叫ぶな、と叱りつけているのが聞こえる。階段をそっと上がって覗いてみる。曽祖母が「なんもしとらん」とヒステリックに答える。そういうのが2日に1回よりちょっと少ないくらいの頻度であった。15年以上前の話だ。

 子どもの頃の家族は祖父、祖母、祖母の母である曽祖母、叔母に自分を含めて6人だった。2階の一番西の部屋に暮らしていた曽祖母は、祖母や母や叔母にときどき意地の悪いことを言う気の強い人だったが、一緒に旅行に行ったり、小遣いをくれたり、お菓子を買ってくれたり、私には比較的よくしてくれた。

 彼女は戦争未亡人だった。曽祖父はサイパン島で戦死した。曽祖母の部屋の隣の和室の仏壇には彼の白黒写真が飾ってあった。夫が出兵してから、祖母が結婚するまで母一人子一人で暮らしていたらしい。戦争が終わって、自宅に馴染みのない男たちが出入りするようになると、自分はそれを子どもながらにかなり嫌がっていたと祖母が言っていた、と母が言っていた。

 それで、祖母と曽祖母は仲が悪くなった。それが原因というよりも、お互いに仲が悪いことに慣れてしまって、そのまま二人で歳をとった。だから、曽祖母が食事中にご飯をこぼしたとか、何日も着た服を他の服に混ぜて洗濯したとか、直接にはすごくささいなことをきっかけにしょっちゅう喧嘩をしていた。

 私が子どものころくらいになると、曽祖母は「わしの金をとりやがって」とよく言っていた。自分のお金が盗まれたという妄想は認知症の症状の一つとしてよく知られている。実際にしばらくして曽祖母は、認知症を発症し、2階から私の名前を呼ぶようになり、叫ぶなと言われると、けろっとした顔で「なにこきやがる。なんもしとらんわね」と答えるので、家族から嘘つき呼ばわりされるようになった。

 他にもこぼしたご飯をこぼしていないと言い、2日着た服を今日おろしたばかりだと言った。それは途中まで、彼女が自分のやってしまったことをプライドが高いせいで認めようとしないにも見えていたけれど、確かに途中からは確実に曽祖母は自分がなにをやっているか自覚がなくなり、家族のことも自分のことも分からなくなった。結局、専用の施設に預けられた。

2、

 201711月、亡くなったずっと後になって曽祖母のことを思い出した。それは、真夜中の新宿歌舞伎町で友人と『ブレード・ランナー2049』を見ているときだった。

 2049年の世界を舞台にしたそのSF映画には、主人公の刑事Kを慕う、ホログラムの人工知能ジョイが登場する。Kは新しく購入したポータブル機器を使って、パートナーのジョイを家から連れ出すことができるようになるが、自宅から遠く離れたところで、彼の行く手を阻む敵の攻撃でその機器は破壊され、彼のことをよく知った彼女は永遠に失われる。

 ジョイを失った後、摩天楼を歩くKの前にクラウドAIである彼女が、同じホログラムの身体を持った街頭広告として再び現れる。ジョイは、ときにバレリーナのコスチュームに身を包み、ときにピンク色の裸体を晒して彼のことを見つめ返す。クラウドAIによって至る所に出現する「ジョイ」はキャラクターであると同時に、メディアそのものでもある。元々企業が生産した製品であったはずのジョイは、一度はまるで人格を持つKのパートナーのように振る舞い、結局壊れることで彼のことを忘れ、またどうしようもなく物(プロダクト)として彼のもとに帰ってくる。

 きっと、Kのことを忘れてしまったジョイのように、家族のことを忘れてしまった曽祖母が人から物になってしまったような気がした。認知症にかかった人間は人間で無くなってしまうのか。いや、多くの人はそう思わないだろう。ここで提起したい問題の一つは、実は現代とは多くの人が少しずつそう思うようになりつつあるのではないか、というものだ。

 相手がなんらかの事故や病気のせいで自分のことを忘れてしまっても、その人が「物」になってしまったとは思わない。一方で、ジョイのような人工知能に限らず、それに類似したよくできたなりすましのメールやSNSアカウント、ゲーム機器のインターフェースとのやりとりにどれだけ没入しても、それがエラーを起こして今までのコミュニケーションを反故にしてしまえば、もうそこに「心」があるとは思わない。なぜか。ある漫画のタームで、この議論をショートカットすると、それはそこに「ゴースト」がないからだ。

 「ゴースト」というタームは、1989年に士郎正宗が最初の漫画原作を発表したシリーズ『攻殻機動隊』に登場する。本作は第4次世界大戦を経て、記憶の植え付けや、アンドロイド、サイボーグや人工知能が一般化したアジアの大都市を舞台に公安9課という治安組織の活躍を描くサイバーパンクSFだ。主役の、9課の構成員草薙素子少佐は、幼い頃の飛行機事故で身体のほとんどを失い、いわば「ゴースト」以外がすべて人工物に取り換えられたかろうじて人間のサイボーグである。本書では、改造された人間と精密なロボットを区別するための概念を「ゴースト」と呼び、それは以下のように定義される。

ゴーストとはここでは総体的肉体システムの状態(相と言えるかも)であって脳という容器に入っているエネルギーの塊ではない。(エネルギーでできた場かもしれないが)人形使いの言う「自分」とは一定の複雑さに達した情報集積体がシフトして生命と呼ばれる相を成したと設定している。1

 「情報集積体がシフトして生命と呼ばれる相を成した」。ただのデータの集積がなんらかのシフトによって「ゴースト」を作った。あくまで概念としてだけ想定される「ゴースト」はまるで、高度に情報工学が発達し、「ゴースト」で悪ければ人間の心、意識、内面といったものと機械の区別がつかなくなりかけた世界で、慌てて人為的に書き込まれた名目上の(ヴァーチャルな)差異のようだ。そして、その1989年の未来像は私たちが生きる2010年のリアリティをよく説明する。

 ’90年代に、脳の再現を目指して進行してきた人工知能研究が一度行き詰まり、2010年代に復活した。その一因は、インターネット上を流れるデータ転送量の増大によって注目を浴びた、ビッグデータなどのテクノロジーによるデータ・サイエンスの勃興がある。ネット上を流れる膨大なコミュニケーションのデータを使って人間の脳のように思考し、応答するパターンを作り出すことが徐々に可能になり、それはプロの囲碁選手を凌駕する「alphaGO」や、大学入試試験に合格したり、チューリング・テストを突破するAIという形で成果を上げている。

 伝統的な西洋哲学が理性によって動物と人間を区別してきたのに対し、現代社会は人間と機械の区別を模索する。一方にはデータ上のテクニカルなコミュニケーション能力によって「心」があるかのように見せる「ゴーストなき「物」があり、もう一方には一貫した総体としての「ゴースト」を損ない、コミュニケーションが困難になっていく「人」がいる。両者の境目をつくるのが、「ゴースト」というただの名目上の概念ならそれを取り去れば人と物の区別は融解する。

 ここまで読んで、認知症にかかった老人は、人間ではなく物のようになってしまうと言いたいのではない、というようなことわりを書き手が入れるだろうと、期待する人もいるかもしれない。そうではない。むしろ大いにそう言いたい。家族のことを忘れてしまった老婆と、データの消えてしまった機械はとてもよく似ている。そしてそれは決して誰かを侮辱したり蔑んだりする言葉ではない。「ゴースト」のような特権的な内面を捨て去って、「心」を再定義するために今この文章は書き進められている。人工知能と高齢社会という2つの問題は。認知というラインで足並みを揃えてやってくる。

 ではなぜ、それを同列に語る必要があるのか。曽祖母が家からいなくなった日のことは、はっきりと覚えていないが、それからしばらくしていくつかの原因で、祖母が鬱病になった。祖父と祖母には貯金がなかった。老後を迎えていた二人が、曽祖母の遺族年金がないとかなり生活が苦しくなることも分かった祖母が言った「わしの金を盗みやがって」は、実は認知症の症状なんじゃなくて、単に事実かもしれない。

 鬱病でふさぎこみ、転んで腰を悪くした祖母が今度は家から出なくなった。曽祖母のいなくなった家の奥から、昼と言わず夜と言わず、低い声でうめく声が聞こえた。祖母の声だ。母と私は祖母を、気味の悪い声をあげるなととがめた。すると祖母は、「そんなことしとらんわね」と答える。耳の遠い祖父はその声が聞こえないので「かわいそうに。そんなことで親を責めるな」と母をとがめた。

 祖母は自分が曽祖母を追いやったのと近い状況に、自分も追い込まれることになった。叔母が結婚して家を出て、曽祖母もいなくなった後、4人が残された。その家からは、不審な物音や誰かの声が聞こえる。私たちは何かの悪いサイクルにはまりつつあった。高校を卒業した少しあとに、私と母は近くにマンションを借りて実家を出ることにした。

 私が子どもの頃まで一つの家に住む家族だった私たちは、数ヶ月に一度、曽祖母のいる施設を訪れた。真っ白なベッドに横たわる曽祖母に、家族が順番に「おばあちゃん、誰が来たかわかる?」と聞くと、寝たきりの曽祖母は「わからん」と答えるか、私や母を、自分の甥や姪と誤認して答えた。あのとき私の名前を不気味に何度も呼んでいた曽祖母が私や、私たち家族を認識することはもうほとんどなかった。

 曽祖母は私が大学に入るときに亡くなった。しかし、そのずっと前から意思の疎通は取れなくなった。小学校の下校途中、確かに曽祖母は私の名前を呼んでいた、あの曽祖母は最期、私のことを私であると認識できなくなった。私の名前を呼んでいた祖母は誰の名前を呼んでいたのか、そしてその人はどこに行ってしまったのか。気がついたときにはもう辿れなくなった。

 もしもあったとすれば、曽祖母の心は彼女が呼んでいたその何者かと一緒にいつのまにかどこかに行ってしまった。その流される先は、いずれ祖母が、母が、そして私が辿る先であるかもしれない。これは、そうなる前に祖母の心の行先を辿り直す方法を探すために書き始められた。それは、私だけの問題でも私の家族だけの問題でもない。もう一度言おう。高齢社会とテクノロジーの発展は一緒にやってくる。そして、私たちはそこにできあがる新しい「心」とのやりとりの仕方をまだ知らない。

3、

 『永い言い訳』(2016年、西川美和監督)という映画についてここで取り上げるのは唐突に思われるかもしれない。本作はテクノロジーとも認知症とも関係がない。しかし、この映画で描かれるコミュニケーションの捉え直しは「心」の概念の再規定に必要な最初のステップになる。

 突然のバス事故で美容師の妻夏子を失った小説家衣笠幸夫は、妻の死を全く悲しめないことに苦しむ。彼女の死によって味わった違和感を埋めようと、間宮陽一というトラック運転手と交流を深めるようになる。陽一の妻は夏子の親友で、事故のあった日に二人は同じバスに乗っていた。幸夫は自分と同様に妻を事故で失った男と交流し、彼の2人の子どもたちとの触れ合いを通して徐々に心のわだかまりを埋めていく。

 なぜ幸夫は妻の死を悲しめないのか。冒頭、幸夫が出演するテレビ番組を見ながら夏子が幸夫の髪を切っている。幸夫はテレビを消してくれと言うが、夏子は悪戯っぽい笑みを浮かべて「なんで。見てるんだけど」と答える。幸夫には「津村啓」というペンネームがある。彼は自分が有名な野球選手と同じ本名で呼ばれることを嫌っている。そのような有名な名前で呼ばれることをプレッシャーに感じて避けたいと思っている、と妻に伝えるが、夏子のほうは気にしない。

 幸夫の名前への執着は、妻の死後に自分のペンネームに「かわいそう」「才能」「不倫」などと付けてネットでエゴサーチをするところに表れる。名前を欲望するとはどういうことか。幸夫は妻の遺品であるスマートフォンに残された「愛していない。ひとかけらも」という彼宛の下書きメッセージを見つけて激昂し、携帯電話を思い切り投げ捨てる。彼は人から自分がどう呼ばれるかにこだわり、人から欲されることを望む。

 一方、陽一は亡くなる直前に吹き込まれたと見られる何気ない録音メッセージを再生しながら、彼女の遺品の携帯電話をぎゅっと握りしめる。2人の差異は携帯電話の扱いによって明示される。幸夫は妻から欲されることを欲し、陽一は妻を欲する。

 劇中のテレビ番組がこの二人の対照性をさらに強調する。バス事故の被害者を取り上げる特番に出演した幸夫は、携帯電話の一件からカメラの前で取り乱し、亡き妻に罵詈雑言を浴びせ、スタッフに白い目で見られるが、陽一は亡き妻へのメッセージとして「帰ってきてほしい。それだけ」と答え、スタッフに「こういうシンプルなのが一番」と喜ばれる。本作はマスメディアが、人格とその人の欲望を一致させる装置であること、そのような約束によって社会を駆動させていることを的確に描く。「誰」は「なに」がしたい、を固定することによって、価値が作られ切り売りされる、幸夫はそうした価値に自らをあてはめようとしてきた。

 では、陽一のほうがより優れた人間かといえば決してそうではない。妻の死に執着し、どこでも子どものように感情をあらわにする父親に、長男の真平は終盤で怒りをあらわにする。「勉強にも、家事にも興味がないじゃん」と咎める息子の言葉には、いかに陽一が、他人が何かを恥じて忍ぶときの心のうつろいに鈍い男かよく批判される。

 強くスタティックな欲望は、価値の交換で成り立つ社会への参加条件になるが、一方でその持ち主を他人の欲望に耳を傾けることから遠ざける。なぜ傾けられなくなるのか。それは、欲望というのが決してスタティックなものではなく、不安定に移ろいゆくものだからだ。

 妻の死を悲しめない幸夫の苦しみは、他人の欲望に耳を傾けなくなっ

1士郎正宗「攻殻機動隊(1)」、ヤングマガジンコミックス、1989

文字数:6000

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