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中動胎について

 

1、

 「決められた場所で排泄を行うという習慣が、人間にとってすこしも自然でない」という一節に初めて出会ったのは2016年の初め、まだ実家でだらだらアルバイトをしながら暮らしていた頃だった。それは國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』第二章「暇と退屈の系譜学−人間はいつから退屈しているのか?」の文庫87ページに載っている。

 これが特別魅力的に感じられたのは、きっと子どものころ頻繁に小便をもらしていたからだろう。幼稚園に通っていた3歳だか5歳だかの頃、よく汚れた下着を包んだビニール袋をさげて自宅に帰っていた。

 「おもらし」の原因は、今思えばストレスだった。中学生になってからは仮病でよく学校を休んで家で映画ばかり見ていたこと、大学を卒業する手前で突然就職活動をやめてしまったこと、今まで毎日何時間も同じ場所にとどまり続ける仕事にほとんど着いたことがないことを思い返すと、きっと小さな頃から決まった時間に決まった場所に止まり続けるのがとにかく苦痛だったのだ。それが学校であるにしろ、会社にしろ、幼稚園でさえ、ずっとそこにいることが耐えられなかった。

 ところで、國分功一郎の『中動態の世界:意思と責任の考古学』には小便をもらすときにぴったりの表現がある。

 失禁「がその人の本質の表現であるのをやめるのは、たとえばその人が」尿意「に駆られて」その身体の制御を失うときである。「その場合、」失禁「という行為は外部からの刺激に占められた、」尿意「という受動の変状が引き起こしたものに他ならない。」失禁「はそのとき、その人の本質ではなくて、その人を」失禁「の状態へと追いやった外部の原因をより多く表現している1」。

 なかなか官能的じゃないか。制御を失った身体構造はもはや持ち主のものではなく、意識の届かない外部になっている。きっとスピノザも小便を漏らしたことがあるにちがいない。

 小便を漏らさないように、車で何時間もかけて遠くに出かけるようなとき、母親はいちいち高速道路のサービス・エリアでトイレに行けと子どもに言った。男よりも女の身体のほうが構造的に膀胱が小さいらしい。だからきっと母親は自分も何度もトイレに行き、子どもにもトイレに行けと言った。

 しかし、どれだけ母親の膀胱が短いからといって、必ずしもその子どもにまで膀胱の長さは遺伝しない。同じ車に乗っているからといって、二人の生理がいつも一致するわけでも決してない。それで、トイレに行けと言われるのがとにかく嫌で、腹が立って自宅の便器の前にも立って、いかに膀胱がからっぽかほとんど出ない小便をして見せたこともある。

 子どもというのは欲動に忠実で感情が素直に流れる。今となってはその頃のことが羨ましくも思い、もう二度とあんな不自由な感情の容れ物には戻りたくないとも思うが、少なくとも今は大人になって、排泄についていくつかのことを少し整理して理解することができるようにはなった。一つは、複数の人が共有する場において、好きなようにトイレに行ってもいい時間というのはある程度制限されており、それを破るにはその場の空気を破るようなエクスキューズが必要だということ。そして、そのような排泄のあり方は生理に対してまったく自然ではないということ。

 突然だが、実はこの文章は國分功一郎『中動態の世界』について、考え始めるために書き出された。というのも、中動態とは母胎と自動車に関係があるのではないかという直感の検証を動機にこの文字列は進行している。なぜ彼は現代社会が能動−受動の言語体系で成り立っているとみなし、それを疑問に思い、能動−中動の体系へとパラダイム・シフトしようと思っているのか。それについて考えるために書き始められた。そこでとりあえず母親と自動車について考えるために子どもの頃の話から始まった。

 小便の話が最終的に重要かどうかはわからない。しかし、小便を漏らしたその子どもが、もらしたのは君のせいではない、小便は漏れたのだと、誰かまともな大人が声をかけてくれたらその子はずいぶん楽になっていたはずだ。そう考えるところから中動態への思索を始めたい。

2、

 父親のいない家庭で育ったので、車に乗るといえばそれは母の車だった。物心つく頃には4代目ホンダ・シビックのEF型に乗っていたが、数年して日産のルキノ・クーペに乗り換えた。それはどちらも赤い車だった。今は、2006年頃に買い換えた青い日産ノートに乗っていて、実家に帰った時にはそれを自分で運転することもある。

 だから『20センチュリーウーマン』(2017)という映画を見たとき、スーパーマーケットの駐車場で電気系統のトラブルを起こして燃えるフォード・ギャラクシーのおかげで、これが親離れの映画であることがすぐにわかった。

 1979年、15歳の少年ジェイミーは55歳の母親ドロシー、彼らの家に間借りしている若い女性アビー、車の修理工ウィリアム、ジェイミーの幼馴染で2つ年上のジュリーの4人に囲まれてアメリカ、カリフォルニア州のサンタ・バーバラで暮らしている。

 ナレーションは、病院から退院した生後わずかなジェイミーをこのフォード・ギャラクシーが運んだのだと教えてくれる。映画の中で母親の子宮と自動車をめぐってイメージは何度も重ねられる。

 1955年生まれのアビーは、ニューヨークの芸大生だったが子宮頸がんが見つかったために故郷のサンタ・バーバラに帰り、病気の再発がないか検査を受け続ける。医者からは身体の構造的に子どもはできにくいと言われる。彼女は修理工のウィリアムと身体の関係を持つようになる。

 1962年生まれでセラピストの母親を持つジュリーは、家族との関係がうまくいかず、男の子たちとのセックスにふける。彼女が彼らと行為に及ぶのはほとんどいつも自動車の中だ。ある日、いつものようにジェイミーの寝室に忍び込んできたジュリーは、男の一人に避妊をせずに射精されたと切り出す。アビーの検診に着いていくついでに、病院で妊娠検査薬を購入したジェイミーは、ジュリーに買ってきたそれを差し出す。ジュリーに思いを寄せるジェイミーは、彼女が検査のために尿瓶に小便を垂れ流す音をトイレの外で聞いている。

3、

 大人になるとさすがに小便はもらさなくなったが、それは小便がなにか別の物に変わっただけだ。

 『暇と退屈の倫理学』を読んだ少し後に、知り合いのつてで就職し、地方で新聞記者をすることになった。今思えばそれは、母との気詰まりな二人暮らしを終わらせて、実家を出るための手っ取り早い口実になっていた。

 勤めて半年くらいした後、警察記事の担当になり、自分の車が必要になったので日産の黄色いマーチを中古で購入した。毎日何時間も車を運転して過ごすのはなかなか苦痛だった。一つのことに長い時間注意を向け続けるのも苦手だったし、一度運転を始めると自分のタイミングで急に止めることができないのでハンドルを握るたびにとても緊張した。朝、7時過ぎに家を出て深夜12時とか2時に自宅に帰るために慢性的な寝不足になった。

 火災や交通事故の通報を受けると、火が消える前にとか、ぺちゃんこになった車が撤去される前に現場に急行しないといけないのだが、そういうときに限って「急がなければ」と思えば思うほどうまく自動車を発進できなかった。

 車の中ではよくパニックを起こした。うまく車を発進できなくて、エンジンをかける前に大声で叫んで自分の体を何度も叩いた。それでも、小便を漏らすよりこちらのほうがずっといい。服も汚れないし匂いもつかない。数分間、それをやるといくらか気が済むので、少し深呼吸をしてから現場に行く。それで、いつも他の記者よりも到着が遅れた。

 あのまま運転していてよく大きな事故を起こさなかったと思うこともあった。それでいて現場に着いたら着いたで、高速道路の検問所で衝突事故で丸焦げになった大型トラックの写真なんかが撮れたりもするので、なかなか面白いものを見たと興奮したりもした。

 パニックを起こすとき、ああして内側から湧き上がってくる衝動のようなものに飲み込まれてしまうときの感覚はやはりどこか小便をもらすときのそれによく似ている。そういう点で、自動車の中というのはそれを許してくれる場所だった。ある種トイレの個室のようにプライベートな空間だった。

4、

 『中動態の世界』を読み進めながら、國分が能動−受動の言語体系に、能動−中動の言語体系を対立させようとしているのを見て、これを具体的にイメージするためにほどよく重ね合わせられる例はないかと考えていたのだが、能動−受動が責任主体が誰であるか、主語を「尋問」するものであると説かれているところから、記者の頃の短い会社員としての経験を思い出した。

 企業は尋問する。面接官は就活生に、好きなものは何か、何がしたいのか、何ができるのか、何時まで働けるのかと問いただし、上司は部下に、頼んだ仕事はできたか、いつまでにならできるか、今日は何をやったか、やる気はあるか、目標は何かと確認する。能動とは尋問によって問いただす権力なのだ。

 一方、國分はフーコーの権力論を引きながら、拳銃を突きつけてカツアゲをされ、自発的に財布を相手に手渡す人の行為を例に挙げながら能動と中動の対立について説明しているが、ここで言語体系事態が持つ権力、つまり思考の枠組みを決めるような環境管理型の権力としての言語というものを考えてみたくなる。そしてそれは中動態的に作用するのではないだろうか。

 もちろん、言語の思考規定性に疑問を向ける國分の視点を見逃しているわけではない。認知を前提に言語が成立していることを忘れているわけではない。しかし、我々はすでに言語が出来上がって乱立している状態の世界に生まれ、そこで生活をしているわけだし、この本でされている議論事態、言語の思考規定性を無視しては成り立たないもののはずだ。そもそも國分が能動−受動から能動−中動へのパラダイム転換に臨むのは、それだけこの思考規定性に意識的な証拠ではないか。

 会社員をして初めてわかったのは、企業というのも同じように環境管理型の権力をふるって社員の生活様式と思考を規定しているということだ。いつまでにいくらの給料をもらい、いつ出社し、いつ帰り、どこに住み、誰と付き合うか、会社で働くときの生活リズムは間接的に会社によって決められる。わざわざ言うまでもない、当然のことかもしれない。

 このことを考えたのは、車の中でパニックを起こすぐらい疲れているのであれば異動願いを出すか、休暇を申し出るか、もう辞めてしまうかすればいいのだろうと思ったけれど、それがなぜできないのか考えたときだ。その社員には、直接指示を出したり毎日の業務を課す担当の上司が二人いて、その二人も同じ境遇にあり、場合によってはより一層多くの時間を働いているし、シフトの関係でまた3人全員が同時に休むことができないために、同時にその決まった休暇数を奪い合う関係にある。

 これはその社員の特殊な境遇の話ではない。企業の中で働くというのは多かれ少なかれそういうことなのだろう。働く時に、一人の社員に能動的に作用する上司があり、中動的に作用する会社というシステムがある。

 もう一つ、これをある子どもの立場で考えてみよう。ここにそのような企業の中で働くステレオタイプの父親的な主体があり、もう一方に母親的な主体がある。母親は子どもと同じ時間を過ごし、食事を与え、一緒に眠り、世話を焼いて同じ生理的な時間の流れを共有することで子どもに影響を与える。ここまででてきた要素を整理してみよう。

能動 中動
拳銃の権力 環境管理型権力
上司 企業
父親 母親
??? 自動車

 後から「???」の話をしよう。

5、

 自動車にかかわる能動と中動とはなにか。上に挙げた図の「???」とは要するにその自動車の運転手ということにはなるのだけれど、では逆に中動とはなにか。これは勝手に走る自動車、自動運転に関わる問題だ。だから中動のほうに自動車を書いて、能動を空欄にした。

 自立走行する自動運転の実用化でネックになっているのは、自動運転車両が事故を起こした時にその責任は誰が取るのかという問題だ。2017年2月現在、自動車の自動運転機能は車間距離や車線からの逸脱を調整する運転支援の段階に限られ、運転手の操作が全自動化する自動運転車はまだ実用化されていない。

 自動車と運転手の関係を企業と社員のモデルに当てはめて考えてみよう。ステレオタイプの冗談として、日本的企業の社員が上司の許可がないと現場で単独で判断ができないと揶揄されるが、あながち冗談でもない。そういえば、働いている時に下っ端の社員なりに、私が決めました、私がやりましたと言ってみたら、誰も相手にしてくれなかったということもあったけれど、組織の中で個人というものの扱いが小さいと一人の判断では責任も取らせてもらえない。それは企業が個人の集団ではなく、一つの総体として動いているからだ。これを意地悪に中動態的とでも言ってしまおうか。

 では誰が責任をとるかというと、そのために管理職というのがいる。彼らは首を切られるために存在している。彼らは判断するのが仕事であり、それは他でもなく、その判断が好ましくない結果を招いたときに誰の首を切ったらいいかをわかりやすくしておくためなのだ。

 そういう意味で役員は会社の顔なのだ。これと同じルールを自動運転車にもう一度戻して適応すると、事故を起こした自動運転車の責任というのは運転手が取らされることになり、それでは自動運転の車が売れなくなってしまうので、それに合わせた新しい法整備が必要とされている。実際に、行政や法的機関の態度を見ると自動運転の段階で起きた事故についてはシステムのエラーとして企業側に責任を訴える方向へと事態は展開しつつある2

 ここで、自動運転の過失責任を非人称的に責任主体を追求する法典とは、中動態言語によって書かれたものでないかと構想してみる。事故は勝手に起きたのだ。それがいつもメーカーのせいになるのであれば、交通事故は全て、自分が買った商品についてクレームを出す消費者と企業の間で起こる問題になっていくだろう。

 つまり、中動態の世界の一つのバリエーションとは自動運転が日常化した社会ではないだろうか。そこでは自動車は従来の自動車らしさというものを失う。

 総合雑誌「ワイアード」が主催したエンジニアと建築家との対談で、フロリダやカリフォルニアの一部の住宅地で、退職した高齢者がゴルフカートに乗って日常を過ごす様子が話題にされている3。自動運転の世界は自動車を運転できない人も自家用車で移動する世界のことだ。そこでは、自動車はむしろ車椅子や乳母車のような働きをする。

 昨年(2017年)、東京ビッグサイトで開かれた東京モーターショーに足を運び、フォルクス・ワーゲンの展示ブースでVRによる自動運転車の体験装置に乗ってみた。ヘッドギアを装着して前後が分からないまま、コンパニオンに手を取られ、ソファのように居心地がよい革張りの最新高級車の座席に誘導されると、それはなんだか介護を受けているみたいだった。これが一般的なこととして実現すれば、自動車というよりもむしろそれを、家やベッドとして捉えなおさなければいけないだろう。

 自動運転のもたらす未来の中で、人類はテクノロジーのゆりかごに一生を過ごす赤ん坊になる。人類はオムツまでしているのだろうか。

6、

 そもそも自動運転の車がなかなか実用化されないのは法規制の対応が遅れているからだというのは、つまり法律が能動−受動の言語体系で書かれているからだ。法律がそうであるために報道記事は「誰が何をした」という責任主体と因果律が明確な能動−受動の言語で書かれており、それが裁判の証拠資料に使われたりもする。つまり、社会的に「事実」というものは能動−受動の言語でしか認識されていない。

 そういえば、ある中学生の女の子を強姦しようとして家に押し入った容疑者がその女の子の祖父母を牛刀で刺し殺したという事件の裁判を仕事で傍聴していたときに、もうこの仕事は続けられないなと思ってしまったことがあった。被害者の家族はその女の子が大きくなった姿を「おじいちゃんとおばあちゃんに見せてあげる」という機会を奪ってしまったとして、容疑者の情に訴えるのだが、容疑者は全く反応しない。それを見ていると、なんだか私は、被害者の家族よりも容疑者のほうに共感しかけてしまうような気持ちになった。事件を起こすまで家に引きこもっていた容疑者は、むしろそういう親だったり、社会だったりが自分にかけてくる期待や欲みたいなものに耐えられなくなって、それを受け止めて整理することをやめてしまったからこのような事件が起こったのではないか。つまり、そうした社会の中での家族やステレオタイプの幸せのイメージをさらに彼の上に乗せることは、効果がないか悪ければ逆効果ではないかと思った。

 実は上の段落で「私は」という言葉をこの文章中で初めて使った。それはこの能動−受動と因果で成り立つ社会のシステムと、その中で理想とされる幸福に疎外を感じたからだ。そういう反応というのはある種の子どもっぽさかもしれない。大人がかける期待に答えられない子どもはどうしても子どもっぽいのだろう。この子どもっぽさを中動態における意志の再規定の端緒としてみたい。

7、

 『中動態の世界』の中で國分はハンナ・アーレントを引きながら「意志」について、それを過去からやってきた幾つかの要素から選び出すことで次の進路を決める「選択」と区別し、過去から断絶する未来にかかわる精神的な器官としている。では、「意志」はどこからやってくるのか。それにはアーレントがキリスト教的な無からやってくる信仰として回答している。本当に「意志」は無からやってくるのか。

 これについて、もう一本映画の話をしよう。母胎と自動車に関わる映画だ。というよりもこれは、会社で働いていたときの話をしたついでとしてその時の感情を強く呼び起こした映画のことをここに書きたいだけなのかもしれない。『ベイビー・ドライバー』(2017年、エドガー・ライト監督)は強盗の逃走車専門のドライバーの少年ベイビーの活躍を描くカーアクションだ。子どもの頃に両親と一緒に交通事故に巻き込まれ、両親は事故死、彼は慢性的な耳鳴りを患ったので、いつも仕事の時には生前の母親からもらったiPod

大音量で好きな音楽を聴いている。仕事で使った逃走車がスクラップ工場でいちいち粉砕される時、彼は母親とその死を思い出す。彼にとって自動車は母親であり、その棺桶でもある。

 ベイビーは行きつけのファミレスで知り合った母親似のブロンド女性デボラに惹かれ、仕事から足を洗うことを決意するが、雇い主のドクから郵便局強盗の仕事を持ちかけられ、家族や恋人に手を出すと脅しを受けて断れなくなる。

 結局、気に入らない人間を残らず殺す凶暴な強盗バッツ、端正な顔立ちの白人バディ、その恋人ダーリンとともに郵便局を襲うことになる。作戦の合間に4人はデボラが働くファミレスに立ち寄ることになる。そこがデボラのいる店であることに気がついたベイビーは「あの店が嫌いだ」と言って、入店を拒否するが、その拒否自体が気に入らず、バッツは無理やりベイビーにその店に車を止めさせる。

 バッツは店の中で雑談する中で「お前たちはヤクのための盗み、俺は盗むためにヤクをやる」と誇らしげに語る。バッツは一見凶暴な異常者のようだが、ここにはある種の彼の職業倫理のようなものがかいま見える。彼はお金や娯楽のために強盗をやっているのではなく、やりたくて強盗をやっているのだ。自分の仕事に誇りを持っている彼は、何かの目的意識の中で強盗をする連中を軽蔑している。それで、その矛先をバディに向ける。「当ててやろうか、お前はもともと株屋だろ。女房も娘もいた。働きすぎてヤク中になった。気がつけば借金地獄。ダンサーと逃避行。お前は3つのものに逃げたんだ。金、セックス、ヤク、強盗。4つか」。それに対してバディは何も答えない。

 デボラが注文を取りにやってくると、バッツはベイビーを指して「こいつはこの店のことが嫌いらしい」と言うのでベイビーは怒りに震える。

 翌日、郵便局の裏手で、奪った金を持ってきた3人が車に乗ると、ベイビーは急発進。目の前のトラックの荷台に積まれていた木材に助手席に座っていたバッツを串刺しにして即死させる。ベイビーはどうしてバッツを串刺しにしたのか。ここに一つの意志のはたらきを読み込んでみたい。

 バッツの狂ったほど透徹した職業観や、バディの病的な責任感に対してベイビーはノーを突きつける。力と因果律でがんじらめになった大人の世界への力強くて幼稚なノーなのだ。ここで披露される何歳も年上の男たちの人生遍歴や、強い信条にまったく共感できず、女の子とのデートを踏みにじられたためにブチ切れる彼の子どもっぽい勇姿には感動して涙が止まらない。意志とは本来、こうした幼児退行的なところからやってくるものではないだろうか。

 意志が過去と断絶してやってくるのは、ただ直接の過去と断絶しているからにすぎない。目の前に与えられた選択肢の中から選びたいものが一つもなくなってしまったとき、そこでは文脈を無視して、空気を読まずに、どこか昔で途切れていた別の過去、とりわけ子どもっぽいトラウマのようなものが噴出するのだ。

 ジェイミー・フォックス演じるバッツが木材に串刺しになったのを見て、なんだか羨ましい気持ちになったのは、自分がパニックになった時にそこに木材があればよかったということだ。自分の体に降りかかってきて、これ以上抱えきれなくなった刺激というのは、外に向かって放射するにも、めぼしい的がないと一方向に打ち出すことができない。

 小便も漏らせば放射状に服を汚して散らばるが、便器の中にめぼしい的があればそれをめがけて液体は美しい放射線を描く。

8、

 つまり、意志とはある種の抑圧された過去の自分がなにかの目標物に向かって噴射されること。そしてそれはときに、スカッとするような犯罪になりうる。ここではつまり、「意志」というのはある種の無責任性として表れている。つまり、意志と責任は対立する。「意志」の有害性について確認した上で、最後に「責任」の話をしてこの長い考察を閉じたい。そのために再び『20センチュリーウーマン』の話をしよう。

 ドロシーは混沌とした時代の中で、「いい人間」に成長するためにジェイミーの指針になってほしいとジュリーとアビーにもちかける。アビーが与えたスーザン・ライドンの『オーガズムの政治学』をはじめとしたフェミニズム指南書の影響を受けて、ジェイミーはオーガズムや閉経について母親に語り聞かせるようになる。ドロシーはアビーに「やりすぎだ」と咎めるが、実際には彼女の意図はうまくいきすぎているということ、そしてそのようにうまくいくことに彼女自身がもう着いていけていないということにドロシーはまだ気づいていない。

 ホームパーティの会場で彼女らは来客たちとともに、ジミー・カーターが7月15日に催したテレビ演説を眺めている。カーターはぜいたくと消費活動が国民を堕落させたと語り、「分裂と利己主義の街を歩めば、誤った自由にとらわれ衰退の一途をたどるでしょう」と語る。

 ドロシーは幼いジェイミーに銀行口座を作らせようとして、行員に断られたことがある。ドロシーは「彼には意志と自主性とプライバシーがある」と主張する。それは実はジェイミーの持っているものではなく、ドロシーが重んじているもののことだ。そしてそれは、カーターが演説で語るぜいたくと消費活動とは不可分である。

 映画で描かれるのは音楽とセックスとドラッグとタバコと家と車だ。それは当時の彼ら彼女らを取り巻くものである。1924年生まれのドロシーは、空軍のパイロットになる夢を諦め、製缶会社の製図エンジニアの職に就き、離婚してからは女手一つでジェイミーを育てた。そして、1999年にヘビースモーカーの母親は死ぬ。彼女は未来からのボイスオーバーでそう語りかける。彼女は自らの意志で選んでいるつもりだったスタイルにとらわれて命を落とす世代として描かれる。

 カーターの演説を聞いた後、多くの来客の前でふさぎ込むアビー「今、生理中だから」と彼女が言うとドロシーは人前で言葉を選ぶようにたしなめる。アビーは反発して来客一人一人に「生理(menstlation)」と唱和させる。つられてジュリーは初潮があった日のこと、初めてセックスに及んだ日のことを話し出す。

 自分たちが意図的に選んでいたと思っていたもののせいで、つまりタバコで、身を滅ぼしていく前の世代を前にして、女の子たちは自分の身体がどうであるかの話をしている。カーターの演説は、消費生活によって私たちの生活と思考が決定され、それがすでに私たちのものだと言い切れないものになっていることを示唆する。

 『中動態の世界』で言えば、ここではスピノザのコナトゥスの発想が求められている。様態の本質である、自らを維持するように働く力とは、駆動し続けなければ、簡単に外部の刺激に変状され主体を粉々にしてしまう。それは便を垂れ流し、パニックを起こし、犯罪に走る。

 1979年パンクミュージックに勤しむ女の子たちは、自慰行為のように無意味な踊りで身体を揺らす。選ぶべき選択肢がないとき、その場所で彼女たちは刺激を逃がして様態の形状を維持しているのだ。力を駆動させ続けること。それが中動態的な責任の遂行だろう。その動きは、小便を我慢するときの見苦しい仕草に似ている。おしっこをもらした子どもに、それは君のせいではないと言うことはできるかもしれない。そしてそれは翻って、自分のせいでないことの責任を負うことが中動態の世界の責任なのだろう。中動態の言語体系で書かれた法典はこの連帯から始まるのかもしれない。

 

1國分功一郎著『中動態の世界:意思と責任の考古学』、医学書院、2017

2国土交通省「自動運転における賠償責任に関する研究会」http://www.mlit.go.jp/jidosha/jidosha_tk2_000053.html

3移動をエンターテイメントに変える電動コンセプトカートの可能性 https://wired.jp/special/2017/sony-redefine/concept-cart/

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