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今は正しくあのときは間違い

 

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批評とは何かよりも、なぜ批評をやらなければいけないかという問いのほうがずっと重要なはずだ。なぜなら批評は、少なくとも衣食住のようには、直接私たちの生命にかかわるものではないからだ。批評とは何かを問う必要があるとすれば、それは批評が私たちに必要な何かだからのはずだ。

あらためて批評とは何か、についていくつか辞書を引いて調べてみると、それがなにかの「判断」に関するものであることがわかる。そこで初めて批評とは、それがどういう機能や、価値や、意味を持つのか、まだ判断の付いていないものを取り扱う場であると言うことはできそうだ。それは未知のもの、新しさを渉猟する場だと。批評が私たちに必要なのだとすれば、それは私たちに新しさというものが必要だからだ。具体的に見てみよう。

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フランスの分子生物学者フランソワ・ジャコブは「進化は技術者というより、下手な細工師のようなもの」と言っている1。彼によれば、生物は環境に最適化して生き残ってきたのではなく、同時多発的に試みられる多様性の中でたまたま生き残ってきたにすぎない。

このいい加減さの証左の一つが、私たちが今こうして酸素を吸っていることだ。酸素は本来猛毒であった。化学反応における不安定さを示す電気陰性度が酸素は3・4、第一次大戦で毒ガスの主要な成分として使われた塩素の3・1を上回る。

この猛毒の発生によって地球上の多くの生命が息絶えた。そこで、一部の単細胞生物は、毒である活性酸素を分解する機構を身につける。この機構ミトコンドリアを取り込んだところから、以後酸素は、私たち多くの生物にとってなくてはならないものになった。

生物の進化がいかにいいかげんであるかは、このその場しのぎの発明「呼吸」に私たちが依然として依存しながら生きていることからわかるだろう。そして、ミトコンドリアの劣化とともに私たちは徐々に酸素が分解できなくなり、細胞が酸化し再生できなくなる。それは「老化」という、いかにもありふれた死の一要因であり、この解決方法を私たちはまだ持ち合わせていない。こうして今尚猛毒である酸素に、私たちは頼り続けている。

自然が仕掛ける途方もなくスケールの大きないい加減さでやってくるギャンブルに、いかにいい加減な多様性のスケールで応じるかだけが生物の生存戦略だ。そして、その壮大さの中で生き残るというのはたまたまでしかありえない。

最適化というのは、この生存戦略とまるで逆の営みである。計画的に最も確率の高いところにかけるのであれば、たまたまそれがはずれれたときには、その種の死を意味する。そして自然界でそのたまたまはかなり頻繁に起こる。

ところで、そもそも、酸素は元々地球上に存在しなかった。たまたまこの地球に生息していたシアノバクテリアという生物が約32億年前に、二酸化炭素を使って突然酸素という未知の化学物質を生成し始めた。酸素は光合成が可能な植物の到来をもって初めて地球上に登場する。

ディズニーアニメ『WALLE』(2008年、アンドリュー・スタントン監督)は、人類が捨て去った荒廃した地球で廃品収集を続ける旧式ロボット、ウォーリーと、地球上で生物が再び生息できるようになるかを確認しにやってくる探査ロボット、イヴの心の交流を描き、その後半で、地球を捨てて宇宙船暮らしに慣れきった人類にこの毒性を思い出させる。

宇宙船アクシオム号で700年の宇宙旅行に勤しむ、無重力状態で骨が退化して丸々と太った人類も、人類である以上はもちろん酸素を吸って生きているはずだ。彼らの先祖が地球に送った探査ロボットが宇宙船に、地球に新しく芽生えた葉緑体を持った緑の植物を携えて帰還したとき、この船の艦長はその植物が宇宙船にとって地球帰還のシグナルであったことを初めて知る。赤ん坊から大人になるまで自動の車椅子に腰掛けたまま過ごす人類の前に、彼らよりも古い歴史を持つはずの植物が、新しさとともにやってくる。

新しさは、流行品のような感じのいい馴れ馴れしさでは決してやって来ない。それは私たちの社会にある価値観の外からやってくるからだ。それは、私たちの知らないもののことで、私たちの共感の外側にある不気味ななにかだ。

そこで、新しさは少なくとも2度やってくると言わなければならない。1度目は全く理解不能な、使い道のわからない、取るに足らない物として。2度目以降はよく見知った、しかし、そこで初めて意味と機能と価値を発揮する有用なものとしてやってくる。

私たちの外からやってくる以上、その新しさが必要とされ、私たちが今使っているシステムがそれを受け入れるときには、私たちはシステムのルールを根本的に見直さなければならなくなる。必要なのは拡張工事ではない。たった一つの要素を挿入するための全体の改変だ。それが新しさの特性だ。

この新しさの到来は、人類にとっては朗報と受け入れられたが、機械にはそうではなかった。機械たちは呼吸をしない。自動化された機械たちが人類に反乱を起こし、地球への帰還を執拗に拒むのは彼らが地球が危険な場所であることを知っている。植物を獲得して宇宙船に帰還するイヴを追いかけて、やってきたウォーリーのキャタピラが床に残す地球の土でできた足跡を船内の清掃ロボットが「汚染物質」として徹底的に拭き取っていく。酸素を作り出す植物と同様に、植物を育てる土は彼らにとって危険なのだ。

人間を乗せて船内を行き来するホバーチェアも、船内で清掃、配達、介護まで種々の労働に携わる自動機械たちは皆少しずつ宙に浮いている。

人間を危険から守るために暴走する機械に対し、それまでもう何年も立ち上がろうとさえしてこなかった巨漢の艦長は自分の足で立ち上がり、船の操舵を模したロボット「ハンドル」を制圧する。何百年かぶりに立ち上がる人類の姿に、シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の1フレーズが重ねられ、『2001年宇宙の旅』(1968年、スタンリー・キューブリック監督)のパロディが上演される。劇中で初めて人類は地面を踏みしめる。足の裏が汚物にまみれる時、彼ら彼女らはやっとその新しさを味わう。そして彼らは地球に帰還し、地面の上で再び、農作物の栽培を始めることになる。

ウォーリーは地面を踏むことを教えるためにはるばるこのアクシオム号までやってきたのだ。地球にいたときのウォーリーの楽しみは、ミュージカル映画『ハロー、ドリー』(1969年、ジーン・ケリー監督)の古いテープを見ながら、金属製のゴミバケツの蓋をハットにして俳優の真似をすることだった。ミュージカルとはステップによって現実の外側に踏み出し、音楽で彩られた異世界へと旅立つ決死のダイビングのことだ。ウォーリーは人類にこの最初の1ステップを思い出させるためにやってきた。

進歩のために危険へと踏み出す決断主義を讃えたいのではない。これは批評に関する批評文だ。批評は新しさの2段階目の到来に関わる。私たちの慣れ親しんだ社会や生活のシステムに、完全な異物として到来した新しいものを私たちが、それはなにかと理解するとき、そこには総体としての抽象的なイメージが伴う。一つの時間的なつらなりである物語の中にイメージはその役割を見つける。批評は、新しさをイメージと物語の総体に初めて書き込む役割を果たす。

ここで、アニメーションのアレゴリーを通して発見される私たちに必要は物語とは何か。それを人間と機械の対立と捉えるのは、容易いが決してそうではない。機械は人間が作り出したものであり、人間の一つの側面の反映である。それは、安定を至上とするという点で最も保守的で、不確定性よりもコントロールを好む側面だ。宇宙船を支配するシステムとはクローズドな管理社会の中で自然とのギャンブルを放棄して生きることを選ぶ私たちの最も保守的な側面だ。

そこで、人間以上に人間をコントロールしようとするこの機械の反乱を「故障」と捉えてはならない。機械とは人間の安定とコントロールを好む側面を抽出したものであり、それが人間の不安定さを排除しようとするのは、過剰な正常さによるものだからだ。

では、批評とは人間の不安定さに関わる営みか。決してそうではない。ここで再び定義するなら、それは安定の中に不安定さを、不安定さの中に安定を見出し、まだ何もないところに新しい地平を幻視する誠実な詐術なのだ。

アニメーションを通じて機械と人間についてここまで論じた都合から、機械の「異常さ」についても触れておかなければならない。以下では『シュガーラッシュ』(リッチ・ムーア監督、2013年)という別のアニメーションを取り上げる。それはバグという、故障して動物化する機械の物語だ。

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『シュガーラッシュ』で描かれるのは人工であるはずのプログラムによる職務放棄だ。ゲームセンターのアーケードゲーム「Fix it Felix」の悪役ラルフは、プレイヤーが操作する、なんでも直せる魔法のハンマーを持ったキャラクター、フェリックスに対抗して画面の中のマンションを壊すことを30年間、続けてきたゲームキャラクターだ。ある日、悪役としての職務に嫌気がさし、バーの廊下でPTSD状態で倒れていたSFシューテングゲーム「HERO`S DUTY」の兵士から装備を盗み、ゲームに紛れ込んでそれをクリアしたプレイヤーに贈られるはずのメダルを盗み出す。当該のゲームから抜け出すまでに、そのゲームの悪役、勝手に増殖する巨大な甲虫サイバグの攻撃に遭い、サイバグの幼虫とともにお菓子の国のレースゲーム「シュガーラッシュ」に紛れ込む。

人間と同じ姿形をしていても、与えられた職務をこなすプログラムとして設計された彼らはどちらかといえば、機械に近い。壊すことを生業にしてるラルフは、労働者としてその生業をサボタージュし、よりラディカルな破壊行為に身を投じる。キャラクターたちは自分のゲームの外で死ねば復活できない。ラルフは『WALLE』の人間たちのステップを一層過剰に反復し、積極的に危険な不確定性に飛び込んでいく。

劇中で、他所のゲームに積極的に介入するラルフに他のキャラクターは「ターボする」のかと、この作品の中だけで通じる造語を投げかける。ターボとは、かつてこのゲームセンターに存在したレースゲームの主役で、別の新型レースゲームの人気に嫉妬し、その新型のほうにバグとして介入し、自分と相手の両方のゲームを故障させたキャラクターの名前だ。「ターボする」とは他所のゲームに介入し、両方の機材をダメにしてしまう禁忌を指している。

プログラム=機械としての自らの職務を放棄し、欲動に突き動かされてここに迷い着いた彼らを見るとバグ=機械の故障とは、機械が動物化する。以下では、3つのバグ、ターボ、ラルフ、サイバグに注目してその世界観を確認しよう。

本作の後半で、「シュガーラッシュ」の支配者、キャンディ国王の正体がターボだと判明する。彼は自身のゲームが潰えた後も、姿を変えこの新しいレースゲームに侵入し、設定上の支配者の座を奪い、他のキャラクターの記憶をプログラムに介入して書き換え、実質の支配者として君臨していた。どんな手を使ってでもレースゲームの一等に固執するターボ=キャンディ国王は劇中で「自分の尻尾を追いかけ続ける犬」と称される。

今度はラルフだ。「Fix it Felix」でゲームをクリアすると、ピカピカに直されたマンションの頂上でラルフは住人たちに担ぎ上げられ、屋上から地上の泥溜まりに落とされる。このシーンはゲームの30周年を記念して、マンションの住人たちが企画したパーティーに並ぶケーキの上でチョコレートの泥に塗れるラルフとしてパロディ化され、「シュガーラッシュ」に迷い込んだラルフは本物のチョコレートの沼に水没する。地面を踏みつけることは落ちることと塗れることでその過剰さを増していく。しかし、地面のその下にまだまだ落ちていくものがある。それがサイバグだ。シュガーラッシュの地下では物語の進行の裏でサイバグたちが無限に繁殖し続けていたことがわかる。

本来プログラムであるはずの「シュガーラッシュ」に、こうしてバグたちの生態系が形成されていく。ゲームの主は姿形を変えながらあらゆるレースゲームの主役であろうとする欲の奴隷としてのターボ。地上のキャンディ、クッキー、マシュマロやチョコレートと、パステルカラーのお菓子に覆われたファンシーなレース上をラルフが歩き回れば、ギトギトの脂が体にこべり付き、レースの観客の一人は自分の転がるクッキーの頭を追いかけ、別のマフィンのキャラクターは高所から落ちてべちゃっと崩れる。ねっとりとしたペースト状の甘ったるい沼の底にはラルフが連れ込んだサイバグが不気味に大量繁殖し、最後は自然災害のように会場すべてを破壊して回る。

Sugar Rush」とはそもそも、糖分の過剰摂取によって子どもが酔っ払いのようにハイテンションになってしまう状態を示す言葉だ。ここで描かれるのは、子どものような純粋さと大人の力で欲望を追求すれば、やがては身を滅ぼすというアレゴリーだ。そしてそれは教訓的な説教臭さではなく、カタストロフィックな世界観とそれに立ち向かうキャラクターとの関係が醸成するヒロイックな高揚感で語られる。その高揚感の果てになにがあるのか。

最終的にサイバグに捕食されるという形でターボとサイバグは同化する。本作が描いた人工甘味料地獄はこの化け物の君臨によって完成を迎える。レースの勝利というギャンブルへと身を投じ続けるかに見えるターボは、サーキットというレースの周回コースによって象徴化される。狂ったように目先の変化を求め続けるあまり自分が同じことを反復していることに気がつかない。マスターべーションのように欲に任せて同じ場所をぐるぐると回り続け、過剰な自己破壊によって身を滅ぼす。

批評の話題に戻ろう。新しさというものはどうしても、2段階でやってくることを今一度想起したい。それはまず見知らぬ不気味ななにかとして到来する。つまり、一度目の到来は私たちの生活にバグとしてやってくるのだ。そして私たちはそれがバグであるとして自覚することによってシステムの総体を把握する。しかし、バグであることだけを追い続けると私たちはターボの似姿になるにすぎない。ではどうすればいいか。それがここまでになされた行為だ。私たちはバグから演繹して、その総体をイメージで把握し、物語の中で新しさを書き込むのだ。批評とはこうして間違いに名前をつける行為である。そしてそれを、それは間違っていないと声高に叫ぶ幸福で誠実な詐術なのだ。

では、問題だ。ここで息を吸って吐いてみよう。そうすると自分が呼吸をしていることがわかるだろう。では、そこでこう考え始める。どうしたら、このサイクルを抜け出し呼吸に変わる新しさを見つけることができるだろうか。私たちはここから、自分たちが死なない存在であると間違え、新しい批評を開始することもできるのだ。

1デヴィッド・J・リンデン「脳はいいかげんにできている その場しのぎの進化が生んだ人間らしさ」河出文庫、2017

文字数:6150

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