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Dead Women Tell Tales:ダゲレオタイプと10年代の黒沢清論

 『ダゲレオタイプの女』(2016)という映画について。

 なぜ黒沢清はダゲレオタイプを映画の題材に選んだのだろう。

 そもそもダゲレオタイプとはなにか。

 1838年から1839年にかけて、この世界初の実用的写真法ダゲレオタイプによってパリの街並みを撮影した一枚の写真「Boulevard du Temple」に当時の街路を行き来していたはずの人や馬車は全く写っていない。それらがそこに存在していなかったのではない。10分以上の露光時間を必要とするこの写真機は、動きすぎるそれらの被写体を銀板に焼き付けることができなかった。そのため、動くことのない建物だけが記録されている。

 つまり、ダゲレオタイプとは動いているものを見逃し、止まっているものだけを写真に収める技術だった。なぜ黒沢清は、動いているものを記録するはずの映画の題材にそのようなものを選んだのだろう。本稿はそれを探る一つの試みだ。そしてこの問いは密かに、黒沢清はなぜ亡霊が出てくる映画を撮るのか、という別の問いに漂着しようとする。

 

1、

 『ダゲレオタイプの女』は若い失業者の青年ジャンが、ダゲレオタイプの魅力にとりつかれた写真家ステファンに助手として雇われるところから始まる。彼のモデルを長くつとめた妻ドゥーニーズは、長時間の撮影中、身体を拘束具に固定するために使う筋弛緩剤の影響で心身を病み、自殺した。ジャンは母と同じ道を辿ろうとしている娘のマリーと恋に落ちる。

 雇用主の自邸を初めて訪れたジャンは執事と顔を合わせると、だだっ広い玄関広間でステファンとの面会を待たされる。入って左手、階段脇のベンチに腰かけていると、彼からその階段を挟んだ先にあるドアがひとりでに開く。カメラは開いた扉から出てきた何かに気圧されたようにゆっくりと後退し、何も動くもののいない画面の中で何かを追いかけるように階段へと構図の中心を移す。ドアの軋む音にひかれて、様子を確認しに来たジャンはその向こうに続くキッチンを覗く。白い光を反射しながらわずかに揺れるカーテンは、ドアが開いたのはあくまで風のせいだと言い訳をするようだ。振り返って玄関広間に戻ったジャンは入口から向かって右手に置かれた古い汚れた鏡を通じて階段を登る青いドレスの女を発見する。彼女は言葉を発することなくそのまま2階に消えてゆく。そして、キッチンがあるのとは反対側の壁の扉が開き、執事が戻ってきてステファンをアトリエへ案内する。後から、あの青いドレスがステファンのダゲレオタイプのモデルが着用する衣装だったと明らかになる。

 では、ジャンが見た青いドレスの女は果たしてマリーだったのか。それともドゥーニーズだったのか。ステファンは何度も妻の亡霊を幻視する。亡くなった妻が「ステファン」と耳許で囁くその声を聞き、肩に触れる彼女の手を感じ、燻んだ窓ガラスの向こうにあの青いドレスの女の姿を見つける。

 映画の中盤、ドゥーニーズの幻覚に誘われて自室から玄関へとさまよい出てきたステファンは、先ほどと同じ玄関広間にある階段脇の扉が軋む音によって扉の向こうのキッチンへ、ジャンと同様に導かれる。室内のテーブルには誰かが水を飲んだあとのように瓶とコップが置かれている。誰もいないことを確認したステファンが部屋を後にしようとすると、キッチン奥の扉が開き、青いドレスの女が階段を降りていくのを見かける。彼女の後を追い、彼はアトリエにたどり着く。

 アトリエには大きな木製の階段がある。まるで舞台装置のように佇むそれを、この真夜中のステファンとドゥーニーズの邂逅シーンまで誰も使用しない。初めてこの階段を登るのはドゥーニーズだ。物音に気がついたマリーはアトリエにやってきて、これを一段ずつ登る。彼女が上階へと消えると、動くものの何もない画面が残り、カメラは階段に接近する。やがて階段の左手に不気味な二筋の白い光が差し込み、マリーが階段から転げ落ちてくる。彼女が転げ落ちるや否やステファンはマリーを追いかけて階段を下ってくる。ステファンは彼女と一緒に上階にいたようだ。つまり、ショットのつなぎをプロットの時間軸通りだと信じるならば、階段の上にはステファンとドゥーニーズとマリーの3人がいたはずだ。

 転げ落ちて、額に大きな傷を負った彼女のもとに駆けつけたジャンは、すぐさまマリーを車に乗せて走りだす。車は大きなため池の側で急停止し、全く音を立てずに彼女は車外へ放り出される。後部座席から姿を消したマリーを探しているジャンの前に、突如暗闇から彼女は姿を現す。額の傷は消えている。以後、マリーはまるでジャンにしか見えない亡霊のように振舞いはじめる。

 本作におけるドゥーニーズの扱いについて佐々木敦は、劇中に彼女のダゲレオタイプが一度も登場しない点を指摘し、ステファンが見るドゥーニーズこそ彼の作り出したダゲレオタイプだと推論する1。この説に乗っかりもう少し論を進めてみよう。ここまでの分析で、黒沢がドゥーニーズとマリーという、亡くなったのに可視化された亡霊と、カメラワークが示唆する不可視な何かの気配が特徴的に演出の中に取り入れられていることを確認した。

 冒頭で述べたように、ダゲレオタイプは止まっているものだけをとらえ、動くものを取り逃がす装置だった。以下では本作に限らず、黒沢清のキャリアの中でこの「死んでいるけれど見えるもの」と「存在しているけれど見えないもの」についての考察を進める。議論を先取りするならば、黒沢の映画には従来、後者が恐怖の対象として登場し、前者が少しずつそれに取って代わろうとしている。。ダゲレオタイプというモチーフはその変化をより意識しやすくする、転換点の目印の役割を果たしているようだ。

 

2、

 黒沢清は90年代を中心に何本かのホラー映画の傑作を生み出した。『リング』(中田秀夫監督、1998年)や『呪怨』(清水崇監督、2000年)のヒットともに巻き起こったこのJホラーの流行について彼は、以下のように振り返る。

僕もやっていたJホラーというのは、「四谷怪談」のような昔の階段の幽霊のありようを映像の表現として使わせてもらっているけれども、物語はまるっきり違います。(……)ある犠牲者のような女性が幽霊あるいは怪物になって出現するのですが、彼女はそこでいったん死ぬかたちをとることによって、これは高橋洋(脚本家、映画監督)が言ったことですけれど、死ぬという型式というか過程を踏むことによって発狂する。彼女にはもう具体的なターゲットはなくなり、全世界、世の中すべてがターゲットとなり、それはほとんど西洋のモンスターと化すわけです。なぜ殺されたのかというようなことをほとんど忘れている。それが『リング』シリーズに登場する貞子です2

 「発狂」によって「全世界、世の中すべてがターゲット」となるというのは貞子に限らず、ゴジラや宮崎駿の映画に登場する巨神兵や乙事主、『新世紀エヴァンゲリオン』の使徒まで当てはまる、戦後日本映画に共通したトピックではないだろうか。

 黒沢清が描く災厄はこれらのキャラクター化された例とは対象的に、長らく姿の見えないものだった。『CURE』(1997)に、その一例を見ることができる。これは奇妙な連続殺人事件を扱うスリラーだ。頚動脈を十字の形に切られた同一の手口の殺人事件が頻発し、犯人が次々と捕まるのだが個々の事件の関連性は犯行の様式以外に見つからない。やがて刑事は、容疑者たち全員が犯行の直前に一人の男に出会っていたという事実にたどり着く。

 2008年の作品『叫』にも『CURE』の形式が受け継がれる。湾岸地帯で海水の溜まった水たまりに被害者が顔を押し付けられ、溺死するという3件の殺人事件が発生し、それぞれに別々の犯人が判明する。これも、個別の複数犯による連続殺人事件だ。しかし、今回はウィルスのように感染する破壊衝動ではなく、地縛霊が彼ら彼女ら容疑者のトリガーとなっていたことがわかる。

 事件が起こった地域には、劇中で「脳の病院」と名指される精神病患者の療養所が戦前に建っていた。戦後、そこに打ち捨てられたまま残された女は幽霊となり、知らず知らず自分と目を合わせていた者たちに次々と無意識の破壊衝動を埋め込んでいく。彼女に魅入られた者たちは、赤いコートの女の幽霊を目撃した後、身近な者を前述の手口で殺してしまう。

 『CURE』の間宮という男と『叫』の赤いコートの女はいずれも連続殺人のトリガーとなるが、両者を同質のものと捉えるべきではない。前者は殺意や怨恨を持たず、直接相手に手を下すこともしない。自ら無差別的に破壊行為を行う赤いコートの女はむしろ「世の中すべてがターゲット」の貞子のようなキャラクターに近い。深夜に自宅で彼女の幻覚に刑事の吉岡が苛まれるシーンがある。首を絞めるような手つきで、立ちすくむ男に斜め上から襲いかかるようにゆっくりと迫る女。音叉を鳴らしたような澄んだ悲鳴が、静寂に似た空間を作り出し、彼女の髪はたてがみ状に大きく広がる。

 『ダゲレオタイプの女』にもほとんど同じシーンが存在する。ドゥーニーズが植物園でステファンに襲いかかる場面だ。では、ダゲレオタイプの問題に再度戻ろう。なぜ黒沢は近作になって、従来の「見えない恐怖」の可視化を始めたのか。『ドッペルゲンガー』(2003)の分身や『LOFT』(2006)のミイラといったプロトタイプを経て、『叫』以降、その見える何かは死者の亡霊に落ち着いたようだ。

 黒沢清にとってダゲレオタイプとは何か。ここで私たちは最初の問いの解決を始めることができるようになる。ステファンにとってのダゲレオタイプを、黒沢にとっての映画と重ねることは決して強引ではないだろう。

 「運動=不可視=生」であるものから「静止=可視=死」を抽出し、固定する道具としてステファンのダゲレオタイプ、そして黒沢の映画を考えてみよう。黒沢は映画作りとは「「存在すること」と「見ること」とのぎりぎりのせめぎあいのことかもしれない」と語っている3

 彼の作品を時代の変遷とともに整理できるとするならばJホラーが90年代から2000年にかけて描いた世紀末的な恐怖というのは、未だ決まっていない不可視の未来だった。しかし、『叫』に至る過程で黒沢はその不可視の未来を「見る」ことで「存在させ」、見えない恐怖=未来の正体が亡霊の怨念=過去であることを暴いたのだ。『叫』以後、可視化された恐怖の原因は『リアル〜完全なる首長竜の日〜』(2013)における首長竜、『岸辺の旅』(2015)における死者たち、『ダゲレオタイプの女』(2016)におけるマリーとドゥーニーズ、『散歩する侵略者たち』(2017)における宇宙人といった形で登場することになる。

 では、黒沢によって可視化された見えない恐怖は、Jホラーの「貞子」たちと同じものなのだろうか。決してそうではない。こうして見えるようになった亡霊たちが黒沢にとって何を意味するのかもう少し検討してみよう。

3、

 『叫』と『ダゲレオタイプの女』にはまだ顕著な類似点がある。それは登場人物の関係性だ。『叫』において、赤いコートの女の呪いによって恋人、春江を殺してしまった吉岡という3人の構図は、後者の中で女の幽霊=ドゥーニーズ、春江=マリー、吉岡=ジャンという形で相似をなす。

 両作品の最も大きな違いはその結末だ。『叫』では刑事の吉岡が自宅で水たまりに顔を埋めた女の腐乱死体を発見し、自分が春江を殺したことを思い出す。そして、亡霊であると正体を明かした春江に謝罪し、彼女と和解する。その後、作品の最後で赤いコートの女の幽霊が、吉岡の留守に彼の自宅を訪れた同僚の宮地を水の中に引きずり込む。一方、『ダゲレオタイプの女』ではステファンの死後、ドゥーニーズはほとんど登場せず、ジャンとマリーの逃避行が描かれる。教会で結婚式を挙げるあたりからマリーの存在はすでにおぼろげになり、車の中で助手席から姿を消してしまった彼女を想い、悲嘆にくれるジャンを残して映画は終わる。前者は恐怖を、後者は悲恋を余韻として印象付ける。

 『叫』以降、配偶者ないし恋人の幽霊というモチーフは顕著になる。そして亡霊は、一層恐ろしくない、より身近で親密な存在として描かれる。だからといって生者と死者の境目がなくなってしまうのでは決してない。両者は記憶というツールによって関係を結び直すのだ。

 『叫』では、事件の原因を解明し、女の遺骨を葬った吉岡に対して、赤いコートの女は「やっと来てくれたのね。あなただけ許します」と言い残す。思い出すことで生者は破壊的な亡霊と関係の結び直すことに成功する。

 『ダゲレオタイプの女』と『叫』は土地の記憶と、土地開発による汚染という重要な共通項があるが、ここでは深く触れない。しかし、本作における記憶の問題はそこがどのような場所であるかという問題から始まる。開発のためにデベロッパーは、報酬と引き換えに、ステファンに屋敷の売却について納得させるよう、ジャンに話をもちかけるが、彼はステファンが紛失した登記簿をいつまで経っても見つけられないので目的を遂げられない。ジャンがマリーとの逃避行に成功するのは、登記簿が見つかってからのことになる。

 『散歩する侵略者』(2016)の侵略者とは宇宙人のことだ。しかし、他作との類似点で考察するならこの宇宙人は、記憶をなくして狂うことで世の中すべてを破壊する侵略者となった亡霊になぞらえることができる。社会生活の記憶を忘却した者が、破壊者となる災厄は『CURE』や『クリーピー 偽りの隣人』(2016)でも描かれるが、とりわけ『散歩する侵略者』においてその不気味さは、歩き方を忘れて転げ回る男の不用意な身振りに現れる。侵略者は人間のルールを忘れて予測不可能に転げ回る。この恐ろしい亡霊も、他人の概念を奪うという能力で妻への愛を思い出し、生者との共存に成功する。

 『岸辺の旅』(2015)は亡くなった夫の亡霊と共に旅する妻という形で、黒沢作品中、最も死者と生者の関係を親密に描き出す。二人の旅先にはいたるところに死者が現れ、妻の方は生者と死者の見分けがつかない。ここで、記憶は死者が現世に姿をとどめるための役割を果たす。富山の海で死んだ夫は帰り道を思い出すことで妻の元にたどり着き、新聞屋の亭主は日々のルーティーンを忘れず繰り返すことで自らの死に気づかない。10歳で亡くなった少女は姉が得意だったために記憶しているピアノ曲を演奏する間だけこの世にとどまる。夫に勤め先の病院で働く浮気相手との関係を問い詰める時、妻は「私は忘れない。この先10年でも20年でも私は絶対忘れないから」と叫び、その思いが一層強く二人を結びつける。

 しかし、こんなに生者と死者が身近に感じられたからといって何の意味があるのだろうか。それを可能にしているのは結局映画、まるで死者が生きているように見えるにすぎないまやかしではないのか。

 こうした問いに答えるように、『ダゲレオタイプの女』の終盤には一つ印象的なシークエンスがある。ステファンに撮影を依頼するため、h鳥の老婆が屋敷を訪れる。老婆は「死は幻ですよ。私のように死の寸前にいる人には幻なんです」と彼に話す。「死が幻」なら生も同様だ。映画がまやかしなら、まるで生も死も記憶というプログラムによって保証された同じ幻に過ぎないとでも言いたげだ。黒沢清の映画の最先端はこうして、その境目の混淆したアンビギュアスな死生観のもとに立ち上がる。そこでは死者が生者であった頃を思い出すように、生者もまた死者であったことを思い出す。

1「見えないものと見えるもの:黒沢清『ダゲレオタイプの女』論」新潮113(11)掲載、新潮社

2「座談会 世界化と廃墟の狭間で」11ページ、「映画は生きている第8巻 日本映画はどこまで行くか」岩波書店、2010年

3「私の映画論」24ページ、「黒沢清、21世紀の映画を語る」boid2010

文字数:6515

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