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工場の出口・世界の入口

 

 蓮實重彦は『映画という《物体X》』(2016)の著者、岡田秀則との対談でこう話している。

自分より見ているものが小さいと、軽蔑が働くんです。だから自分より大きなもの だと、軽蔑がどこか削がれるわけです。ですから、大きなスクリーンで見なければ いけないと思いますね。それから、小さいものというのは、解像度の問題もありま すけれど、やはり絶対に見えないものがあるんですよ1

 蓮實からは映画とは「映画館で見るもの」に限られているという強い意識が伺える。テレビからスマートフォンまで多様な映像メディアが我々を取り巻く昨今、蓮實のような古風な鑑賞姿勢を貫く老人を時代錯誤だと切り捨てるのはたやすいだろう。

 本稿の目的は、この20世紀の知の巨人から批評的遺産を検証し、受け継ぐことにある。そこで、まず蓮實にとって映画館とはなにかを検討するところから始めたい。

 第1章では、蓮實にとっての制度としての映画館、そしてそこに根ざした批評の態度を測り、その態度が映画監督であり批評家でもある2ジャン=リュック・ゴダールの作品批評の前で一つの隘路に陥ったことを確認する。第2章では、現代の誰でもポータブルメディアで撮影と配信が可能になった時代における映像批評の地平を再検討すべく、テレンス・ナンスという映像作家を、蓮實、ゴダール以後の一つの視座として取り上げる。

1、工場あるいは礼拝堂としての映画館

1−1 工場

 文学者ロラン・バルトの影響下で蓮實は、イメージもまた言語と同様に意味の堅固な理論体系を持ちうると批評を打ち立てた。映像におけるイメージの細部は意図され、デザインされ、その言葉を借りれば「経済的に」説話のために機能していると彼は暴いた。

 それは実質、スタジオという閉じた巨大なシステムの中で規格に沿って、生産される製品の解剖図のようなものだった。蓮實の映画批評活動における理論的な大きな成果は、そうした意味で『映像の詩学』(1979)の「ジョン・フォード、または翻る白さの変容」や『監督 小津安二郎』(1983)に最も顕著に見ることができる。

 蓮實の手法はイメージの細部が作品全体の説話の構造に還元できることにその妙があった。しかし、それはフォードや小津、ヒッチコックやホークス以外の作家にも適用できるのだろうか。例えばリュミエールのような全体構造を持たない映画に対してはどうだろう。

 彼の批評理論は、ジャン=リュック・ゴダールの映画の登場によってすでに困難になり始めたように思われる。蓮實がフォードらを取り扱う手つきは、ゴダールらカイエ・デュ・シネマの批評からヒッチコックらを扱ったのと同じ手つきをしていた。

 映画であり、批評でもあるゴダールの作品に蓮實の批評が向けられるとき、彼らの手つきはお互いに批評であるために並行し、出会わない。次第に説話の統一性を進んで欠くようになるゴダールの映画を蓮實の批評はただ眼に映るものを描写し、「あえて」という宣言の下に判断を宙吊りにするしかなくなる。

 ゴダールの処女作『勝手にしやがれ』(1959)を、その映画監督による批評だったと言うことができる。1946年のBlum-Byrnes合意によって、戦前まで輸入本数に制限がかけられていた外国映画大量流入すると、当時世界第2位の映画産業国だったフランスにアメリカ産の娯楽映画が溢れかえることになった。

 ゴダールの処女作はこれを描いて社会批評となり、ホークスのノワール『暗黒街の顔役』(1932)のようなアメリカジャンル映画の盗用でアプロプリエーションともなった。無為にアメリカ人の女に振り回されたフランス人の男がただ破滅する話ではない。しかもそれを同時録音と野外撮影を駆使して、スタジオ=工場の外で完成させた。

 では、蓮實がこの映画かけた言葉の一端を見てみよう。

一人の新人監督が、すべての活劇の要素をことごとくフィルムにおさめようとしな がら、その財政的な余裕も、時間的な余裕もないことに気づく。(…)以後、映 画は、この作品を超える活劇を撮るにはいたっていない(1999)。3

 財政と時間の余裕について。蓮實がその批評でしきりに問題にしてきた語りにおける「経済性」とは、工場の生産システムの中にだけ活きる問題ではなかったか。潤沢な予算と労力をどのように上手く遣うかという問題ではなかったか。それは結局工場の中でのお金の遣い方に過ぎなかった。

 映画が工場の外で撮られるようになった後、時間とお金に余裕がない人間でさえ、気軽に映像を撮れるという豊かさが浮上する。戦後のフランスにアメリカ映画が大量流入し、ヌーヴェルバーグの作家たちがパリの街中に飛び出した時、工場の中の経済性はすでに時代遅れになっていた。

 ゴダールがフィルムからビデオへ、ビデオからスマホへ、ドローンへと新しい撮影機材を導入していくのは、それが彼の批評の手つきだからだ。工場の経営者は従順な労働者よりも、新製品を開発した労働者にお金を払うだろう。決済の方法も次々と変わる。そこで、『勝手にしやがれ』の批評の中で車と貨幣(紙幣、小切手)という見えるものだけに注目した蓮實は、形を持たない「見えない」お金の流れの行方を見落とすことになった。

 ゴダールは1982年に「工場」と「ビデオ映画の製作現場」を題材に『パッション』という映画を製作している。蓮實とゴダールと「工場」としての映画の関係はここで一つの結節点に達する。

 本作ではゴヤやレンブラントといった西洋名画の場面を再現され、監督が「光が気に入らない」と文句を垂れるせいで全く製作の進まない撮影現場と、不当解雇を申し渡された労働者と工場の従業員たちのもつれる交渉現場、そして独立自主管理労働組合「連帯」の結成を受けて1981年12月に戒厳令を発令した現実のポーランドがオーバーラップする。

 ゴダールはここで、イザベル・ユペール演じる労働者の女性に吃音で「ずっと深いところで労働と快楽は同じものだと思う 動き方がセックスと同じ 速度は違うけど同じ動き方よ4」と話させ、蓮實はそれを「吃音によって」「感動的に語ってみせる」と批評する5

 『パッション』において、完成しない映画=生産に失敗した工場の部品を集めた批評行為として結実する。吃音というモチーフはここで言葉に成りそこなった音として現れ、手段から目的に変わった行為の断片として快楽の対象に変わる。

 では、工場が実際に倒れてしまった後、つまり工場という生産システムなどなくても映画が撮れるようになった後の映画の話を以下で始めよう。

 

1−2 礼拝堂

 「工場」が解体された後のほうがより私たちに想像しやすく、馴染み深いものだろう。テレビCM、該当広告、動画サイト、ストリーミングのサブスクリプション、巻き戻しや早送りが可能なビデオやディスク、そしてソーシャルメディアに溢れかえる他人のホームビデオ、映画館を離れた場所に、ある意味でゴダール的な、説話に還元できないばらばらの映像が溢れている。

 蓮實を介して「工場」としての解体を振り返った私たちの手元には、映画館という肉体を失った映画という亡霊だけが残された。蓮實以後の現代的な問題とはこの亡霊とどう付き合い直すかに還元できるかもしれない。

 それは映画の映画の精神的な作用についての問題だ。映画には、西洋の批評家や研究者にカトリック性を見出されてきた経緯がある。三浦哲哉は『映画とは何か』6の中で、ロベール・ブレッソンやアンドレ・バザンらを引用しながら詳細に論じている。ここで持ち出したカトリック性を特定の宗教の名称が持つイメージを振り払うために、哲学者ジル・ドゥルーズの言葉を引用しよう。

映画のカトリック性というものがある(…)。現代的な事態とは、われわれがもは やこの世界を信じていないということだ。(…)引き裂かれるのは、人間と世界の 絆である。そうならば、この絆こそが信の対象とならなければならない。それは信 仰によってしか取り戻すことのできない不可能なものである。7

 キリスト教の話ではない。受容者の信仰を担保にした暗室での一方向的な神秘体験というのが映画館における映画は、そのメディアに触れたことのある人間なら皆イメージできるものだろう。映画館亡き後の映像の問題に立ち戻ろう。ドゥルーズが言うところの「世界の絆」は今、どのように可能だろうか。蓮實の頼りない回答を引用する。

  すべてが明るくなってしまったのは、 これは仕方がないことだと思うんです。と にかくポケットに映画が入るということが二度起こったわけです。一度はVHS して、それから今はスマートフォンとして。では、それで何が失われ、何が獲得で きたのかということは、ずいぶん大きな問題だと思います。とにかく、スマホでも 映画が撮れる、と。実際に(ジャン=リュック・)ゴダールなんかは、スマホで 撮っているわけでしょう。それはそれで良いのですけれど、「誰でもできること」 になってしまった時に、どうするのか。「誰にもできないことを、どうするか」と いうことが、いま誰にも分かっていないんです8

 彼の最大の功罪はそれを「誰にもわかっていない」と断言してしまうことにある。少なくともゴダールはそれを「わかろう」と試みてきた。なぜなら「スマホで撮っているわけ」だ。では、ここでそのゴダールの後を少し追いかけてみよう。

 先ほど触れた「工場」の中で作られた映画群をサンプリングして製作された『映画史』(1988-98)の大編纂事業を終えた後、批評家ゴダールはスマホや3D、ドローンを駆使しながら同時代的な問題に帰っていく。

 彼が問題にするのはベトナムであり、パレスチナであり、サラエボであり、地中海であった。そして、私たちが次の章で確認するテレンス・ナンスはゴダールがこの20年で一度も取り上げなかった問題に触れる作家だ。

 『ゴダール・ソシアリスム』(2014)は、それとは最も遠い映画であった。『フォーエバーモーツァルト』(1996)では遺体置き場から蘇った女性として、『さらば、愛の言葉よ』(2014)ではいなくなったかに見えた犬の行く先として、『アワーミュージック』最終章「天国」では、テルアビブの映画館で凶弾に倒れた少女オルガのその後、死後生のことを問題にした。しかし、それをそれ以上、追求はしなかった。

 私たちはその先に進む。そして、デジタル時代の混淆宗教の映像作家としてのナンスに映画の未来を見つめる。

2、混淆宗教とDIYの映像作家

 テキサス州ダラス生れ、ニューヨーク大出身の映像坂テレンス・ナンス(1982~)はジェイZプロデュースの劇映画『Oversimplification of her beauty』でデビューを果たし、同年にはゴッサム賞のBest Film not Playing at Theater Near Youを受賞、Filmmaker誌の25 New Face of the independent filmにも選ばれた。

 ナンスを取り上げるのは一つは「工場」に代わる映像の個人的な使用方法の確認するため、もう一つはそのようにインタラクティブな映像メディアを通してカトリックの「礼拝堂」に代わるアニミズム的な混淆宗教によって世界との絆を再構築するためだ。

 一つ目について。長編デビュー作『Oversimplification of her beauty』は意中の女性に対する思いを、ナンスが演じる若い男が自ら撮影をしたり、アニメーションを作ったりして描写し、とめどない内省を綴った作品だ。ウディ・アレンの『アニーホール』(1971)のような告白録の一種とみることもできる。しかし、ナンスの試みはもう少しオープンだ。彼は自らのドキュメントを実況し、鑑賞者に語りかけ、観客とインタラクティブであろうとする。

 本作の制作と同年にブルックリンで開かれた彼のTEDにおけるプレゼンテーションのパフォーマンス「How to allow your subconscious to make a movie」は一層、作家にとって映像の製作が気軽なものであることを強調する。

 マイクを握った壇上のナンスは「私はテレンス・ナンスではない。あなたの意識だ」と名乗り、観客からキャストとスタッフを集め、15分間で彼らに短い映像を撮らせ、生演奏付きで上演させる。ファシリテーターとして観客/参加者たちに同じ言葉を繰り返し投げかけ、創作へと焚きつける。そのナンスに向けて、女性のアナウンスが度々「Shut up」と遮る音声装置が設置されている。これは撮影というライブパフォーマンスなのだ。

 彼の創作に対する態度は少々アンビバレントなようだ。それが寿ぐべき行為でであると同時に、どうしようもない自意識の発露であることも認めている。上記二つの例は、その自意識を発露させ合い、共有される場の中でお互いに転嫁されていく。

 誰もが映像作品を撮ることができる時代に、一方的に観客である者たちだけに「どの映画が面白いか」という価値判断を提供するだけでは決して十分ではないだろう。あまりにも単純化されすぎた映像の制作方法自体について問う必要がある。今日、撮影と編集とは言葉や貨幣のように、それ自体が不特定多数の人に共有され、実践されるツールになった。そのように使い回される準客体としての道具性に踏み込むことが今、必要とされる映像批評の実践ではないだろうか。

 そして2015年の作品『swimming in your(斜線) skin』では、彼がいかにしてより大きな世界との絆を構築するかを題材にしている。本作ではプールのある家で過ごす若いカップルや、森の中に集まる子どもの集落、教会でのデモンストレーションが断片的に描かれる。個々のエピソードは文明社会や、死後の世界についての省察が断片的に述べられ、統一的なプロットを持たない思弁的な作品だ。

 これが混淆宗教に関する作品であることは早々と宣言される。映像は開始と同時に46(47?)の宗教がアニメーションで矢継ぎ早に紹介し、「この作品はそのどれ一つをも表象するものではない」、そして「時間、生命、死、神、女神、天国、地獄、浄化、地球、進化、宇宙、物質、エネルギーのどれも否定しない」、最後に「これは音とイメージの羅列である」と宣言する。

 興味深いのは宗教の紹介の順番だ。それはキリスト教でもイスラム教でも仏教でもなく、サンテリア、カンドンブレ、ブードゥーという順番で始まる。そしてブードゥーはよく聞いていると2回呼ばれる。これらはどれも中南米に拠点を置く、キリスト教とアフリカ系現地人の民間信仰を混ぜ合わせた混淆宗教である。

 ナンスが「表象しない」というふうに、映像が特定宗教のイコンとなることを否定するとき、それは「〜でない」という否定ではなく、他の多くのものでもありうるために、特定のなにかではありえない、という大らかな否定として現れる。

 これは彼がその批評の中で用いてきた「経済性」とはまるっきり逆のやり方だ。彼の映像の中でイメージは少しも効率的ではなく、意味が過剰になる。ナンスは映像が「工場」から「海」へ解放された後の、グローバル時代の作家だと言えるだろう。そして、どこでも映像を撮り、鑑賞することができるようになったとき、あるいは私たちはありふれた川や海や水たまりが最も原始的なスクリーンの一つであることをも発見し直すことができる。

 グローバル時代の映画に必ずしも映画館は必要ない。少なくともナンスにとって水は見えないものを見るための窓と化す。しかし、これは新しいことではないだろう。映画史においてアンドレイ・タルコフスキーや溝口健二といった作家が実践してきた水の表現とはそういうものではなかっただろうか。ナンスはあまり敬虔ではないヴァナキュラーな神秘主義者としてその後に従う。

 やがて、プールの水面に現れる女性がバミューダトライアングルに消えた女性の幽霊であることが明らかになる。プールや海がスクリーンとなり、それが見えないものを見るためのインターフェースとして使われるようになる。それは特定宗教とは結びつかないが、あらゆる「信」の問題に接続する。

 『oversimplification…』がただの恋愛映画ではないことをこの作品を通して確認したい。恋愛が彼女の美しさを「単純化し過ぎている」ことを自覚しようとするとき、作家はイメージがイコン化していくこととなんとかして折り合いをつけようとする。ナンスはイメージがイコンであること、他者への恋愛感情がどうしても幻想から始まることを肯定するが、それが幻想であると自覚することや、どうしても実態が幻想の範疇からはみ出し続けることも同時に肯定する。

 『swimming…』にはそれは白い装束をまとって森の中でダンスをする女性として現れる。こうして撮影された運動はイメージの固定と意味の固定を絶えず逃れて、発明当初の原始的な映像に立ち返っていく。そこに「神は変化する」とナレーションが被さる。

 混淆宗教的なイメージの肯定とはこのダンスをする女性の運動に冒頭のアニメーションを重ねることに表れる。イメージは絶えず変化して壊れるのではなく、その都度上塗りされる。そのイメージがどんな意味を持つのかは宙吊りにされるのではなく、絶えず決められ、新しく上書きされていく。こうして変化する新しい肯定として私たちは世界との絆を取り戻そうとする。

 最後に蓮實がゴダールについて、そして見えないものについて書いた一節を引用する。

演ずることは、本来見えてはいない何ものかに幻想的な実在感を付与することであり、しばしばその幻想を実在そのものと錯覚する地点にまで自分を引きずりこむ危険をはらんでいるが、その見えてはいない何ものかになることは、存在の破砕によってしか実現しえないより危険な試みである9

 果たしてそうであろうか。演技のイメージは必ずしも存在を破砕するだろうか。ナンスが描いたレベッカと名乗るバミューダトライアングルの幽霊に、存在と共存する幻想の上書きとしたように、見えるものに見えないものを上書きすることで蓮實以後の映像批評の地平を始めてみよう。

1https://news.ameba.jp/entry/20170607-511

2「私は一度も、批評を書くことと映画をつくることとを区別して考えたことがないのです」ジャン=リュック・ゴダール「ゴダール映画史Ⅱ」筑摩書房、奥村昭夫訳

3蓮實重彦『ゴダール革命」

4ジャン=リュック・ゴダール『パッション』(1982

5同3

6三浦哲哉『映画とは何か:フランス映画思想史』、筑摩選書、2014

7ジル・ドゥルーズ『シネマ2』

8同3

9「ゴダールの<変貌>?」『映像の詩学』

文字数:7623

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