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2049年の観客に向けて

 

1、

 新しい観客について考えるため、新しい認知の話をしよう。私たちの認知は絶えず私たちをとりまくテクノロジーに影響を受けながら変化してきた。リアリティというのは変化し、絶えず更新される私たちの知覚と社会感覚の織物であると言えるかもしれない。その一例を確認したい。

 今年9月に千葉県の幕張メッセで開かれた「東京ゲームショウ2017」の会場のあるエピソードについて確認しよう。ソニー・インタラクティブ・エンタテイメント社が開発したPS4用ゲームソフト『Detroit become human』の展示ブースでゲームの設定にちなみ、会場には3体の「アンドロイド」が展示された。そのあまりに精巧な作りに驚いた一部の観客が動画をSNSに投稿し、あるものはtwitterで3万以上リツイートされるなど、大きな反響を得た。しかし、後からその正体はどれもロボットを演じる人間だったことが明らかになった。ハフィントンポスト紙の日本版に掲載された記事1では、モデルの高山沙織が演じる精巧な「アンドロイド」の姿を確認することができる。

 なんだ人間か、とがっかりするのは決して本稿の筋ではない。この展示の仕掛けがアナログな手品に過ぎないとしても、この手品は果たして数十年前にも可能だっただろう。いずれにしろ現在、私たちの多くがロボットの真似をする人間と人間そっくりのロボットを明確に区別できないということがここで明らかになった。それはこの2010年代を生きる私たちだからこそ、区別できないのではないだろうか。それだけ極端に技術というものを信頼しているということがこの時代の認知のリアリティではないだろうか。

2、

 映像の世界では一層、人間と人工物の境目は曖昧になる。そこに描きこまれたグラフィックと、撮影された人工物と、撮影された生身の人間がスクリーンの平面上で等価になるからだ。一例として、今年公開された映画『ブレードランナー2049』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)を挙げよう。

 ここでは、遺伝子操作によって作られた人造人間「レプリカント」と人間が共存する2049年のロサンゼルスが描かれる。生殖活動できないという点でレプリカントと私たちとは異なるが、外見上の区別はほとんどつかない。旧式のレプリカントを取り締まる治安組織の捜査官「ブレードランナー」の職にある主人公「K」は、出産の痕跡がある女性レプリカントの遺骸が発見されたという事件を受け、彼女と逃避行した元ブレードランナー、デッカードの行方を追いかけることになる。

 本作の魅力はナラティブと撮影美学が共謀して人間と物との区別をなくしてしまうことにある。ここでは、人間、ホログラム、レプリカントという3種類の人型の、どれが本物の人間であるかということがいちいち明らかにされない。未見の方には、48fpsIMAXHD方式の上映の鑑賞をお勧めしたい。

 fpsとはなにか。これはframe per secondsといい、1秒あたりのコマ数を表すフレームレートの単位だ。フレームレートとは映像のなめらかさの基準だ。フィルム以来、従来の劇場映画は24fps、つまり1秒が24枚の写真で構成されていたが、2012年、ピーター・ジャクソン監督『ホビット 思いがけない冒険』以来、IMAXHDなどの上映システムとともに48fpsの劇場映画が一般に普及するようになった。

 『ブレードランナー2049』は日本国内で現在IMAXをはじめとした3D上映と、24fpsの2Dのものがあるが、本作がたとえ2D用のカメラで撮影された作品であるとしてもその真価を発揮するのは前者の上映においてだろう。私たちの新しい認知感覚を強調するこの作品の魅力を一言で表すなら、それは人間を物のように撮影することで、立体造形的な魅力を獲得したハイフレームレートのスローシネマということだ。一つずつ順番に説明していこう。

 まずはスローシネマという近年流行しつつある映画ジャンルについて。この「スロー」とは映画自体の進行の遅さのことでもあるが、そもそも「スローライフ」や「スローフード」という言葉から派生したものだ。グローバル資本の拡大とともに短時間で画一化された商品を提供できるように発達した「ファストフード」産業に対抗し、ローカルな食文化の振興を目的とした「スローフード」運動は1986年にイタリアで始まった。それは都市生活者に日常を離れた田舎での生活に目を向けさせるためのものだった。

 「スローシネマ」自体、まだ定義のあいまいな言葉だが、イギリスのレビュー誌「Sight & Sound」によればアンビエントな音楽構成やオーガニックな撮影地のロケーションとともに、個別のショットが2秒以上の長さになること、被写体の動きが乏しいことなどが定義の構成要素に挙げられている。2テーマとしても都会を離れた地方都市のゆったりとした生活や、アジアや東欧などのローカルな文化、歴史を題材にしたものが多い。具体的な作家としては、メディアアーティストとしても活動するケリー・ライヒャルトのような独立系監督や、アピチャッポン・ウイーラセタクン、タル・ベーラ、ラヴ・ディアスといった非西洋圏の作り手が該当する。

 ここでは『ブレードランナー2049』を「スローシネマ」の一種として論じようとしている。確かに、ショットの長さや、メロディーの起伏に乏しいサウンドトラックといった美学的側面はこのジャンルに寄っているといえるだろう。しかし、架空の大都市を描いたSF映画が果たしてなぜ「スローシネマ」と言えるだろうか。そのために『ブレードランナー2049』に描かれる都市のディストピア的な側面に注目しよう。

 「スローシネマ」の「スロー」が、ファストフードに代表される、発展を目指す都市のファストな消費文化に対比されるのであれば、本作の2049年のロサンゼルスにそのような「ファスト」さは一切見当たらない。廃墟のような巨大なビルが立ち並ぶ真っ暗な街並みを、止まない雨に反射する80年代の東京をも50年代のマンハッタンをも彷彿とさせるような無時代的な街頭ホログラム広告が煌々と照らしだす。本作の撮影はハンガリーのブダペストで敢行された。そこにあるのは発展が停止したあとの都市の亡骸とも言うべき場所に流れるスローな時間ではないだろうか。

 心もとない「スローシネマ」の「スロー」の定義を補強するため、しばし映画史の中に映像の「遅さ」に関する文脈を求めよう。動いている物を唯一記録できるメディウムとして誕生した映画は従来、画面の中でより速く、効率よく何かが動き回り、ときには劇的な破壊行為を遂行し、それが物語を進めることを良しとしてきた。こうした美学傾向を哲学者ジル・ドゥルーズは「運動イメージ」と名付けた。これに対して彼は「時間イメージ」というもう一つの傾向について提唱することになる。それは「運動」とは対照的な動かない映像、速さの0度に関する映画のことだ。

『晩春』の壺は、娘のおぼろげな微笑とこみあげる涙の間に挿入される。そこには 生成、変化、移行がある。しかし変化するものの形態のほうは変化せず、過ぎ去る こともない。それは時間であり、時間そのものであり、「純粋状態の少々の時間」 である。つまり直接的な時間イメージであって、それが変化するものに不動の形を 与え、この形態において変化は生じるのである。夜は昼にかわり、昼は夜にかわる が、それらは一つの静物にかかわり、その上に光は弱まりながら、あるいは強まり ながら落ちる。3

 「スローシネマ」のスローさがカメラと被写体の動き、編集のスピードを極端に遅くしていくことだとすれば、それは「静物を撮り続ける」という段階で極限に達するはずだ。ドゥルーズによれば、映画は小津の『晩春』(1949)において転換点を迎え、静物の上を流れるわずかな空気や光の流動的な変化を映すときの美学を獲得した。端的に「時間イメージ」とは物を撮ることだ。そこで、2010年代の観客に以下のような問いを向けたい。ハイフレームレートで静物を撮って、上映したらどうなるだろうか。

 フレームレートというのが映像のなめらかさの基準であることを思い出せば、そもそもこのテクノロジーが物体の表面を流れる流体を撮るのに適していることは明らかだ。『ブレードランナー2049』では光の代わりに水というよりわかりやすい流体が映し出される。そして、都市には雨が降り続けている。本作が、まずハイフレームレートでこの「時間イメージ」に挑んだ「スローシネマ」であるということ、さらに小津が壺という静物で試したことを生身の俳優を被写体にして試しているということを強調したい。繰り返す。人間、レプリカント、ホログラムという「人型」たちの表象は映像平面において、全て等価になる。ゆったりとした瞑想的なカメラワークが、人間と物とを区別しない危うい表現を可能にする。ではもう少し、具体的にハイフレームレートのスローシネマというのがどのように新しい「認知」を作り出すのか分析してみよう。

 これは何重にもプロジェクションという行為を行き来する映画のことだ。一つに彼らは撮影された俳優である。もう一つに、彼らは止まっているがゆえにその上を流れる光や水のスクリーンでもある。街に降り注ぐ雨が彼ら、彼女らの皮膚の上を、建物のコンクリートと同じように伝うとき、ドゥルーズが壺の上を流れる光の流体について述べたのとちょうど同じように、そこには「直接的な時間イメージ」が現れる。人間の皮膚がまず一つ目の被写体/スクリーンになる。

 一方で、人間の身体という複雑な立体造形物の上を流体がどのように流れているかを観察することによって、私たちは立体造形の質感を体験してもいる。今度は水が造形の立体性を映し出す非平面のスクリーンになるのだ。こうして、水もまたもう一つの被写体/スクリーンとなる。より一層なめらかな流体の表現の上でこそ、高フレームレートの技術とスローシネマの美学とが効果的に機能し始める。テクノロジーによって映画は動く絵画平面であることをやめ、立体造形物に近づく。

 この立体的な造形性に関する特徴はをプロットとも重要な関係を持っている。主人公Kは、レプリカントの出産という例外的な事件の真相究明を進めている。レプリカント産業の頂点に立つ科学者ウォレスは生殖可能な「製品」の開発を求めるあまり、自身の開発した生殖能力を持たない女性型個体を残虐にメスで切り刻む。

 本作への洞察を通して、「時間イメージ」とは映画が持つある種の立体造形的な性質への言及だったとドゥルーズに付け加えることができるかもしれない。私たちは今、静物として人間を撮るという事例をともなって、もう少しこの問題に踏み込むことができる。人間を被写体にした「時間イメージ」の誕生によって、映画というメディウムはこの科学者ウォレスと同じ危うい欲望をより明確に自覚するようになる。それはつまり、人体複製の欲望だ。そして、そのような実存的な作品創造を求める芸術表現はしばしば、ウォレスがそうであるように、母親という創造主と競合することになる。

3、

 ホログラムの表現についても触れたい。『ブレードランナー2049』には「K」のパートナーとしてホログラムの「ジョイ」というキャラクターが登場する。彼女の存在によって、『ブレードランナー2049』はそれ自体画期的な映像作品であると同時に、作中で架空の映像体験を描く鑑賞体験のプロトタイプにもなる。つまり、見る作品であり、見ている人を見る作品にもなるということだ。

 雨が降りしきる中、屋外でKと彼女とが抱き合うシーンは、彼女が作品内で果たす役割をよく表している。降り注ぐ雨がジョイの髪から肌を伝い、液体が艶めかしく彼女の肉体の形を服の表面にくっきりと浮かび上がらせていくが、これはプログラムが自動でそのような像を作り出しているにすぎない。彼女は濡れたふりをしているだけだ。彼女に肉体はない。肉体を持つKは手をかざし、彼女を触れたふりをし、彼女を抱くふりをする。彼女は立体の触覚を志向する映像だ。

 本作が人間と人型の物との境を曖昧にする立体造形的な作品であることはすでに述べたが、ホログラムのキャラクターがもう一層、この問題を複雑にする。3つの人型のうち、ホログラムでできたジョイだけが生身の肉体を持たない。彼女はある意味でイメージそのものであり、人でも物でもない。

 一方で彼女はキャラクターであり、メディアそのものでもあるという性格を持っている。Kは新しく購入したポータブル機器によって、パートナーであるジョイを家から連れ出すことができるようになった。そして、競合する敵の攻撃によりこのポータブル機器は破壊され、彼のことをよく知っている彼女は永遠に失われる。一方で、市街地に戻った彼の眼の前にはときにバレリーナのコスチュームに身を包み、ときにピンク色の裸体を晒した街頭広告として、ジョイが再び姿を現す。彼のことを全く知らない、彼が知っているのと同じ姿形をしたジョイに、Kはどのような感情を持つのだろうか。

 ここでもう一度、冒頭で触れた「東京ゲームショウ2017」のSIEブースに並んだアンドロイド(パフォーマンス)に対する来場客の反応に触れたい。会場を訪れた人たちは顔を近づけて無遠慮に観察したり、カメラで写真を撮ったり「これ、人?」とこそこそ周りで話したりしていたとされる4Twitterには「顔のモデリングが秀逸」「このDOLLほしい」などといった投稿も見られる。正体が人間であるとわかった今、これを滑稽で、少々残酷でもある私たちの非人間の「物」に対する態度ととることもできる。ましてや『ブレードランナー2049』で描かれるのはレプリカントとホログラムの恋愛劇である。この二つの事例はいかに私たちがちょっとしたことで物に心を見出し、生身の人間から心を見失うことができるかという事例を表している。そしてそれは単に倫理の問題ではなく、私たちを取り巻くテクノロジーの環境が積極的に、そして無意識的に私たちの認知を改変していることに由来する。

 最後にもう一つだけ例をあげよう。外科医で起業家でもある杉本真樹は、2016年に医療用VR事業Holoeyesを立ち上げ、専用のゴーグル端末を使った外科処置用VRソフトの普及に取り組んでいる。彼は、手術を待つ患者の患部を仮想現実上に再現するソフトウェアを実用化している。ネット上で公開されている映像では手術着に身を包んだ杉本が血管の色分けされたヴァーチャル臓器を手に取り、患者の身体の真上で他の医師たちと打ち合わせをしている5。この大変興味深い技術開発の苦労について、杉本はプログラムの中に「自分」を書き入れることが必要だったと言及する。

いま、目の前にペットボトルがありますが、このキャップから底までの距離とボト ルの奥行きを表現するだけでは、それが自分から何cmの位置にあるのか、自分の 手に対してどれくらいの大きさなのかわかりません(…)つまり、対象と自分と の関係性が重要なんです。「自分=ユーザー」の視点を座標空間のなかに組み入れ たことで、オブジェクトがある座標空間に「自分」が入れるようになった6

 杉本によれば、この技術は同僚の医師以上に患者との情報共有にこそこの技術が役立っているという。

 今後は、VRによって「自分」という要素が入り、臓器の中に入ったり、実際の自 分の体に重ねて見たりすることができれば、それこそ我がこととして実感できるわけです。見慣れない内臓であっても骨も一緒に表示すれば、すでにイメージをもっ ている骨格との関係性において位置や形を把握できるので、よりわかりやすいです 7

 『ブレードランナー2049』にはKがホログラムのジョイを、生身の肉体を持ったレプリカントの娼婦に重ね合わせて性行為におよぶシークエンスが登場する。彼は他人の生身の身体を疎外しながら、イメージでしかない恋人とセックスにおよぶ。映画の例はまるっきり杉本の技術とは好対照をなしている。前者は肉体がイメージに奉仕し、後者はイメージが肉体に奉仕する。技術の進歩、とりわけ医学のような私たちの命に関わるような知見の発展は、そもそも私たちの命そのものへのものの見方を変えてしまう可能性があるだろう。杉本の大変示唆的な言葉を技術者のテクニカルな気配りにだけ限定するのはあまりにもったいない。現実の肉体とヴァーチャルなイメージについて「自分」をどう書き込むか、ということは私たちにとって倫理的にも、物理的にも切実な問題であるはずだ。

 劇中で巨大なヌードの女性として現れるジョイの広告は、実際に人工で発生させた霧に映像を投影して撮影された。街中に現れる広告でありサービスであるクラウドAI広告のジョイは、まだ実現されていない架空のテクノロジーだが、実際にコカコーラ社は2017年にタイムズスクエアに、画期的な立体広告を実現した8

 『ブレードランナー2049』では、生身の人間とそれと区別のつかない人工物と肉体を持たないイメージとが闊歩するディストピアが描かれる。それはそう遠くない未来の一部を再現した青写真かもしれない。今はまだ、病院の清潔な手術室で、あるいは真っ暗な映画館でしか試行されない実験だけが私たちを取り囲む。少なくとも限定的な空間の中では、それについて試し、考えることが可能なのだ。このマルチプルな現実に「自分」をどう書き込むか。それこそが新しい観客の問題だ。

1http://www.huffingtonpost.jp/2017/09/22/human-or-robot_a_23219117/

2https://web.archive.org/web/20120404003004/http://www.bfi.org.uk/sightandsound/newsandviews/festivals/av-festival-2012.php

3Gilles Deleuze, “Cinema Temps image”,ジル・ドゥルーズ「シネマ2 時間イメージ」,1985, 宇野邦一訳, 法政大学出版

4http://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/column/17/080700010/092100002/

5https://wired.jp/waia/2017/14_maki-sugimoto/

6同5

7同5

8https://www.psfk.com/2017/08/3d-coca-cola-ad-give-nyc-times-square.html

文字数:7593

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