印刷

岡田利規の誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいわたしたちに許された特別な時間の終わりについて教えましょう

1、「事件」という特別な時間

問題はこうだ。いかにして彼と彼女とはたったの5日間で30回近くもセックスが可能だったのか。その答えはこうであるかもしれない。それはその3月の5日間が一つの事件だったからだ。確かに岡田利規の『三月の5日間』(2004年初演)は演劇史というと言い過ぎかもしれないが、少なくとも日本の演劇にとっては一つの事件だった。

すると、次の問題はこうだ。「事件」とは何か。それは「事件!(”Event”)」のことだ。それは2014年にpenguin booksから刊行されたスロヴァキア人哲学者スラヴォイ・ジジェクの著作の名前だ1。ジジェクはいくつものニュースや文学や映画から引用を挙げて「事件」とはなにか、その実態を取り囲んだ。彼が用いた喩えの一つに詩人ハイネの引用がある。ハイネは人生において重要なのは「自由、平等、カニのスープ」だと言っている。事件とは「カニのスープ」のことだ。

私たちは抽象的な原理の思考だけで生きているのではない。それがどんなに普遍的で正しくても、頭の中だけで考えた数式のような抽象原理を現実に当てはめるだけの生活では、私たちはすぐに不幸な引きこもりになってしまう。事件とは意味と記号の奔流によって退屈になってしまいがちなこの生活に訪れる、個別具体的なものの過剰のことだ。ハイネはそれを「カニのスープ」と呼んだ。それはそれまで私たちが信じてきたはずの原理の枠組みを破壊するちょっとした幸せだ。つまり、ハイネにとって「カニのスープ」はいつでも胸のときめくご馳走だった。

ジジェクはそれを一方で、恋愛の話題に展開する。突如私の心を捉えて離さなくなる「あの人」の個別具体的な特徴がときには事件になる。もう一方では革命の話題に展開する。フランス革命は、理論によって周到に王権の転覆が準備されたのではなく、偶然起こったバスティーユ牢獄の個別具体的な襲撃によって劇的に勃発した。

岡田利規の話に戻ろう。『三月の5日間』が2004年に日本の演劇の「事件」になったのは、それが「事件」を扱う演劇だったからだ。そして彼が登場するまで、そして今でも多大な影響力を持つ平田オリザの演劇は「事件」を回避する演劇だった。平田の提唱する「現代口語演劇」とはなにか。「事件」に関して、青年団のサイトにこんな記述がある。

「人間は日々の生活のなかで、大恋愛や殺人事件ばかりを繰り返しているわけではありません。人生の大半は、これまでの演劇が好んで取り上げてきた大事件とはまったく無縁な、静かで淡々とした時間によって占められています。平田オリザはそのような静かな時間を好んで演劇の題材にとりあげます2

これを読むと、平田の演劇がまるで日常の些細な風景を活写したおだやかな演劇のように聞こえるが決してそうではない。平田は「演劇入門」で、複数のコミュニティに属する人が出会うようなパブリックな舞台設定を優れた戯曲の条件に挙げている。また彼の戯曲は『東京ノート』『砂と兵隊』『ソウル市民』シリーズに見られるように戦争、『革命日記』に見られるように革命といった歴史的な事件をその背景に持ち合わせてきた。彼の関心は、いかに理知的な言葉が相手と通じ合い、それが秩序のほつれを回避し、事件の発生が未然に防がれるかにある。

平田が「大恋愛や殺人事件」と呼んだものは、ギリシャ悲劇に遡ることもできるが、直接は彼の上の世代、60年代の学生運動と革命思想に支えられた演劇と、革命思想衰退後もそのショウとしての煌びやかさを残した80年代の野田秀樹や鴻上尚史の演劇観に当たるだろう。岡田とチェルフィッチュの新鮮さは、日本の演劇における「事件」の回復として訪れたと言えるかもしれない。しかし、岡田の「事件」が野田、鴻上的なアングラ演劇の仕掛けや見かけの派手さの回復ではないことに注意したい。平田が切り開いた、「現代口語」の地平をそのまま突き進むことで、岡田は日常的な言語と身体もまたほつれ、秩序を乱し、再び「事件」を引き起こすものとして再構築した。

一方で、『三月の5日間』の初演からもう15年近く経とうとしているからだ。ここで確立された岡田の方法論は長く彼を支えたが、2012年の『現在地』で大きな転換が起きている。本作は、ある惑星に移住した人類の集落が舞台で、その上空に青い雲が浮かぶ。集落の住人たちは、雲がなにか悪い出来事の兆しではないかと詮索し、分裂していく。冒頭に、一人の女性がかつて恋人とその青い雲を見ながらロマンチックな未来を語ったことを思い出し、そのような楽観が今の自分には少しもないと語り始める。これは岡田の『三月の5日間』への決別宣言にも思える。それは若者だけが見る夢だったのだろうか。

確かに確かに『三月の5日間』は、将来のまだ決まっていない若者たちゆえの淡い青春を描いた作品にも見える。『現在地』までに、作家は大人になってしまったのかもしれない。しかし、『現在地』からすでにまた5年が経った。それはすでにもう現在ではない。私たちと、そこで取りざたされた出来事との距離感は変わり、『現在地』もまた古びようとしている。ここで試みるのは『三月の5日間』の再考だ。私にはどうしてもこちらのほうが賞味期限が長いように思える。印象論ではない。そのために「事件」という概念を導入した。青年団と「現在地」にはなく、『三月の5日間』にあるもの。それが「事件」なのだ。そこで再びまた最初の問いに戻ろう。つまり、「 いかにして彼と彼女とはたったの5日間で30回近くもセックスが可能だったのか」。以下で分析を進める。

2、寝相身体と「事件」の終わり

『三月の5日間』では2003年3月にライブハウスで偶然出会った20代の男女が渋谷のラブホテルでセックスをしながら5日間を過ごす、その裏ではイラクで戦争が始まり、渋谷から六本木にかけて街頭では戦争の反対を訴えるデモが繰り広げられる。初演の出演者は5人。一人に一つ役が振り分けられるわけではなく、それぞれが状況を撮影したカメラの視点のようになり、それぞればらばらの場所と時間で起こったこと、そこで話された会話を報告していく。

男女の恋愛に限らず、初めて出会った人とわけもなく、突然意気投合し、感情があふれ出すように疎通しあった経験のある人は、この作品にすぐに共感し、特別な価値を見いだすことができるだろう。事件とはすなわちそのまま恋ではない。それと同じくらい偶然に、私たちは交通事故に遭い、宝くじに当たり、犯罪に巻き込まれ、歴史の一場面に立ち会う。事件とはそれ自体が良いものでも悪いものでもあり、価値は後から遡行的に決まる。

しかし、この戯曲が選んだ恋とセックスとはその幾つかの可能性から選ばれた適切なサンプルに思える。そこでは言葉と身体がコミュニケーションのツールとして駆使され、相手を傷つける危険が常に付きまとう。そこに戦争への連想も絡む。ここでは、一度、性の話題に仮託して分析をしてみよう。

 

「伝統的に愛を特徴づけている三つの次元(生殖、性的快感、愛)の結び目が少しずつほどけてきたように見える。生殖は遺伝子工学に委ねられ、性交は不要になってきた。セックスそのものが娯楽に変わりつつある。愛は「感情的充足」にすぎなくなってきた。こうした状況では、これら三つの次元のうちの二つが重なり合う瞬間、すなわち享楽が愛の印となる瞬間を思い出すことがますます貴重になってきた3

ジジェクが言っているのは、身も蓋もない言い方をすれば、「愛のあるセックス」の困難さだ。当事者同士は「愛」というものへの幻想を動力として行為に至るが、まさにその遂行の過程で恋人たちは慈しみ深く自己犠牲的な愛への不時着に失敗し、自己中心的な所有欲たる性行為に墜落する。「愛」とは恋愛のことばかりではない。セックスなき愛を考えるならば、一方的に他人に対して親切にすることは可能だ。また、愛なきセックスについても同様だ。セックスワーカーにお金を払って肉体的な快楽だけを得ることはできるし、一方でジジェクは、つかの間の情事よりもパートナーとの愛情のないキスのほうが不潔であるとも語る。

この所有欲としての性行為を社会学者の宮台真司はフェチ系コントロール系セックスと言い表す。これは行為の当事者のどちらか一方が主導権を握り、特定の性的指向を偏重して一方的に快楽を得るものだという。宮台はそれに対比させて、当事者同士が変性意識状態で相手に感情や身体を委ね合いながら、自他未分の状態で快楽を分かち合うダイヴ系フュージョン系というものを推奨する。より具体的には、AV監督二村ヒトシとの対談の中で宮台は「女は潮吹きよりハグが好き」という言い方で、目に見える具体的な結果を望む前者の性交観を貶める4

『三月の5日間』はその劇的なセックスをアートに昇華されたポルノとして上演したりはしなかった。その仕事は、彼と同時代の劇作家三浦大輔が半ば担った。岡田の本質は別のところにある。私が問題にしているのは、それがどうしてそう何日も、30回近くも、お互いの失望や落胆を回避しながら続いたかということだ。宮台の言葉を使えばその30回はダイヴ系フュージョン系のそれだったと言えるかもしれない。岡田の演劇はフュージョン系セックスのためのリテラシーを言葉で紡いだのではなかったか。

「それでね俺、偉いなって思ったんだけど、すぐ隣で寝てるんだよ、でも俺、触んなかったからね。ほんっとに、誰だっけ状態のときは俺、すぐ隣っていうか、同じことでベッドの寝てんだよ、女が、隣、すぐここだよ(…)ちゃんと「あ、この女、そうだ、思い出した」って、ちゃんとなってから、俺、触りに行こうとした5

ここには当時の作家としての岡田の特徴がいくつも散りばめられている。発話は口語的で自然だが、情報伝達の機能としては要領が悪く、言葉は少し子どもっぽく、同じことを何度も話し、結論もとりとめがない。

渋谷のラブホテルに泊まっていた二人は、途中でホテルの近くのカレー屋でインドカレーを食べて、まるでそのライブハウスで出会ったところから日常とは別の時間が流れ始めたことに対して「旅行」に来たみたいだと話す。

認知科学における意識の研究に「見当識」という考え方がある。これは私たちが自分が誰で、今がいつで、どこにいるのかということへの自覚のことだ。これは睡眠のたびにリセットされ、覚醒するたびに新しく作り直される。夢の知覚状態において見当識と近時記憶が曖昧になるため、目が覚めたばかりの状態で、私たちはしばしばまどろみの中で見当識を見失いやすい。それを失わないでいられるのは、私たちが自宅に定住し、毎日同じ場所で寝起きしているからだ。つまり、旅行に出かけ、いつもと違う場所で目覚めると私たちは、一瞬自分が置かれた状況を忘れてしまう。

レム睡眠をもっとも頻繁に見るのは胎児だ。見当識を失った状態はある意味、胎児にかえった状態と言えるかもしれない。生まれたばかりの赤ん坊は周囲の状況を、言葉を覚えることで認識できるようになる。

チェルフィッチュの俳優のもぞもぞとした煮え切らない動き、下を見ながら相手に話しかけようとするだらしない仕草はまるで、水の中で溺れる人のようにも見えるし、寝返りのようにも見える。私たちは眠るたびに見当識を喪失し、言葉の秩序が確立される前の世界にに連れ戻される。仮にこれを寝相身体とでも呼ぶことにしよう。それはまだ言葉を知らない赤ん坊の身振りだ。

今ここで、当時のチェルフィッチュの演劇は胎児のようだという話をしようとしている。しかし、それは必ずしも幼児退行趣味の話ではない。俳優たちが胎児のようになるのは、彼らが「事件」について語るからだ。「事件」とは、前章で触れたように私たちがそれまで信じてきた枠組みの再構築を要請する破壊的な出来事でもある。まだ名前の付いていない前代未聞の出来事に、説明をつけようとする試行錯誤、その身振りにチェルフィッチュの劇はある。俳優たちはその「事件」に適切な言葉を探し、もがき、胎児が言葉を覚えるように新しい秩序を立て直そうとする。

岡田が書こうとしているのは、まだ適切なシニフィアンを持たない出来事に向かって、適切な言葉のプロトタイプをいかに投げかけるかについての演劇だ。「あ、この女、そうだ、思い出した」というセリフは彼の態度を明示している。男は女の名前を呼ばないし、例えば「昨日ライブハウスで遭った女」という名詞化さえしない。相手が誰であるかはわかっている、わかっていれば名前はいらない、というのが彼の態度だ。そして、それは接触の前の身振りとして語られる。言語、あるいはその支えとなる認知が「触れる」前の儀式になる。それは「触れる」ことがときに、暴力になるからだ。意味を通して触れることで、私たちの接触は暴力行為から逃れている。岡田の言語感はこうして教育的に機能する。

またこの劇は、一人に一つの役が振られているわけではないし、俳優のモノローグばかりで構成されているわけでもない。一方で、それもいい加減な構成ではない。言語外での身体の向き、例えばどの俳優が誰に向かって話しているのか、他の俳優なのか、観客なのかということはかなり意識的にコントロールされている。岡田が関心を持っているのは、言葉の前で成り立つコミュニケーションと、そこで言葉が立ち上がる瞬間そのものだ。また、役という点でそれは、一人一役という名前がないことも特徴的だ。役者一人に役割の責任を固定することのない自他未分の寝相身体はこうして作られた。

まとめよう。岡田の劇は人間が言葉を持たないときに、言葉を覚えるその瞬間にどのように人と関わるのかを問題にしている。そして演劇を通じてそれをある程度文法化しようとした。それは宮台の言うダイヴ系フュージョン系の身振りの文法化ではなかっただろうか。『三月の5日間』はセックスを描いたポルノではない。

「もうほんと分かんないくらいの回数セックスしたうちの何回目かが終わった後で天井とか見て並んで寝て話したりするじゃないですか。「や、たぶん俺の読みなんだけど、たぶん三日後、俺らホテル出てそれぞれの生活にまあ戻るかな、みたいな、でもそのときって(…)おそらくもう戦争終わってるんじゃないかなと思うんだよね、甘いかなー6

行為が終わった後、私たちは何を話すのか。次の話題に移ろう。

3、感情教育と「事件」の再開

結論から言えば彼らは甘かった。実際にイラク戦争はその年の5月まで続いたし、それもアメリカによる一方的な終結宣言で終わったに過ぎなかったので、イラクと周辺国は紛争状態に陥り、2011年には後任のオバマ大統領が新ためて終戦を告げなければならなかった。『三月の5日間』。2003年3月、渋谷街頭の大型ヴィジョンは「バグダッド巡航ミサイル限定空爆開始」の字幕ニュースを映し出す。ディズニーストアのショウウィンドウにデモ行進の中心部隊が、イスラエルに虐殺されたアラヴ人の無残な姿を映した報道写真を見せびらかす。急いで店員が駆け込んできて、泣きながら彼らを制すると「あなたが泣いても子供の命は助かりません」と追い返される。

ラブホテルで5日間を過ごした彼と彼女とが楽観的な思考ができたのは、彼らが過ごしたホテルに窓がなかったからだ。そこにテレビはあったが、二人はニュースを見ないことに決めた。これを単なる現実逃避以外の方法で解釈していきたい。

例えば、先述した宮台は、岡田のダイナミックな作品構造同様に、性の話を政治に敷衍させる。

「リベラルな制度ができるのは心がリベラルになったからじゃなく座席に余裕があるからだ。グローバル化で座席がなくなれば叩き出しあいが始まり、克服したはずの差別が復活する。

現実にローティが20年異様前に予告した通りになりました。じゃあリベラルな制度ではなく、感情の働きを陶冶・涵養しろと言っていました。彼は「感情教育」をしろと言っています。7

宮台は物語の受容によって感受性、他者への共感力の滋養を謳ったローティの理論を身体に延長させる。岡田が描いたラブホテルは、そうした「感情教育」の場ではなかったか。

『三月の5日間』は当事者たちのその後の生活を変えるような出来事にはならなかった。その恋は結婚に至らず、革命もイノベーションも起こさなかった。彼らが結婚できないのは、お互いの名前も連絡先も知らないからだ。岡田は人物と責任とを描かず、状況だけを抽出した。彼の言葉で言うならそこに「いつまでもそしてこれからも」はなく「これからもそしていつまでも」もなかった。

その代わりに彼は、それを観光旅行のように扱い、劇場に閉じ込め、戯曲にして、小説にして、後から古典と呼んだ。岡田が「現在地」以降、オーソドックスなドラマというものを志向し始めるのは、彼が劇場を信じる作家だからではないだろうか。

『三月の5日間』は岡田が2003年3月に六本木のスーパー・デラックスで鑑賞しモントリオールのアーティストJacob Wrenの”Unreharsed Beauty”という即興劇に着想を得ている。彼にとってそれは「カニのスープ」だった。

「僕はこの体験にインスパイアされた演劇をつくることにした。(…)あのパフォーマンスを見ていた時に、そして見終わってからもしばらく続いた火照った状態の中で僕が感じた気分。その演劇を見てからまもなく実際にイラク戦争が開戦して、だからといって僕の日常に特に変化があるというわけではなく、平日の昼間は派遣社員の仕事を普通にこなし、夜は芝居見たり映画見たりして、でもその一方でそんなふうに何にも変わらない生活を送っているという事実に対して感じる何かモヤモヤとしたのものが自分の中に常に存在してもいるという感じ。そうしたものを記録しておきたいという欲望が生じた。8

彼にとって、それが事件だったのは「イラク戦争」という社会現象がとても自然な形で生活に侵入したからだった。

「そんなふうに意識しなくても社会性が入り込んでくるということって、往往にして起こる。この僕に往往にして起こる、ということではない。つくり手全般に対して起こりうるものだということだ。そうしたことが起こるのは、本当にただの偶然で、そして僕の場合、それはこのときに起こった。今後またああいうことが僕に起きるかどうかはわからない。いや、わからないというか、たぶんもう起きないだろう。僕はあの頃とは違って社会性のことをどうしても(…)意識するようになってしまっているからだ。9

2017年12月から公演が始まる『三月の5日間』のリ・クリエーションは劇団員ではなく、オーディションで集めた24歳以下の俳優が出演する。岡田は出演者の募集に際して、これを現代の世界・社会で上演するのに「どうしても若さ–それも、思い切った若さ!ー(…)が不可欠だ」とコメントを寄せた。彼は、若者の純真さやみずみずしさを礼賛しているのではない。

映像による記録ではなく、演劇の再演こそが「事件」の複製にもっとも相応しいのかもしれない。なぜなら繰り返し上演を重ねたとしても、それをいちいち真新しい出来事のように演じる技術が俳優には求められるからだ。その担い手が経験の浅い若さでなければ、この上演は危険なものにならないだろう。もうすぐ始まるこの「事件」の再演こそが、きっと岡田の、そしてチェルフィッチュの新しい「感情教育」の実践となるはずだ。

1スラヴォイ・ジジェク「事件!」鈴木晶訳、河出ブックス、2015

2青年団ウェブサイト 青年団とは|現代口語演劇 http://www.seinendan.org/about/style

3注1

4『どうすれば愛し合えるのか』宮台真司、二村ヒトシ、KKベストセラーズ、2017

5『三月の5日間』岡田利規、白水社、2005

6注5

7注4

8『遡行 変形していくための演劇論』岡田利規、河出書房、2013

9注8

文字数:8102

課題提出者一覧