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21世紀初頭、もげる首

1、身体論:もげる首

これは昨年、位置情報ゲームアプリ「ポケモンGO」が配信された直後にネット上に流れた一枚の風刺画で、ポーランド人アーティストPawel Kuczinskiの「control」という作品だ。Kuczinskiは他にも人混みの上にアルファベットのF字型の船を浮かべて釣りをする人影を描いた「fishing」、巨大なスマートフォンからアプリケーションのアイコンを摘出する外科医のイラスト「surgery」などの作品を残しているが、とりわけこの「control」は私には異色の出来であるように思える。それは、つい数年前に私が首を痛めて体調を崩したからかもしれない。

個人的な話になるが、数年前に一度、仕事中に突然倒れたことがある。首の筋肉が腫れ上がって締まって、その場で立っていられなくなり、片言しか口がきけなくなった。意識はあったが立って歩くのが困難だったので、上司に救急車を呼んでもらい、最寄りの総合病院に運ばれた。他に患者が一人もいないだだっ広い処置室に、宿直医と2、3人の看護師がやってきて、血液を採取し、心電図を計り、別室でレントゲンを撮影してから、一通りの検査結果を確認した後、彼らは私のどこにも異状はないと診断した。その日は祝日の夜で連休の最終日だった。宿直医は苛立ち気味に、あなたはまだ若いんだから大した病気ではないと言って、こんなことで救急車を呼ぶな、とほのめかした。仕方がないので、栄養剤の点滴を打って少し休んだ後、支払いを済ませて病院を後にした。それからしばらく、仕事以外の時間は首を温めて寝転んで休んだり、マッサージや整体を受けたりして対処した。しばらくして、つい最近手に取った本1でこの病気の名前を知った。頚性神経筋肉症候群というらしい。

著者の松井によれば、頸性神経筋症候群、いわゆる首コリは襟足の生え際から首の両側、肩甲骨の付け根あたりまでの首の筋肉が凝って固まってしまう病気で、めまい、自律神経失調、パニック障害、うつ症状、頚椎捻挫など20近くの症状の原因になる。症状のカバー範囲が内科や整形外科、精神科にも及ぶため、診察を受けても原因不明やストレス、疲労が原因として帰されることが多いらしいが、状態によっては入院や深刻な、脳神経、自律神経の病に至るケースも珍しくない。首を温めたり、日常的なストレッチで対処するのが望ましいという。驚くべきはつい最近名前がついたばかりのこの病気を現在、日本人の90パーセント以上が、症状の大小の差はあれ、発症しているらしいということだ。首を下に傾ける時間が長いこと、つまり、日常生活に占めるスマートフォンやパソコン操作に占める時間が延びていることがこの病気の原因だ。Kuczinskiの風刺画がとりわけ優れているように思えたのは、この絵がピカチュウのようなヴァーチャルなキャラクターが私たちを支配しているという寓意を伝えるだけでなく、伸びきって折れ曲がった形の首はいかにも不健康そうで不気味だからだ。

確かに今でもこうして何時間もパソコンの画面に向かってああでもない、こうでもないと頭をひねって文章を書いていると首の筋肉が固まって痛みが走ることがある。このまま画面という画面に囲まれた生活を続ければ、いつか私の首はぽっきり折れて、頭と胴体が分離してしまうかもしれない。

疲れて馬鹿げた妄想を繰り広げる私の頭に一つの連想がよぎった。それは、ジョルジュ・バタイユが中心になって発行していた雑誌『無頭人(アセファル)』(1936-39)の頭を持たない人体の挿絵だ。それは頭部を持たず、右手に何かの植物を、左手に短刀をかかげ、股間に髑髏の頭を付けて腸がむき出しになった成人男性のイラストだ。1930年代、ドイツでナチスが台頭しつつあるヨーロッパでバタイユはロジェ=カイヨワやピエール・クロソウスキーら同時代の文化人らと連れ立って、本誌を発行し、同名の秘密結社を組織した。彼らは、ナチスの全体主義に代表されるように、一つの理念によって統一される社会構造を単頭的(モノセファル)社会として批判し、ニーチェの超人思想を基盤としながら、欲望に身を焦がして非時間的状況、その場の瞬間的な破壊性と快楽のために生きる人間たちの共同体を理想郷として夢想した。彼らにとって、その共同体の規範はニーチェと古代ギリシャの神ディオニソスであり、理性に対して快楽の、頭に対して身体の優位を主張した。

21世紀になり、日用必需品から音楽、映像、書籍、ポルノまであらゆるものが、ときには仮想通貨やネットオークションといった貨幣制度の網目も潜って流通するようになった。ある意味で、バタイユの理想が実現しているのかもしれない。彼らが統一的な権力機構として想定した中央政府の管理を、具体的にはその法律を逃れる方法は確かにネットワーク社会の発展によってかなり実現された。バタイユが社会の頭として想定した政府機関は確かに20世紀以上に権力の範囲を限られるようになった。では、私たち個人の生活はどうだろうか。例えば、画面の操作にかまけて痛めたあの首の痛みが、本当にそのままちぎれてしまう前の痛みだとすれば、私たちはバタイユの理想郷に近づきつつある。あるいはもうそれを達成してしまっているかもしれない。

2、テアトロン:「Mr.Robot」1

VRからARへ、という文句なんて、もう聞き飽きた人のほうが多いだろう。しかし、そんな言葉が囁かれるようになったのはまだ、2010年代に入ってからだ。2ちゃんねるやmixiのような匿名性と集団的同調性の高いヴァーチャルコミュニティのネット文化をガラパゴスに発達させていた日本にも、FacebookInstagramのような実生活で個人をエンパワーメントするタイプのSNSツールが受け入れられるようになった。多くの人がネット上に自分の顔を晒し、実名を公開し、職場と言わずも、プライベートな付き合いなら自己紹介代わりに自分のSNSのアカウントを初対面の相手に教えることも少なくなくなった。

自動運転車、ウェアラブル機器、3Dプリンター、大規模公開のオンライン講座、AirbnbUberBitcoinを始めとする仮想通貨のサービス、行政システムでのIoTの導入と、私たちを取り巻く社会インフラはヴァーチャルなネットワークのシステムを積極的に取り入れ続けている。個人の好むと好まざるとにかかわらず、なんらかの経済活動やコミュニティへの所属のためには、それなしでの生活というのがほとんど不可避になりつつある。

アメリカのドラマシリーズ『Mr.Robot』(2015~)で描かれるのはそんな現代/近未来だ。「Facebookやってないなんて、いかれてるね」というセリフはちょっと極端だが、本作のリアリティを端的に表している。『Mr.Robot』の主人公エリオット・オルダーソンは昼はセキュリティ会社のプログラマー、夜は他人のパソコンに侵入し、ときには犯罪者の正体を暴くハッカーという二重生活者だ。第1シーズン全10話は、ハッカー集団f.societyのリーダーを務める謎の中年男Mr.Robotに彼が誘われ、金融や電気製品、日用必需品などを一手に取り扱う架空の巨大コングロマリット「E-コープ」の金融データベースを破壊する「革命」の模様が描かれる。

E-コープ」のモデルが、amazonFacebookGoogleのような収益一挙集中型のネットビジネスモデルを世界規模で成功させたIT巨大企業たちなら、f.societyは実在のハッカー集団「アノニマス」をモデルにしている。彼らがネットに流す映像に登場するキャラクターの仮面は「アノニマス」のメンバーが付けるガイ・フォークスの仮面に酷似しているし、彼らが企むテロ行為は「アノニマス」のDDos2攻撃に酷似している。

「アノニマス」は前述のように、コミックキャラクターの仮面を付けて、その実態や特定の目的を持たない文字通り匿名的な集団として活動しているが、『Mr.Robot』がこの実在の組織の匿名性を真似る様はもう少し入り組んでいる。

本作第1話のタイトルは「eps1.0_hellofriend.mov」。QuickTimeのファイル形式の名前がついた凝った題名は、まず最初にエリオットが画面の向こうの視聴者に話しかける「やあ、君」というセリフに由来している。エリオットが話しかけてくる視聴者、私たちは彼の空想として幽霊のように彼の生活に居合わせ、本作を鑑賞することになる。

 また話が進むと、エリオットをf.societyへと誘った謎の人物Mr.Robotの正体が亡くなった彼の父親であり、統合失調症を患っているエリオットの妄想でしかないことが後に明らかになる。Mr.Robotがエリオットを組織に引き込んだのと同じように、エリオットはドラマのリアリティに私たちを引き込む。劇中にはMr.Robotと口論するエリオットが傍目には一人で喋っているようにしか見えない描写がある。Mr.Robotとはエリオットなのだ。そのようにして、私たちもまたエリオット自身なのである。そして、実質、エリオットこそがf.societyの主催者でリーダーなのだ。彼の統合失調症という病理が組織を動かし、本作はこのキャラクターを使って、「アノニマス」というハッカー集団の匿名性を描き出す。画面はこうして私たちとエリオット、そしてf.societyを鏡のようにつなぐインターフェースとして機能する。こうしてこのフィクションは、パロディを通じて、「アノニマス」とは私たちなのだ、という劇を構築する。

 しかし、ハッカーとネット上のアカウントの間にあるパブリックを巡った関係性はそれほど単純ではない。第四の壁を破って登場人物が視聴者に語りかける映像演出は決して珍しくはない。ウディ・アレンだって、三谷幸喜が作り出した古畑任三郎だって、園子温『TOKYO TRIBE(2014)に登場するラッパーたちだって、同じことをする。ただコメディアンのアレンや、劇作家の三谷、そして園が取り上げたラッパーのパフォーマンスはステージアクトの延長線上にあるパフォーマンスだ。

Theaterの語源であるテアトロンというギリシャ語は元々、舞台ではなく客席を意味していた。アテネのアクロポリス遺跡の南にある野外劇場は舞台の向こうに古代の都市が一望できるように設計されていた。舞台は、都市とそこで行われる政治を一望するためのインターフェースだった。

現代の「舞台」の話をしよう。現代における公共空間としてのインターフェースはテレビやコンピュータの画面だ、と言って異論を唱える人はそれほど多くないだろう。パキスタン系イギリス人俳優リズ・アーメッドは、イギリスの公共放送チャンネル4制作の番組で同国の国会議員に向けて語ったスピーチで、彼はマイノリティが画面の中に登場することの重要性を語っている3。物語芸術において俳優は間接民主政治の政治家と同じ役割を果たす。例えばパキスタン系である彼が英語圏の作品に出演することで、彼の演じる役が英語圏におけるパキスタン系の役割の一つのモデルを提示する。

では、エリオットは誰の代表だろうか。彼を演じる俳優のラミ・マレックはエジプト系アメリカ人だ。アジアでも西洋でもアフリカでもあり、そのどれでもない彼のオリエンタルな顔立ちは、彼の統合失調症による人格分裂とともに「アノニマス」なハッカーというキャラクターの代理表象(represent)を助ける。

 エリオットは上司や友人の、メールやSNSのアカウントをハックし、時にはそれを辿って友人たちを苦しめている悪人を見つけ出す。善良な妻帯者のふりをした、出会い系サイトで偽名を使って浮気を繰り返す男、カフェの経営者を装った児童ポルノの卸業者、SNSに隠語で商売の記録をアップしているドラッグディーラー。誰しもに「裏の顔」がある。しかし、それは必ずしも表と裏というような二層構造ではない点に注目したい。むしろ演じ分けられる複数の役割に近い。例えば複数のSNSのアカウントによって、複数の口座によって、複数の身分証明書によってそれが同一人物のものだとばれては法的に、社会倫理的に、他者からの信頼的に不味い役割同士を多くの人が持ち、それを使い分けて生活している。

 エリオットというキャラクターは欲望のままに振る舞う「悪い顔」と社会に順応する「良い顔」を持った複数の顔を持つグローバル社会の生活者の代弁者というわけではない。彼の持つハッカーというキャラクターはもう少し複雑で、別の審級を必要とする。つまり、エリオットがハッカーだからと言って、「ハッカー」という裏アカウントがあるわけではないのだ。以下では「別アカ」というのではない、ドラマの中の革命家としてのアノニマスなハッカーについて論じる。その前置きとして、再び「アセファル」に話を戻そう。

3、弾ける顔:「Mr.Robot」2

 バタイユの「無頭人(アセファル)」的な理想郷は現代においてある程度実現されたのではないだろうか。私たちの消費活動を助けるために大いにテクノロジーは発達した。機能に特化した技術が社会に偏在し、一神教の神は確かに死んだように見えるかもしれない。しかし、バタイユはレッシグが唱える環境管理型の、アーキテクチャの権力のようなものを決して想定しなかっただろう。私たちの欲望を誘導し、現物を与え、欲求を満たし、エコーチェンバーの中に閉じ込めるシステマティックな権力のあり方を想定しなかった。ここで一度、バタイユが想定していた「ニーチェの超人」というのをどういうものだったか問い直す必要がある。バタイユは、この自身の理想のパロディのような、欲動のままに誘導され、構造的な権力の奴隷になる意志の薄弱な非超人の無頭的(アセファル)な身体が溢れかえた現状をどう分析するだろうか。ネット上で、Facebookのように顔と名前を晒してパブリックに活動するのと同じ個人が、もう一方では匿名でポルノを漁り、他人のプライヴェートに侵入し、違法なアップロードやダウンロードに参加している。前者では規範的な公人として振る舞える個人が、後者では欲望のままに反射的に行動してしまう。

 例えば、リベンジポルノのような社会現象を、首のもげた無頭的身体の逆襲劇として想定できないだろうか。例えばそれは2013年に三鷹市で起きたストーカー殺人事件が発端となり、翌年にはリベンジポルノ被害防止法が成立した。そこでは、携帯電話が撮影機器であると同時に通信機器であることが、例えばリュミエール兄弟のシネマトグラフがエジソンのキネトスコープに勝利したときと同じように、欲望を爆発的に伝染させる。撮影と移動と上映と発信が可能な動画複製装置としてあまりにも進歩しすぎた私たちの電話は欲望の有能な手先となりすぎ、最終的には主人を支配する召使となる。SNSの上に私たちが自分の顔を晒し、それを名刺のように使うようになった社会でそれは、一層深刻な問題となるだろう。私たちが意図的にネットワーク上に晒すのは自分の顔と名前であり、意図せず晒されて困るのが身体のほうである。あるいはプロフィール画像とは別に、意図せず画面に映り込み、他人に晒されてしまう「顔」というのを肉体のカテゴリーとして定義し直したほうが良さそうだ。

 パブリックとプライベートの区別は一層難しくなりつつある、カメラに映ったプライベートポルノの裸体もそれを厳密に「プライベート」と呼ぶことは難しいかもしれない。それは恋人かそれに類する撮影者に向かって、あるいは鏡のような自撮りのカメラに向かって演じられた一つの役割にすぎない。別々の場所で演じられた役割が乱暴に一つの人格のもとに接続され、晒される恐怖が今日のネットワークには生まれてしまった。それは、ネットワークが私たち以上に私たちの個人情報を知っていることについての問題だ。

 この点で『Mr.Robot』が国家権力の支配ではなく私企業の支配に対する革命を描いた点を評価すべきだ。サービスを提供し、金銭の収益システムを構築し、私たちの欲望を規定し、誘導しているのはどれも企業なのだ。革命によって打ち壊すべきは権力を行使する国家権力ではなく、企業がばらばらに提供するアーキテクチャなのだ。

 ただし、『Mr.Robot』の欠点は2つある。一つは、革命を別のより優れたシステムを作るのではなく、アーキテクチャ自体を壊すLibertyとしての解放的な自由しか描けなかった点だ。

 「革命=解放」でしかないという特質は本作の行き詰まりでもあると同時に、一貫したテーマでもある。それが本作のハッカー像に表れるからだ。エリオットが裏の顔になるとき、彼は「ハッカーのアカウントに切り替える」のではなく、モルヒネの過剰摂取によって自己を破壊する。「モルヒネは判断力を鈍らせる」というセリフにその意味が現れている。どちらのアカウントを選ぶかではなく、革命=ハッキングは判断の放棄によって初めて開始される。ルーティーンのルールを破り、心身の一貫性を撹乱し、意識の分裂状態で新しい秩序の生成に向かう。破壊と悪夢によって身体がばらばらになる恐怖に襲われ、意識の生成の場を作り直すところからそれは始まる。

 エリオットが協力を要請した中国のハッカー「ホワイトローズ」は彼に「ハッカーは執着するもの。私は時間に、あなたは他人に」と言葉を残す。ハッカーはなぜ執着するのか。それはハッカーの革命がルールを失うところから始まるからだ。

 「革命」つまりE-コープの金融データ管理のサーバー攻撃は9話と10話の間に達成され、エリオットがそのときのことを覚えていないという形で劇中では描かれない。エリオットはこの「革命」に熱狂する市民が埋め尽くした摩天楼を彼の分身たるMr.Robotの幻覚とともに彷徨い歩く。幻覚を消そうとするエリオットに、幻の父が反撃を加える。

「じゃあお前は、この世界はどうだ。見てみろ。見ろよ。この世界の礎は幻想なの さ。薬で合成され生まれる感情、広告という形で行われる心理戦争、心を乱す成分 が配合された食料、人々を洗脳し続けるメディア、SNS上で狙いを持って作られる 虚構、本物はなんなのか知りたいか。21世紀を迎えて以来、そんなものは姿を消 した。電源が落とされたのさ。遺伝子組換え食品を貪り食べカスをかつてないほど 大きくなった人間性のゴミ箱に放り投げる。人々が暮らして居る家を建てた企業な んてのはモニター上で上下する数字によって築き上げられたくせに、人々を操って る。人類は眠らされてるんだよ。よっぽど覚まさなきゃ無理だ。本物になんて会え ない。ここはデタラメの王国なんだ。そこにずっと暮らしてたお前に俺のことをニ セモノなんて言わせないぞ。ビッグマックに入ってる牛によりはマシ、少なくとも お前には俺は本物さ。」

 幻覚という古典的なテーマが画面とネットワークに支配された現代社会に、このドラマを通じて回帰する。それは画面の向こうの代理表象として私たちを手を替え品を替え誘導する。それがあまりにも多様であるので、私たちは自分の身体がバラバラにされる恐怖に晒される。本物を得るために自分の身体を破壊して成し遂げた革命は何ももたらさず、エリオットはまた自分が従うべきルールを模索する。ではどうしたらいいのか。以下では、一つの解決策について考えたい。

 

3、オルタナティブとしての中国から首をつっこむ

 『Mr.Robot』のもう一つの欠点は革命によって滅ぼすべき権力を単一の企業として描いた点だ。E-コープのモデルはamazonであり、Facebookであり、Googleでもある。どれか一つではなく、偏在していることこそが厄介な問題なのだ。それを一つの古典的な単頭的(モノセファル)権力機構として描くことができればことは単純になる。

 中国を旅行したことがある人なら、そこではGoogleYouTubeFacebookTwitterも、もちろんニコニコ動画も2ちゃんねるも使えないことを知っているはずだ。そこで、2017年のKYOTO EXPERIMENTで上演された北京で活動する劇作家、演出家、批評家スン・シャオシンの「Here Is the Message You Asked For…Don`t Tell Anyone Else;-)」は中国のアーティストが現在の日本できる最大限知的な試みだと感じた。

 客席の前半分と地続きの舞台上が、後ろの客に見えるように1面が開かれた巨大なレースカーテンが囲まれた会場、舞台上には3つの2段ベッドと7人の出演者がおり、それはどれも「コピーガールズ」と呼ばれる若い女性で、彼女たちは日本のアニメやゲームキャラクターの格好をしている。各部屋にはインターネットにつながったパソコンがあり、彼女たちの見ている画面の様子がそれぞれの部屋のレースカーテンに投影される。ニコニコ動画でアイドルのライブ映像を見ていたり、カメラを自分に向けてライブ中継をしていたり、ソーシャルゲームをしていたり、それぞれに担当があるようだ。開演中は彼女たちがだらだらと部屋の中で過ごしたり、お互いの部屋に移動したり、客の前で何かのポーズをするだけで終盤までほとんどなにも怒らない。内3人の出演者は電子楽器のバンドのようで、上演中は演奏をしたりしなかったりする。

 演目の終盤でバンド以外の出演者がお菓子を配ったり、自己紹介をしたりして観客と交流を始め、バンドは演奏を続け、客席の前半分がカーテンの中に閉じ込められる。女の子たちは最後にシャボン玉を飛ばし、ぬいぐるみを客に配り、客席での撮影会を開始する。

 また、観客は会場に入るときに、ラインのアカウントを渡され、そのアカウントを友達に追加するとグループに正体される。客席の一部のスタッフは上演中に舞台上の様子を撮影し、そのグループに写真やコメントを流す。観客も同時にそれに参加し、ライングループのタイムラインにはニコニコ動画のコメントのように言葉や写真が流れていく。

 ぬいぐるみに関して。当日パンフレットにアーティスト側からの注釈がある。

「それとフロム中国の海賊版コロモン、フシギダネ、殺せんせーたち、日本に来るために仕方なく道具を装った。真空収納袋の中でジャム状にべちゃーんと潰され、荷物に紛れて税関を通過し、青ざめた顔色で、まるで難民のようにこの劇場に上陸した。」

 中国ではアニメや芸能をはじめとしたたくさんの日本由来のコンテンツが流通している。同国内では、VPNというパブリックなネットッワーク上に架空のプライヴェートネットワークを築くという抜け穴サービスが流通しており、政府もこれを黙認している。本作は、中国で日本のカルチャーを享受する若い女の子たちのヴァーチャルなプライヴェート空間をアナログな上演形態で上演したものだった。

 本作の初演は上海だが、日本での上演でよりその真価を発揮したのではないだろうか。異国にこの巨大な舞台空間を寝室として持ち込むことは、そのままVPNの比喩になっている。ネットワーク上の自由を制限された中国で、その中国という国の中でのパブリックな回線にどう住まうかということがここでは実践されている。とりわけ感動的なのは、演奏がランダムに始まったり、終わったりする点だ。舞台上の動きは常に緩慢でだらだらしている。音楽もいつ始まってもいつ終わってもいいといったふうで、それは退屈と言えばそうだが、だんだんそのだらしない大らかさが心地よくなる。

 本作は、2ちゃんねるやmixiのようにゼロ年代に日本で流行した集団主義のネットコミュニティがここでは逆輸入されているように見える。それはアナクロな回顧としてではなく、アメリカ式の実生活と結びついたAR式のネット空間への対抗にも見える点を評価したい。拡張現実とは実際のところ、現実がヴァーチャルに拡張しているのではなく、現実をデータ化、数値化することによってヴァーチャルが現実を侵食しているといったほうが適切なのではないだろうか。例えば、デイヴ・エガースの小説『ザ・サークル』(2014)はFacebookをモデルにしたIT企業の従業員がすべての実生活をネットに中継し、プライヴェートというものが悪として阻害されるディストピアを描いた。

 シャオシンの劇に登場するアマチュアハッカーのような女の子たちはいかにネット上でプライヴェートを守り、パブリックと折り合うかということを模索、提案しているようにも見える。ヴァーチャルに侵食された現実に、プラーヴェートなヴァーチャルを構築し直して住まうことが重要なのだ。劇場はそれを提案する巨大な寝室となる。

 本作の舞台上にあるベッドルームの一つの壁には、盗作疑惑によって使用を中止された2020年東京五輪のエンブレムがかかっている。シャオシンはポストパフォーマンストークで、「このエンブレムを私はパクリだと思っていない。そもそも中国では著作権というものがどんどんなくなる傾向にある」と話した。

 ハッカー集団「アノニマス」は動画サイトに投稿された違法アップロード動画の削除を求める企業へのハッキングによって有名になった。2011年にはソニーの「プレイステーション・ネットワーク」にも攻撃を仕掛け、「情報の自由」の理念を様々に行使してきた。

 劇の終盤で、前側のレースカーテンの中に閉じこめられた私は、コピーガールズたちが客席のほうに行ってしまった後、他の客に続いて後ろを振り返り、カーテンの外に首を突っ込んだ。シャオシンが言うには、中国の観客は日本人よりももっと積極的に動き回って劇を観たり、動画を撮影したり、舞台上に上がったりするのだという。また、彼は中国による統制の比喩としてこのカーテンを使ったとし、劇場の外にも別のカーテンはあるのか、と観客に問いを投げかけた。私の足元に、コピーガールズたちが投げたぬいぐるみが転がった。その一つは彼女たちが寝室から持ち出した偽物のピカチュウだった。このピカチュウのぬいぐるみを首の上から降ろし、寝室に並べてごろんと寝転び、首を休めるところから私たちをとりまくネットワーク環境との付き合い方についてあらためて考え始めたい。

1松井孝嘉「体の病気も心の病気も首で治る」サンマーク出版、2011

2ハッキングによって、企業や政府機関のデータベースサーバーをダウンさせるテロ行為。

3攻殻機動隊からセサミ・ストリートまで、海外エンタメのキーワード「レプリゼンテーション(representation)」とは何か https://www.fuze.dj/2017/04/representation.html

文字数:10890

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