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映像・夢・睡眠・大きな寝室;大人は一人で眠らない

 それは1895年ごろ世界で初めての映像メディア(メディウム)として誕生した。そして1920年ごろまでには、映画として日本を含む多くの国々で娯楽産業としての地位を確立した。フランスで誕生した発明を讃える当時の新聞見出しは、その欲望をすでに知っていた1。その後も、哲学者、美術史家、映画監督、映画批評家らが、発明当初からこのメディア(メディウム)に込められていたある共通の期待を語り継いだ。その一つを引用する。

 もし造形芸術に精神分析を適用したならば、死体に防腐処理を施す習慣が、造形 芸術の誕生 の重要な契機とみなされるかもしれない。…古代エジプトの最初の彫像、それは天然ソーダ に漬けて石化させた人間のミイラだった。

 1950年代、アンドレ・バザンの「映画とは何か」2は死体に複製のイメージを読むところから始まる。彼はアンドレ・マルローの理念を引用しながら、エジプトのミイラに、そしてルネサンスの巨匠が死体を解剖してその基礎を築いた絵画と彫刻のリアリズムに映画の起源を仮定した。

 バザンによると、バロック絵画にいたるまでの西洋美術史は、表象に不変の意味を見出そうとする象徴主義と、自然の形態を可能な限り写実的に再現しようとするリアリズムのせめぎ合いとして展開した。エジプトの王墓には、宗教と造形物の両方があった。

 象徴主義は宗教に端を発し、人間の心理的な側面を複製しようとした。一方、造形製作の欲望は、やがては老いて朽ちる肉体を時間から解放し、空間に定着させようとした。そして映画は肉体を時間の中に運動として複製するメディウムとして誕生した。のちにそれはモンタージュを通して、連想と作話という人間の精神の働きも複製するようになる。

 これは西洋美術史の話ではない。日本の映画史もまた、国内初撮影技師浅野四郎の『化け地蔵』『死人の蘇生』から始まった3。こうして映画は洋の東西を問わず、不死の欲望の乗り物となった。これは、どれも50年以上前の話だ。

 1950年代にはすでに、映画はテレビ放送に娯楽の中心的役割を明け渡していた。それからビデオカメラ、ビデオデッキ、パーソナルコンピューターとインターネット、スマートフォンといった電子機器の普及とともに私たちの生活と映像メディアの関係は劇的に変化した。リモコン、マウス、ビデオゲームのコントローラー、タッチペン、そして今日では画面自体を直接触れることができるタッチパネルを通じて、次々と画面に複雑な操作を加えることが可能になった。誰もが映像と音声を記録し、世界中に配信できる時代になった。今や、映像はほとんど誰にとってもその手で触って描き変えられる。

 では今日、映像の話をするときどんなアプローチが可能だろうか。映画館で上映される狭義の「映画」だけをたどって現代に関する何かしらの洞察を得ることはもはや、その可能性をごく狭い枠組みに閉じ込めてしまうにすぎない。一方、あらゆる映像を網羅的に扱い、そこになにかしらの共通点を見出そうとすることは大変な労力を要する割に、大雑把でとりとめのない結論を下すことしかできないかもしれない。

 そこで、以下では映画発明のときに遡り、そこに胚胎していたミイラ保存の欲望がどこにいったのか追いかけてみることにした。映画はなにを複製し、保存しようとしたのか。

 手始めに、現在進行形で複雑化する映像メディアの鑑賞体験をとりまく環境を3つの観点で分類する。まず1つ目を①意志の映像と呼ぶことにしよう。ここにはビデオゲーム、携帯ゲーム、チャンネルを変えることのできるテレビ画面、実用機器としてのパーソナルコンピューター、VRメディアを分類する。特徴は画面内の世界が画面の外にいる鑑賞者/プレイヤーによって操作可能であることだ。ここでは私たちの意識と行動、決断が画面の中にあるヴァーチャル空間、またはネットワークを通じたその向こうにある遠隔の現実に反映される。

 2つ目は②言葉の映像だ。ここには、企画のコンセプトと登場人物のセリフによって進行するテレビドラマや、プレゼンテーションやシンポジウムを記録した映像を分類する。ここで映像は従来のドキュメントの代わりとして扱われる。そこで私たちは、思考するための言語情報を収集し、獲得する。筋書きや印象的なフレーズによって展開するドラマは文学の延長線上にあり、シンポジウムやプレゼンテーションの記録映像、スライドショーは記事や論文の延長線上にある。

 3つ目は上記の2つからあぶれたものになる。これを③無意識の世界と呼ぶことにする。つまり、操作もできず、陳述可能な記憶、記録にもならない映像のことだ。私たちはこれに似た体験を映像が発明される前から頻繁に経験してきた。ここで試みるのは夢の知覚と映像体験の比較だ。本稿はこの3つ目の項目にミイラ保存の欲望の行き先をたどる。

 第1章では、この領域の定義付けを行う。夢と映画の比較に関する最も具体的な分析はおそらくクリスチャン・メッツによるもの4だろう。しかしここで試みるのは、映像の表象に対してフロイト的な象徴解釈を試みるものではない。本稿は夢の表象は解釈可能であるかもしれないが、その解釈が意味を成すのはその夢を見た当事者にとってだけであり、象徴を文法化することに意味はないという立場をとる。

 代わりにここでは、認知科学の見解に基づき、夢の知覚体験と映画の知覚体験を比べる。レム睡眠5状態で体験できる夢の知覚は、例えば椅子に座ったり寝転がった状態で一定時間を一つの場所に拘束され、眼球だけがきょろきょろと運動するといったような条件など、あるポイントまではよく似ている。そして、一部の映画はよりよく夢に似ているものもある。そこで映画が培った表現技法を取り上げ、夢に似ている映画とはどういったものかについて検討したい。

 なぜこんなことを調べる必要があるのか。認知科学者Jアラン・ホブソンは夢の機能について、「寝ている間に自分の反応をテストする」ためのテストプログラム、あるいは脳による情報処理のプロセスであると考察している6。私たちは情報を集めるだけでなく、それがどのような意味や機能を持つ情報なのか判断し、処理する必要がある。判断は必ずしも理性ばかりではなく、知覚や情動、とりわけ個人の「好み」と呼ばれるものによってもなされる。好みはどこからやってくるのだろうか。

 ホブソンの研究によれば、子宮の中で生まれる直前の胎児はほとんどレム睡眠のような状態で過ごす。赤ん坊が最もよく夢を見、睡眠時間は加齢に伴って減っていく。しかし、一方で高齢者になるとアルツハイマー病などの認知に関する病の発症によって覚醒状態で夢のような精神錯乱を体験するリスクが増えていく。ホブソンは、夢とは「心脳にやがて生じる老化や衰退という一種の精神錯乱を前もって体験している」とも定義している7

 あるいは、以下のような定義をすることができるかもしれない。夢とは記憶というデータベースからランダムに引きずり出された電気信号の幻覚である。記憶とはなにか。思い出すという行為のたびに再演される、脳全体に保存された知覚信号のパターンである8。映像とは音と光に関する記憶の模造品、あるいは誰かの記憶の複製品である。何のためにそれを見る必要があるのか。

 ホブソンは明晰夢を、精神病治療に役立つ一つ例として紹介する。明晰夢とは夢を見ていることに気がつきながら夢を見続けている状態のことである。それは夢を見ている状態で体験している知覚を、音や光や触覚を、注意深く観察しながら、覚醒しないように思考を少しずつ働かせることによって体験できる。ホブソンがここで想定している精神病とは覚醒したまま幻覚を見るような病のことだ。彼らは明晰夢を見る技法を養うことで、そうしてうまく、幻覚と付き合ってことができるとしている。

 第1章で試みるのは、映像を読むのでも操作するのでもなく、そこに映るものを観察し続ける鑑賞体験の定義付けである。幸いに、我が国には注意深い観察者による潤沢な批評の系譜がある9。本稿ではその姿勢に半ば習いながら、私たちが生まれる前に持っていた、あるいは亡くなる前に持ちうるであろう精神の形を明晰夢を見るようにして幻視することを試みる。

 ここで、3つの映像メディアの分類方法について付記したい。例えば、VRメディアを①に分類するといったが、これが何かのミッションをクリアする能動的な体験ではなくスイミングプールでの遊泳のようなものであれば③に近い10。②に関して。デヴィッド・リンチやキャリー・フクナガ、黒沢清といった監督、演出家は言語よりも視覚情報を重視したドラマシリーズの形式を実践している。こうした例は②の中でも③に近い要素となり、CMやミュージックビデオ、メディアアートではこの問題が一層複雑になる。そのため3つの分類は明確な区分ではなく、あくまで傾向的なものとして想定する。

 第2章では、第1章で定義した映画を見るための理想的な環境について思考していく。あまりにも多くの動画を見ることができるようになった現代において、一つの作品を最初から最後まで鑑賞することは映画館のような特別に用意された場所以外では難しくなった。一つの映像を最初から最後まで見るとはどういうことか。第1章で定義した映像の鑑賞体験は、非常に個人的で閉鎖的、マゾヒスティックな体験になりうることを指摘したい。そのため、映画館で他人と一緒に映画を見ること、あるいは他人と一緒に夢を見るという体験について考える。そしてそのために映画館は実際に理想的な環境であるのか、あるいは別の環境が理想的であるかどうかについても論じていく。

 また、そうした公共的な鑑賞空間でどのような映像をどのように鑑賞するのがよいのか。ここでは、知覚に特化した映像、そして歴史や特定の国やその場所の文化や歴史を扱った映像について取り上げ、他人と同じ夢を見るとはどういうことか、他人と見るべき夢とはどういうものかについて論じる。

 そして最後に、複数人が同じ夢として映像を鑑賞する理想的な環境として、共同の寝室というイメージを導入する。ここで不特定多数が、自分があるいはどこかの誰かが、生まれる前の、あるいは亡くなるときの走馬灯を目撃する。第2章の目的は、映像を見る環境の公共性について考察していくことだ。これは身体と建築の問題であり、デザインの問題である。

 第2章でも一部取り上げるタイの映像作家アピチャッポン・ウイーラセタクンはハリウッドで量産される娯楽映画をポルノに喩え、自身が目指す映画がセックスのようにコミュニケーティブなものであると対比した11

 本稿の副題「大人は一人で眠らない」はジョン・カサヴェテスの映画『ラヴ・ストリームス』(1983)に登場するセリフのもじりである。本作で、カサヴェテス自身が演じる作家ロバートは前妻から預かった息子とラスヴェガスに出かけるが「大人には夜、一緒に寝る相手が必要なんだ。言ってること、わかるよな12」と息子に言い残して、彼を車に放置し、夜の相手を探しに出かけていく。本作は、育児ができないどうしようもない大人の幼稚な孤独を描き出したメロドラマだが、本稿はこのセリフを同性愛者であるアピチャッポンの思想のもとで読み替えていく。

 共に同じ映画を見る他人とはどのようなものか。それは必ずしも異性である必要もなければ、恋人ほど親密である必要さえない。本稿では、同じ部屋で誰かと眠ることの機能とその余剰について、映像を通して思考する。その先に

1 

2アンドレ・バザン「映画とは何か」(1958-63,野崎歓、大原宣久、谷本道昭訳,2015,岩波書店)

3『映画検定公式ガイドブック』p.105

4クリスチャン・メッツ著「映画と精神分析」

5睡眠の種類は入眠時、レム睡眠、ノンレム睡眠の3つに分けられ、そのどの状態にあっても脳は夢を見ていると言われている。その中でもレム睡眠は記憶による夢の知覚効果が最も活発化する周期である。

6Jアランホブソン著「夢に迷う脳」

7同注6

8 http://www.cell.com/neuron/fulltext/S0896-6273(17)30467-1?_returnURL=http%3A%2F%2Flinkinghub.elsevier.com%2Fretrieve%2Fpii%2FS0896627317304671%3Fshowall%3Dtrue

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10 

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12 ジョン・カサヴェテス監督『ラヴ・ストリームス』(1987)より

“Listen, I`m a man…… I find it very hard to sleep alone”

第1章

1−1 モンタージュ再考

 「現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。われわれは、自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しかかかわりがないかのように、信じていない。映画を作るのはわれわれではなく、世界が悪質な映画のようにわれわれの前に出現するのだ。1

 映像メディアが「映画」というよりも「動画」としてずっと身近に私たちの生活に流通するようになった現在、「映画みたいな」という言葉は時に、フィクションのクリシェを指し示す比喩としてはたらく。私たちの日常に時折降りかかる自然災害や突発的なアクシデント、ロマンチックな恋愛といった非日常は、それが初めて体験することであっても、どこかシミューレションとして体験されることのほうがずっと多いのではないだろうか。私たちは漫画や映画、小説、アニメーションといったフィクションを通して、体験する前にその非日常の全体像を知っている。あるいは、私たちの身に直接降りかからないニュースについても同じことが言える。2001年の9・11テロも、イラク戦争も、2011年の東日本大震災も実際に体験した人よりもずっと、ニュースとして、肉体的な実感を伴わない映像の情報として伝わることのほうが多かったはずだ。そして、それは一部で、どこか既視感のあるパニック映画や戦争映画の1シーンとして、「悪質な映画」のように視聴者に伝達された。

 例えば、映像において的確なメッセージとほどよいリアリズム=説得力を持った文法というのはどこからやってきたのだろう。手の込んだ演出の施された誰かの結婚式から、国際テロ組織のリクルート映像まで、そこから「映画みたいだ」という印象を私たちが受けるとき、その「映画」とはどんなものを指しているのだろう。アンドレ・バザンによれば1938年ごろまでに映画の文法は整った2。トーキー映画発明以降、音声と動画を統御する演出方法が約10年ほどで整い、アメリカ式コメディ、ドタバタ喜劇、ミュージカル、ミステリ、ギャング映画、メロドラマ、ファンタジー、ホラー、西部劇など一通りの語りのスタイルがハリウッドに出揃うことになった。

 紛争地帯や爆弾テロのスペクタクルを語るために、劇映画のデジタル合成技術の発明を待つ必要はない。1898年、イギリスの映画製作者ジェームズ・ウィリアムスンは『中国宣教会襲撃』を自宅の庭で、ボーア戦争の記録映画をゴルフ場で撮影している3。映像が劇的なフェイクニュースを生み出すまで、リュミエールのシネマとグラフの発明から3年とかからなかった。

 情報を伝えるための映像としての様式の洗練は、視聴者にとってのリアリズム=説得力と、製作者が目指す意図の明確さのバランスの中で進行した。まずは、無声映画の歴史の中で1920年代ごろまでにモンタージュの技法を駆使して、明確なメッセージを伝える映像の歴史が組み上がる。その方法論はアメリカ4、フランス5、ソ連といった国の監督のもとで洗練され、とりわけエイゼンシュテインの「アトラクションのモンタージュ6」で一つの達成を迎えた。

 1927年、トーキー映画の放映が始まると、上記のバランスが再び揺れ動く。バザンは1930年代後半の動向について、「映像を信じる監督」と「リアリズムを信じる監督」という対比を用いた。モンタージュは「映像を信じ」、より虚構性の強い映像を志向する側の領分だった。

 「リアリズムを信じる」側はモンタージュを遠ざけた。パンフォーカス技法の洗練は、映画演出に、画面の奥行きを生かした空間設計を可能にした。映画の美学は、撮影された演劇に一歩歩み寄ることになった。このリアリズムはウェルズの『市民ケーン』(1941)で完成形に至る。

 そこでモンタージュの技法がそのまま廃れてしまうかというとそうではない。1960年代までにいくつかの大きな変化が訪れる。大戦中の映像記録やNagraに代表される同時録音装置の発明、ハリウッド映画が中心だったアメリカでのアートフィルムの流行などを背景に前述した二つの映像美学の傾向はより際立って分岐する。「映像を信じる」ものは映像・音声の断片化7傾向として、「リアリズムを信じる」ものは記録映画的傾向8として顕著になっていく。

 (第2章でこうした単純化は覆ることになるのだが)、ここでは一度、映像と音声の断片化傾向という演出に注目し、映画と夢の認知体験の類似性について思考してみたい。まず、映画館や自宅で一連の映像を鑑賞する場合、椅子かベッドに体を固定したまま眼球だけを動かして映像を鑑賞する状態が、睡眠中にレム睡眠を体験する場合と酷似していることは明白だ。

 ホブソンは夢の知覚における特徴を5つに分類している9。映像鑑賞と睡眠の状態を比べてみよう。例えば、鑑賞者は一連の映像作品においてシーンが切り替わる度に鑑賞者はそれが作品内の時間や場所がどこであるかということを解釈し直さなければいけない。また、それがスクリーンという平面に映された光の束であるという条件を一度、半ば無視してそこに現れる場所や人物、もの、動物を実物のように信じている。これらの点で、夢の5つの分類のうち3つに該当する。即ち、鑑賞者が目の前の映像を見ている自分が誰であるかということを保留にしている点、スクリーンに映像を幻視している点、作品世界に没入する点が、自分が幻覚を見ていることについて無自覚である点が失見当識、幻視、病識の欠如にあてはまる。

 残りの2つの要素、注意と近時記憶の欠如の比重は作品ごとに異なる。

 ここで、「映像を信じる監督」だったエイゼンシュテインと、ゴダールら映像と音声の断片化に努めた作家の差異について触れる。エイゼンシュテインにおける映像美学の洗練は、言葉を使わずに映像が明確にメッセージを伝える方法の洗練にあった。エイゼンシュテインの様式の確立が当時のロシアアヴァンギャルド芸術の発展と並行していたことを鑑みると、むしろこの方法は広告的と言ってよいだろう。端的に言えばエイゼンシュテインの美学はメッセージを単純化するためにあった。一方、ゴダールらの美学はそのメッセージを分散するためにあった。

 以下では、当時の映像と音声の分散化の傾向がより顕著に現れた例として、そして夢と映像鑑賞の接近例としてアラン・レネの『去年マリエンバートで』(1961)と森崎東の『ペコロスの母に会いに行く』(2013)を比較検討する。

1-2 夢の映画、認知症の映画

 屋敷の巨大な天井にはバロック風の装飾がちりばめられた楕円形の幾何学模様が施されている。ショットは切り替わり、今度は描かれた模様に床と壁の境目が一体化して眩暈を誘う迷路のような廊下。動かない被写体である建築、それも内部からのフェノメナルなものとしての建築を動き回るカメラ。ふらふらとその構造を具に眺めて回るところからこの映画は始まる。フランシス・セイリグ作曲のオーケストラ楽曲、連綿と途切れることのないオルガンの旋律が遊歩に重なり、「そしてまたー私は歩いている、またしてもこの廊下づたいに、広間から広間へ、長い回廊から回廊へ、この建物の中を10」とXのモノローグがぼそぼそとその後を追いかける。

 画面はゆっくりと暗転し、今度は椅子に座ったまま固まって動かなくなっている多数の人影が映る。まるで蝋人形のように固まった正装の男女。Xの台詞だけは繰り返し、聞こえ続ける。やがて彼らが舞台を見ているのだとわかる。会場の中では、俳優だけが口を動かし、話すことができる。しかし、俳優の表情もまた蝋人形のように冷たく固まっている。

 劇が終わる。観客は立ち上がって拍手を始める。画面の中にあるものが初めて音を立てる。音楽でもナレーションでもない音が響き渡る。被写体が突如、ぐっと立体感を獲得する。

 『去年マリエンバートで』(以下『マリエンバート』)のプロットはいくつかの解釈を可能にし、あらゆるショットが他のショットへとオープンに開かれたと奇妙なつくりをしている。台詞は次の台詞を規定せず、ショットも次のショットを規定しない。それどころか、音と映像は絶えずずれ続け、鑑賞者を困惑させる。この物語ろうとしながら、物語ることのない不安定なモンタージュはどのように可能になるか。なんのためにこんなことをするのか。

 主要な登場人物はX(男主人公)、A(女主人公)、MAの夫)の3人。舞台は巨大な屋敷とその庭園。Xは1年前にAとここ(マリエンバート)から彼女を連れ去る約束をしている。映画の中には3つの時間が展開する。①Xが話す1年前の時間。②XAが会話し、 XMがゲームをする現在の時間、③Aが見る未来の予知夢。モノクロ映画であるが、①②③の順で未来に向かって白く明るくなるように極端なコントラストがかかっている。

 冒頭の舞台のシーンの続きを見てみよう。客席は社交場と化し、来場客は談笑し始めるが、脈絡なく彼らの動きは一旦停止し、また談笑を再開し、また停止する。まるで誰かにリモコンで操作されているかのように。出力データの解析スピードが追いついていないディスプレイのように。

 音楽とナレーション、画面内の音と外の音、俳優の動きとカメラの動き、3つの時間を不用意に交差させるフラッシュバック。あらゆる音と映像がところどころでずれ続ける。先に確認した「ハリウッド映画の文法」に沿ってみれば、この映画は絶えずその文法のリアリティのどこかが、音と映像のモンタージュによって崩れている。しかし、重要なのは全く支離滅裂に全てが断絶しているわけではない点だ。カメラあるいは被写体の運動、ナレーション、音楽という時間要素を巧妙に、少なくともどのどれか一つは繋がり続けてリレーすることによって、一つの映像作品として一貫性を保っている。だからこそ、今映像が途切れた、音楽が途切れたという明確な一つ一つの違和感をいちいち観客に提示する。

 本作を鑑賞する観客の多くはそうした標を探しながら、物語の結末やカタルシスといったゴールを目指し、作品の全体像という地図のようなものを欲しがるはずだ。しかし、作品はその試みをはぐらかし続ける。細部に目と耳を凝らし続ける観客の注意深い態度を本稿では推奨する。ここでは、本作の細部に全体の物語を端的に示す標を探すような批評は試みない。細部に目をこらす。それを地図を描きながらゴールを目指す営みではなく、道なき海を泳ぐ遊泳方法として読み替えていくことが本稿の目的だ。

 『マリエンバート』は観客に注意の散漫さを促し、近時記憶の形成を困難にすることで映画を一層夢に似た認知体験に変える。『マリエンバート』が夢の知覚体験の映画だとすれば、『ペコロスの母に会いに行く』(2013)(以下、『ペコロス』)は認知症の知覚体験の映画だ。本作は母親の認知症介護を綴った同名の漫画エッセイを原作にしている。『ペコロス』との比較はロブグリエの衒学的なテキストを解読するよりも、この映像体験をいくらか身近なものにするだろう。

 以下、両作品の共通点を4つの観点から分析していく。本稿の目的は注意深い映像鑑賞、明晰夢的な映像鑑賞を志向するものである。それは映像の幻覚に酔いきらず、醒めきらず見続けるためのものだ。1つ目の観点では両作品が持つプロットの仕立ての類似性を確認する。これは両方ともある男(X/雄一)と過去を忘れる女(A/みつえ)の帳尻合わせの物語である。『マリエンバート』には3つの時間が並列的に画面に登場する。Xが語る過去を女が否定することで物語が展開する(あるいは展開しない)が、『ペコロス』では原作のエッセイ形式に則った7〜8つのエピソードの羅列という形で、作者岡野雄一の日記のように認知症の母と過ごす日常が描かれる。もう一つ展開上でよく似ているのが、『マリエンバート』がXAを彼女の夫Mのもとから連れ出そうとする話であり、『ペコロス』もまた雄一がみつえを彼女が認知症の症状の中で亡くなった夫に捕われ続けているように見える点である。つまり、このもう一人の男(M/みつえの夫)が象徴的に、女が捕われ続ける記憶の中の時間を擬人化しているのだ11

 2つ目の観点では、どのように彼女たちが捕われ続けているかを見ていこう。両者が映画は雄一と母みつえの主観を行き来することで、みつえの主観を描く部分では混乱し、雄一のパートで通常の時間進行を取り戻していく。

 序盤に登場するみつえとおれおれ詐欺のやりとりを扱ったシークエンスは印象的だ。電話がかかってきたみつえを映すショットは彼女の背後にはっきりと仏壇やメモが置かれたテーブル、ガラス戸などの部屋の風景を映しながら4回にショットを分けて映される。そうして彼女の意識が分裂させるかのようだ。みつえはあっけなくオレオレ詐欺に騙され、孫を名乗る男の言うがままに彼が巻き込まれたという交通事故の示談金を工面しようと椅子から立ち上がって家の中を彷徨うが、そこで本物の孫が帰宅し、彼とやりとりするうちに電話のことを忘れてしまう。再び電話がかかってきて、みつえの「オレって誰?」というセリフとともに、先ほどの詐欺のシーンがそっくりそのまま再演される。セリフの繰り返しによって、時間の反復を表すのも『マリエンバート』との重要な共通点だ。

 ここで注目したいのが森崎による建物の撮り方だ。『マリエンバート』と『ペコロス』の共通点は建物の全体像が一度も映らないことだ12。ここに登場するのは全て、その地図的な全体像を把握できない建物であり、人物の身体との関係の上でだけ現れ、人を囲い込むフェノメナルな建物でしかないのだ。そこで、先ほどの『ペコロス』オレオレ詐欺のシーンに注目すると、固定されたカメラの画角にみつえと、彼女の孫まさきが出入りするように撮られていることがわかる。これはこのシーンに限った特徴ではなく、彼らの自宅内を映したシーンで頻繁に見られる。このカメラは、止まった人間に向かって動くカメラや無人の廊下や天井を延々映す『マリエンバート』ほど性急な方法ではないが、人物ではなく建物を撮っていることがわかる。

 作品内の空間設計に注目した、では、時間設計はどうか。『マリエンバート』では前述した映像と音声がリレーしながら途切れなくつむがれることによって、全体が一つの巨大なシークエンスのようになる奇妙な構成をしている。『ペコロス』に関してはレネというよりもフェリーニ的な構成をしている。エッセイ原作に依るところが大きいようだが、7〜8つのエピソードが1つの映画の中に並列され、全体としては起承転結のないアンチクライマックスな作りになっている。さらにそこにみつえの記憶のフラッシュバックが挿入され、過去と現在の混濁を積極的に進めるようにされている。つまり、雄一の側にエッセイ調の日記的なエピソード羅列の語りがあり、そこにみつえの記憶が突如襲い掛かることによって時間が少しずつ混乱し、『マリエンバート』の語りに近づいていくのだ。

 3つ目の観点では、両作品がどのように幻覚になりきらないようにしているか検討する。それは覚醒を志向する効果だ。端的に言えば、『マリエンバート』と『ペコロス』が細かくカットを割っている点について注目する。カット割りが細かいこと自体は全く珍しい特徴ではない。

 エマニュエル・ルベツキのような長回しによる移動撮影を好む撮影監督の仕事と、アルフレッド・ヒッチコックの『ロープ』(1948)のような古典的な映画作家による全編1ショットの作品を比べてみると移動撮影を比べてみると、カットを割ることと長回しにおける効果の違いは一層明白になる。『ロープ』の話を先にすれば、この映画は全編1ショットでありながら、長回しの機能をほとんど果たしていないのだ。『ロープ』なされているのは、一つのカメラの計画的な構図から構図への移動であり、画面の中心に何があるのか、カメラが何に注目しているのかというのが絶えず明白であり続ける。ヒッチコックが他のカットを割る多くの作品で提示し続けているのは、「見る」とは注視することであり、画面の中で注目する一点を定めるこということだ。

 ルベツキの撮影の特徴は画面の揺れと、何が画面の中心にあるかということの散漫さだ。ルベツキの撮影に多く写り込むのは時に注意深く、時に不注意になる我々の視覚の再現である。例えばそれはアルファンソ・キュアロンの映画で、それは動き回る行動(揺れ)の最中で、テレンス・マリックの映画では空想やまどろみの中で、おざなりになる視覚が描かれる。長回しの効能とは「見ていない視覚」なのだ。

 『マリエンバート』と『ペコロス』がカット割りを細かく用いるのは、ある種の錯乱状態を作品構造としては描きながら、観客には注視することを呼びかけていることに注目したい。もしも本当に夢を見ているならば、注視しすぎると覚醒してしまう。全体構造のない混乱の中を程よい注意で泳ぎ回る能力を鍛えるようにこの2作品は促している。

 もう一つ、覚醒を志向する効果は光だ。『マリエンバート』に流れる3つの時間が光のコントラストによって描き分けられていることはすでに触れた。終盤でXと会話していたAが走り出し、広間を抜けて庭園を臨むバルコニーにたどり着く。光度が二人が会話していた②現在の中間色から、③未来の強い白へと切り替わる。まるでこのシーンは夢が覚醒に対して強く対抗しているかのようだ。ここからAXが話している過去の話を徐々に認め始める。

 『ペコロス』では強い光はクライマックスの「長崎ランタンフェスティバル13」で現れる。祭りの会場で迷子になったみつえを家族が捜していると、孫のまさきが眼鏡橋の上にいる彼女を発見する。そこでみつえは夫や、原子爆弾の投下直後に亡くなった妹、放射能の影響で病死した幼馴染の幻覚と出会う。雄一は亡くなった人に囲まれて嬉しそうにしているみつえを写真に収め(現像された写真にはみつえしか写っていない)、「ぼけることも悪かことばっかりじゃなかかもね」というセリフとともに映画が終わる。

 両作品に共通するのは夢のような幻覚的な体験の肯定と、そのまどろみのような心地よさにまどろむのではなく、その細部に注意を払う積極的な態度だ。だから、これが時間と空間の迷路に迷い込むような難解な映画だという表現はあまり適切ではない。これが実際に「夢」のような知覚の集積物であり、そもそも地図に描いて示すことのできる全体像などというものはないのだ。しかし、その全体像無き細部に注意を払い続けながら建物の中を観察して回る限り、迷子にならずにいられるのだ。つまり、これがここで提案したい映像鑑賞の、夢見の態度である。周囲の知覚にそのように注意を払うことによってだけ、私たちは自分たちの知覚と情動を飼いならすことができる。

 ここで映画を使って、認知症や夢の疑似体験の一例をあげた。一方でこのように作品を見ることは極めて個人的で、個室的な映画体験だ。第2章では、映画を見る場所について考える。現在、テレビやパソコン、スマートフォンなどあらゆる場所で映像を鑑賞している。一つの映画をゆっくりと見ることはむしろ映画館以外では難しくなった。人と一緒に映画を見るとはどういうことなのか、それについて夢の知覚体験という思考するために、第2章では共同の寝室というモデルを導入する。

1ジル・ドゥルーズ「シネマ2 時間イメージ」(1985

2アンドレ・バザン「映画とは何か」

3エリック・バーナウ著「ドキュメンタリー映画史」1、驚異をかいま見る

4DWグリフィス

5アベル・ガンス

6エイゼンシュテイン自身はこれを「Intellectual Montage」と呼んでいる。これは『十月』(1925)で用いられたモンタージュの技法が特徴的で、放棄する労働者のショットに屠殺される牛の映像が続き、抑圧された民衆の姿を暗喩するように使われている。

7ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・ドゥミ『ローラ』、スコリモフスキなどにみられる。

8ミロシュ・フォアマン、羽仁進、黒木和雄、エルマンオルミ、ミケランジェロアントニーニ、ミクローシュ・ヤンチョーなどにみられる。

91、時間・場所・人物に対する失見当識 2、幻視 3、散漫性や注意欠陥障害 4、近時記憶の欠如  5、病識の欠如

10『去年マリエンバートで』

11『去年マリエンバートで』のプロットには複数の別々の時間軸が設定されており、それを似たような人物配置のシチュエーション同士を横につないで連想的に編集を組み立てるという手法が取られている。これは、XAの会話をMの視点で観客に語っていくという試みであり、例えばこの映画そのものが壮大な一つの夢という一つの解釈に頼るのであれば、それはMの夢ということになる。

12『ペコロス』に関しては、ケアハウス「さくら館」の全体像だけが一度映される。そこでは、みつえがこの建物の中で迷わないということが示唆されている。

13長崎県長崎市で毎年旧正月に開かれる祭りで、毎年1万数千個のランタンやオブジェが飾られる。長崎新地中華街で開かれていた旧正月を祝う催しだったが、1994年から長崎市全体で開かれるようになった。2013年には100万人超が来場した。

出典:https://www.at-nagasaki.jp/festival/lantern/

 

文字数:13891

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