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あれでもこれでもいい

架空の書籍「テン年代の生命力」の第1章

0、あれでもこれでもいい

物語が必要とされることがあるとしたら、それは私たちがある種の不条理や野蛮さに直面したときだ。人は個人ではどうすることもできない大きな不幸や災難に直面したとき、頼るべき関係性やコミュニティ、保護が必要になったとき、手に届く範囲の中で一番確かな関係性を選び取り、その関係を長くも短くもしばらく続けるための言い訳として、今後の展望を描くために物語を求める。これは関係の問題だ。そして、私たちの将来と倫理と政治に関わる問題だ。
2011年3月11日、私たちはその不条理で野蛮な災害に直面した。私たちにはどんな物語が必要なのだろうか。結論から言えばまず、この問い自体が間違っているのだが、そう間違えるところからまずは始めてみたい。
本稿は3・11がどんな出来事であったかを検証することが目的ではない。私たちがどんな時代を生きていて、何を信じたらいいのかの検証を目指す。そして、その「私たち」には「あの日」に被災や、身内の不幸、自宅や職場での停電や帰宅困難といった直接の身体感覚で体験した以外の人も含まなけれる。私のように。
少し個人的な話をすると、震災当時京都に住んでいた私は、その日の午後2時46分、自転車で左京区高野の交差点から一乗寺にある自宅に帰る途中で、地震があったことにも気付かなかった。家に帰ってテレビを点けると、それから何日も、警報や注意報を呼び掛けて点滅する日本地図や、荒野のようになにもなくなった東北地方を映す報道ヘリからの中継映像が流れた。
私たちの生きる時代に必要な物語に展望を与えるため、一つのイメージを喚起したい。それは、地方出身者で、震災を直接体験せず、当時それまで一度も東京に住んだことはなかった私が語るべきでないイメージかもしれないし、そういう私のような立場でしか語れないイメージかもしれない。それは、大規模停電に見舞われた東京の街のイメージだ。この妥当性をゆっくりと検討していこう。
あの日の後、自粛を迫られたテレビCMが公共広告機構の「あいさつの魔法。」に差し替えられ、テレビ画面を埋め尽くした。しばらくして気がつくと、今度はそれがNHKをはじめとした民間・公共を問わない各種団体の「絆」のよびかけに変わっていた。福島の原発事故に関して放射線による未知の健康、環境への被害の可能性が内容を少しずつ変えながら毎日放送された。夏になると関西でも節電が始まった。年末には、結婚関連雑誌や指輪の売り上げが伸び、相談所の会員数が増加しているという報道も一部で目立つようになった。震災後、結婚関連雑誌や指輪の売り上げが伸び、相談所の会員数が増加しているらしい。本屋に並ぶ新書や週刊誌のコラムで、「日本はこれまでの発展に基づいた経済や社会のあり方を見直さない」という論調を強める知識人の声が大きくなった。
メディアが「絆」や「助け合い」をキーワードにした横のつながりを強調するようになると、私はそれまで自分がある種の直線的な縦の発展を目指す「都市」というものを東京に期待していたのだと気づいた。私はなにもかもが集まる中心的な場所として日本の首都東京に何かしらの期待を漠然とかけてきていて、「あの日」以後その期待がもうかけられなくなったような気がした。個人的な震災体験(の実感のなさ)への感想としてこんな話をしているのではない。これは震災を直接の身体感覚とともに体験した人と体験しなかった人をフラットにつなぎ、「あの日」を節目として感じる地平を模索する試みだ。その地平は「東京の地方都市化」ではないだろうか、とここで提案したい。
演出家岡田利規が2009年にベルリンのHAUで開かれた日本をフィーチャーした特集週間「TOKYO-SHIBUYA:THE NEW GENERATION」での佐々木敦のレクチャーの内容を「渋谷系とは東京を外国人の眼差しでみつめなおすことで、キラキラした素敵なものにみえてくるようにする操作のこと」とかいつまんで紹介している*1。
「あの日」、キラキラした東京の街の明かりは真っ暗になった。Twitterやテレビや新聞社やニュースサイトはそれを教えてくれた。しかしその日、私は東京を自分の目では見なかった。
2013年に放送されたテレビドラマ『最高の離婚』は離婚の危機を迎えた都内に住む30代の夫婦の生活を通して、現代人の煮え切らない結婚観、家族観を風刺するコメディだ。主役のカップル、浜崎夫妻の馴れ初めは震災の起きた「あの日」に遡る。
自動販売機設置会社の営業マンである浜崎夫妻の夫、光生は震災の発生当時、神保町の営業所に勤めており、停電した街中を歩いて府中の自宅まで帰ることになった。甲州街道を歩いていたところで、彼の得意先の受付で働いていた結夏と遭遇。知人の顔を見つけてほっとした二人は意気投合し、調布にある彼女の自宅まで歩いて一晩を共にする。それがきっかけになって二人は結婚した。
『最高の離婚』の回想シーンに見た停電した東京というのは、もはやどこでもない場所、というよりもどこでもいい場所としての日本のどこかのようだ。地震のショックによって不定期に呼び起こされる発作的な不安によって他人を求め合いながらふらふらと列島中をさまよい歩く震災後の日本人の姿だ。この浜崎夫妻はそもそもどちらも東京出身者ではない。夫は山梨、妻は静岡の出身で、その両親は富士山に関する意見で対立しあう。ドラマの最終回で、よりを戻した二人が帰りの電車賃を持たずに帰っていくのは目黒の自宅だ。本編では絶えず彼らの住む近所のローカルな風景として目黒川が画面に映る。
また、劇中「たまたま」出会った、「特に結婚する気もなかった」二人が震災の非日常的な空気の共有をきっかけに結びつくということがセリフで何度も強調される。
私は本書のタイトルを『テン年代の生命力』とした。生命力とは生き抜く強さのことだ。強さについて、それはゼロ年代の漫画『DEATH NOTE』(2004-06)、小説『バトル・ロワイヤル』(1999)のような強靭な知性や明晰な判断力、体力、運動能力のことだけを意味しているのではない。ここで重視する強さとは、こだわりがないことだ。特定のものに依存しない、あれでもこれでもいい状態を強さと呼びたい。私たちは突然の不条理や野蛮さに直面し、危機に直面し、他人に頼らなければいけなくなることはある。知力、体力、精神力の強さには限界がある。限界を迎えたときにどう人に頼るかで、別の強さが試される。強さとは、こだわりを捨て、たまたま居合わせた場所で、たまたま居合わせた人と生き抜くための関係をブリコラージュしていくことではないだろうか。特定の万能な物語はない。ただ、物語から物語への都合のいい乗り換えだけがここでは有効なのだ。

1、カジュアルな関係

国外に目を向けると、アメリカ合衆国の2010年代は2008年9月のリーマンショックをその端緒として、基本的にはオバマ政権とトランプ政権の期間に当たる。9・11に始まったゼロ年代は、アメリカが国際政治の警察期間のように振る舞い、イラク戦争に介入し、国際的な国家としての信頼を落とすに至ったブッシュ政権の時代にあった。10年代は不信と経済危機という漠然とした将来への不安からはじまる。
2009年に製作された映画『(500)日のサマー』は、日々のオフィスワークを退屈に感じていたヤッピーの青年トムがエキセントリックな職場の同僚サマーと出会い、彼女と別れるまでの500日間を時間軸をばらばらにして回想していく。気晴らしのように、趣味を共有できる異性との恋愛が始まり、へとへとに疲れて別れて、また別の女性と恋愛を始めることを示唆し、映画は終わる。作中で、カップルはお互いにとっての特別な存在ではなく、たまたますれちがった代替可能な誰かである。
同様に時間軸をばらばらに物語を展開する『エターナル・サンシャイン』(2004)が別れた恋人の記憶を消しても相手を求めてしまう、特別で代替不可能な人間関係を描いていたことと比べると、この差は興味深い。このような特別でないカップルの関係は『ラ・ラ・ランド』(2016)のメインのカップルが別れた描写もなく、突然時間を省略して、数年後のエピローグ部分で女性が現在の旦那とともにかつての恋人が開業したジャズバーを訪れるという交際観にも引き継がれる。
映画版では『…サマー』からの演出への影響も大きく受けた『モテキ』(漫画、2008〜10、テレビドラマ、2010、映画、2011)は原作の内容に準拠したテレビドラマに、このカジュアルな関係がよく表れる。原作者が女性であるせいだろうか、一人の男性対複数の女性の恋愛ドラマだが、男性の欲望充足的なハーレム劇ではなく、むしろ複数の他人との曖昧な、くっついたり離れたりの関係を通して、他人とのファジーなコミュニケーションに対して、いちいちナイーブに処理していては生きていけないことを示唆する。
2012年からフジテレビ系列、Netflixと媒体を変えて放送され続けているリアリティ番組『テラスハウス』の題名が場所であることも興味深い。カメラが映し続けるのはゴミや日用品、生活の匂いをほとんど一切感じさせない浜辺の清潔な別荘の構造だ。ランダムに集められたお互いに何の関わりもない男女の共同生活に、恋愛要素を期待する邪な意図でこの建物の内部構造を映した映像を編集し、人間の関係をそのインフラになるシステムを目差していく。優れてフレデリック・ワイズマン的なドキュメンタリーの一例だ。
物語を通して関係について考えることは、私たちが生きている国や会社、自治体や地域といったシステムについて考えることでもある。テレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(2016)はもう少しわかりやすい方法でシステムと戯れる。変わり者の男女が恋愛以外の目的で結びつき、それをきっかけに実際の恋愛関係になるという点でこれは古典的なスクリューボールコメディの形をしているが、結婚を、就職活動に合理的に向き合いすぎるがゆえにうまく目的を遂げられなかった女性が結婚を就職先として選び、それを怠惰なパラサイトにせず、仔細な雇用契約書と、合理的なデータ分析、業務の効率化といった手続きをいちいち開示して、企業のシステムを結婚にカリカチュアして見せる。
契約結婚で妻となった主人公のみくりが黙って網戸の掃除をしたことで、夫・津崎の心を掴むエピソードは興味深い。網のモチーフは彼女の女友達が夫の不倫を疑い「網を張る」という言葉や、津崎の同僚で抜け目のない観察眼を発揮する沼田の「俺はインフラエンジニアだから」というセリフにも連想する。網のモチーフ、社会インフラとしての家庭、光や空気は通すが、ほかのものを拒む網という構造は、関係性の束縛と自由度に折り合いをつけて再定義していこうとするスローガンにも見える。

2、人の車に乗り、人の家で寝る

震災直後に内田樹が自身のブログで呼びかけた「疎開のすすめ」と、東浩紀が進めた「福島第一原発観光地化計画」というのは同じ種類の出来事だ。両者には確かに大きな違いがある。前者は震災の直後に出されたもので、被災していない関西の公共施設や大学に関東以北の住人の避難を呼びかける、被災地から離れろというメッセージだ。後者は2013年に、震災の風化を防ぐために、観光の欲望を掻き立てるカッコいい場所として、被災地に迎えというメッセージを発信している。両者に共通するのは、移動のモチベーションを官藤官九郎的な「地元に帰ろう」というメッセージ*2ではない点だ。震災は、個人とその人が生まれ育ったり、それまで住んでいた土地との関係を曖昧にするようにはたらいた。
「地元」や「首都」というものが一度宙づりにされ、どこに住むかという問題がデータベース化していく過程の社会に私たちは暮らしている。東浩紀は『ゲンロン0』(2017)でグローバリズムとナショナリズムの対立を、経済と政治という別々のパラレルな問題として退け、観光客という主体を提唱した。彼がオイラーのネットワーク理論を使って唱えたスモールワールドとスケールフリーというイメージで構成される世界観は、個人と他人、土地、あるいは物語との関係をカジュアルにする。同じ文脈を共有する人同士が集まるスモールワールドは私たちが生きて行く中でその都度、どの都度、必要とされるが、その仲間内の文脈、身内で共有される物語をいちいち中断したり、組み替えたりし、突然観光によって会ったこともない人と繋がる。
Google mapをはじめとする瞬時に現在の自分の居場所を確認することができる衛生地図や、リアルタイムで電車の路線を調べたり、格安航空券の料金を比較したりするための携帯端末用アプリケーションの充実は、多くの人に遠方や海外での観光さえも容易なものに変えた。Uberは一般車両をタクシーとして、Airbnbは一般民家を宿泊施設として利用することを可能にした。観光客という主体は公共交通機関で移動し、専用のホテルに泊まるのではなく、目の前の道路を走る車に乗って移動し、知らない土地の誰かの自宅に泊まるのだ。観光客とは、家と車が公共財のように扱い、それを互いに乗り合い、泊まり合うようにして止まったり移動したりカジュアルに土地と繋がる主体のことだ。民泊に関する法整備に足踏みをしている日本でこれからどれだけの「観光客」が育まれるかは見所だ。
Spotifyは音楽を、Youtubeは動画をタダで世界中に配信し、IT企業による決済サービスや個人間取引を促すサービスの充実へと進行するビジネスモデルの変遷を眺めると、グローバル経済の発展が必ずしも弱肉強食の過酷な世界ばかりに発展するのではなく、ネットワークさえあれば国や企業のサービスがなくても生きていける主体を作り出そうとしていることが見てわかる。スラヴォイ・ジジェクが9・11に際してグローバル経済の対応物がテロリストであると述べた*3ように、それはもはや国家の手に負えるものではない。Googleが世界規模でWiFi環境を整えようとした活動が、イスラーム社会で抑圧されていた個人の心と身体に文字通り火をつけ、アラブの春と呼ばれる一連の市民革命を促し、それがISという中心のないアメーバ状の新しい組織を作り出した。動画サイトを通じて世界中の企業と国家のあぶれものをリクルートする彼らの物語に、多くの個人がチェックインし、ログアウトできるのだ。観光客とはテロリストのことであり、テロリストとは観光客のことである。
地域アートの流行と、聖地巡礼のアニメーション・ツーリズムは、多くの地方都市を歴史的建造物や変わったモニュメントがないのであれば、それが良かれ悪しかれ、新しく作れば良いというふうに奇妙に勇気付けたのではないか。
前者に関して。1980年代から続くベネッセコーポレーションによる企業主体のアート活動という下積みがあってこそ実現した瀬戸内国際芸術祭を一方では手本とし、もう一方では年々1000以上ある瀬戸内海に島々に多様なアーティストを誘致して数日や数週間の滞在では鑑賞しきれないほどの規模に膨張しつつあるこの展示形態を全国、世界規模で展開する地域アートブームの縮図として、アートが土地に突然上乗せする物語の良し悪しを批評の力で調整していかなければならない。
ともあれ、この海と山の自然に囲まれた展示場では、一つ一つの展示や施設を回るために何十分も歩かなければならず、やっとたどり着くと安藤忠雄のどこまでが1階でどこからが2階かもわからないモダン建築が待っており、外に出て日が暮れれば周囲は街灯もほとんどなく真っ暗、道路にはイノシシが飛び出し、携帯電話の電波も乏しく、ATMもコンビニも見当たらない、連絡フェリーは午後8時に最終を迎えるという不自由な環境が私たちにとってそこまでわざわざ赴いて作品を鑑賞する体験を特別なものにすることは間違いないだろう。たまたま昨年私がベネッセハウスを訪れた時に、来場者の一人が建物の前で「私は全国を旅行しているが、ここは全然ダメだ。こんな場所にお年寄りや障がい者は来られない」と声を荒げていたのを目にした。印象的な体験だったが、まさにそのバリア・オンリーの性質ゆえに地域アートが特別な体験になると反論したい。
その土地がもともと持つ歴史的文脈を踏まえずに物語を付与するという意味では、アニメ・ツーリズムが創り出す聖地巡礼も同じ仕組みだ。『君の名は。』(2016)を例にとれば、糸守町という場所は岐阜県飛騨市のどこかにあるように描かれるが、あくまで架空の地名で、岐阜や飛騨の歴史が物語に深く絡むことはない。アニメのそれが最近盛んだというだけで、フィクションメディアをめぐる聖地巡礼は『ローマの休日』のトレヴィの泉を例に出せばきっと理解いただけると思うが、決して新しい価値観ではない。それでも「実在の場所を舞台にするアニメーション作品」というのは、2000年には4本だったのが、2014年には91本になった*4。富野由悠季氏を理事会の会長に迎える一般社団法人アニメツーリズム協会は、2017年8月に「聖地88カ所」を選定し、訪日外国人の観光誘致に力を入れている*5。
ゼロ年代にはネットワーク上のヴァーチャル空間として認識されていたものが、10年代に現実と地続きになった、つまりVR(仮想現実)からAR(拡張現実)へ、という議論はSNSをはじめとするコミュニケーションツールの文脈でよく話題になることだが、観光にも同じことが言えるだろう。ここで、現実がヴァーチャル空間に拡張しているのではなく、ヴァーチャル空間の方が現実に拡張しているのだということを強調しておきたい。
アニメーションのファンは、アニメに登場した場所を求めて聖地を巡礼し、初めて訪れたその場所に二次元のメディアで見たものが同じように存在していることを確認する。しかし、ヴァーチャルなツールが観光の欲望を掻き立て、観光を容易にすることで、観光客が特定の場所を求めてそこを初めて訪れる時、その場所がヴァーチャル空間のそれと一致していることを確認して観光が成立するのが現代だ。つまり、ARとは現実がヴァーチャルに拡張しているのではなく、逆にヴァーチャルが現実に拡張し、今まで見たことのなかった現実空間をヴァーチャルの文法で初めて読むことが私たちの観光になりつつある。
イングレス、そして2016年に空前のブームとなったポケモンGOが現実へと拡張するヴァーチャル空間のイメージがこれを最も裏付ける。観光的な想像力は私たちを自分一人では想像もしなかった場所、バリアオンリーの世界へも連れていく、例えば高層ビルの屋上や、紛争地帯の地雷原へ*6。

3、玉虫色の可能世界

真っ暗になってそこが東京か、ボスニアか、瀬戸内海のどこかの島の山の中か見分けもつかなくなったとき、2016年に二つの物語が私たちの現状に真上からベタベタと絵の具を垂らし、新しい物語を描き出そうとした。
夢の中で体を入れ替えた2年前に天災で亡くなった女の子を救うための平行世界で未来の描き直そうとする筋立てと、フォトジェニックさを基準にした美しい絵で現実を上塗りしようとする形式の採用は不可分な欲望に基づいている。
『シン・ゴジラ』がアニマトリクスの技術によって、原子力発電所を暗喩する怪獣ゴジラだけでなく、そこに移る街並みや人ごみ自体も平面的な構成美学によってCGで整然とコントールしようとしたことはさらに根が深い。ただ、政治的意見の対立によって機能不全に落ちいた政治機構が非常事態に合わせて一致団結し、高揚する物語は、希望を通り越して災害を祝祭的に歓迎するファッショなムードを醸していないかと警戒すべきだからだ。はっきり言えば、『シン・ゴジラ』を透かして見えるその過去と未来とは、東日本大震災という非常事態を一致団結の契機として、2020年に開催が決まった東京五輪の祝祭に描き変え、忘却してしまおうとするのではないかという恐れている。
本書の結論では、10年代を乗り切る特定の物語はない。絶えず物語を乗り換えていくことが有効だというものだが、ただ一つ有効な物語を提示するとすればそれは主張のない物語だ。現実にバーチャルなものを上塗りするのではない可能世界の使い方について思考したい。
都市の明かりが消えてしまった後、私たちは月の明かりを頼りにすることになるだろう。
村上春樹の『1Q84』(2009-10)に登場する1984年の平行世界「1Q84」には2つの月が登場する。これはこの作家がこれまで作り上げてきた洞窟や井戸、誰もいなくなった宿泊施設のような閉鎖的で個人的な空間ではない。『君の名は。』との違いについて特筆したいのは、これが主人公がなにかすでにおこってしまったことへの後悔から、未来を描きなおすために想定したもう一つの世界としてではなく、そこを経由して再び1984年に戻っていくだけの世界としてこれを想定している。
この小説が世に出てから3・11を挟んで2017年に発表された小沢健二の『流動体について』の歌詞「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら? 平行する世界の僕はどこらへんで暮らしてるのかな(…)神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」という歌詞はこの村上の世界観と呼応している。そして、90年代に小沢が発表した多くの楽曲の歌詞にも共通するように現世肯定の感に満ちている。可能世界を想定しながら、それは今、目の前にある現実を肯定し、それが最善であると確かめる。ライプニッツ的な可能世界観である。
テン年代の物語とはなにか。一つは描き変えない物語だ。村上や小沢が提示するのは特定の主張を持たず、隠喩的な想像力で、現実とパラレルに交わることなく、現実の政治、経済的な事情の影響を受けずに玉虫色にメッセージを変え、いつでも現実に別の視野を提示する寓話だ。
『1Q84』では、月の数のような細部が少しずつ現実とは異なったこのもう一つの世界を、作中では「ONとOFF」が切り替わるように並立していると設定する。この「ONとOFF」という例えは眠りと覚醒という人間の意識状態を想起させる。解釈される前の夢を提示するのであれば、文学でも、操作可能なゲームメディアでもなく、一方的に受け入れるしかない映像のマゾヒスティックな快感こそが得意とするところだ。
本書では、1の「カジュアルな関係」と3の「玉虫色の可能世界」の二つの項目で詳しく分析する作品について紹介する。シェイン・キャルース監督、主演、撮影、編集、作曲のインディペンデント映画『Upstream color』(2013)はかなり野心的にシステムとの戯れを描く。この作品の提示が本書の結論部分に大きく関わる。突然体の中に芋虫を埋め込まれたせいで、それを埋め込んだ男に服従を強いられるOL、彼女が経典のように手渡されるソローの『ウォールデン』、彼女から芋虫を取り出し、それを豚に移植し、同じ状況下にある豚を大量に農場で飼育する男、OLとカップルになるホテル暮らしのエンジニア。ここで示されるイメージは、資本主義や国家のシステムと私たち個人との付き合い方を示唆するが、特定の主張は一切ない。
現実は多くの場合、バリア・オンリーで野蛮さと不条理に満ちている。現実を上塗りし、迫り来る脅威に盲目なまま危険な目に遭う(例えばゲームをしながら地雷を踏む)前に、物語は現実を斜めから照らして私たちに冷静な判断力を戻し、思いもよらないアイディアを閃かせる道具として利用すべきだろう。

 

参考文献
*1 岡田利規『遡行:変形していくための演劇論』河出書房出版社、2013
*2 連続テレビ小説『あまちゃん』官藤官九郎脚本、2013、NHK
*3 Slavoj Zizek, “Welcome to the Center of the Real: Five Essays on September 11 and Related Dates” Verso, 2013
*4 日刊SPA!「静岡、岐阜、埼玉…地方を舞台にしたアニメが急増している理由」https://nikkan-spa.jp/1169126
*5 「88アニメツーリズム」https://animetourism88.com/ja
*6 BBC NEWS JAPAN「地雷に注意 ボスニアで「ポケモンGO」利用者に警告」http://www.bbc.com/japanese/36842615

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