印刷

イワン・カラマーゾフへの応答 ~『カラマーゾフの兄弟』の哲学的読解~

はじめに

本稿の主題は、ドストエフスキー文学の哲学的読解である。『カラマーゾフの兄弟』における諸問題を哲学的に解釈することを、その目的とする。

全世界のあらゆる批評家や文学研究者が論じてきた『カラマーゾフの兄弟』を、今さら分析対象にすることに何の意義があるのか?ましてや「2020年代も読まれる批評」という課題への応答として、このようなテーマを選択することは適切なのか?当然噴出するであろうこれらの問いに対し、本稿の視座を述べることを以って、回答とする。

哲学者の東浩紀は、以下のように論じている。

「ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の中で提示している問題に、答えた哲学者はいないというのが僕の認識です。それは、哲学的に定式化すらされていないと僕は思います」※1

『カラマーゾフの兄弟』においてドストエフスキーが提示した問いは、未だ哲学的回答を与えられていないどころか、哲学的問題として十全に言語化すらされていない。東が特に問題とするのは、イワン・カラマーゾフが問うた非業の死者を巡る問いだ。

「たとえ苦しみによって、永遠の調和を買う為に、全ての人が苦しまなければならぬとしても、その場合、子供に一体何の関係があるんだい」 ※2

「そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さな拳で自分の胸をたたきながら、臭い便所の中で償われぬ涙を流して神様に祈った、あの痛めつけられた子ども1人の涙にさえ値しないよ!」※3

仮に世界の終末において神が降臨し、あらゆる死者が復活して永遠の調和がもたらされたとしても、歴史の一時点において刻まれた非業の死者の苦しみを帳消しに出来るだろうか?イワンの問いは、単なる無神論に還元できない、捩れたものだ。だが彼が提示する問いは、未だ扇情的な放言としての地位しか与えられていない。

本稿は、上記の東の発言と問題意識を同じくする。即ち、『カラマーゾフの兄弟』における諸問題が十全に哲学的言語化をされていないことに着目し、哲学という視座から同作品を論ずることを試みる。

『カラマーゾフの兄弟』の哲学的な言語化ーこの大テーマに着手するに当たり、本稿はある論考を立脚点に思考を開始する。それはスターリン時代に生きた哲学研究者・ゴロソフケルの『ドストエフスキーとカント ―『カラマーゾフの兄弟』を読む―』だ。書名の示すとおり同書は、『カラマーゾフの兄弟』の解釈を通じて、ドストエフスキーとカントの連関を論じている。ゴロソフケルは同書の冒頭において、以下のように記載している。

「 作者の考えによると、唯一の犯人は、俗に鳥も通わぬ里といわれる、とても辺鄙な秘密の隠れ家、要するに、ほかならぬカントの『純粋理性批判』・・・のなかに身をひそめているのである。 」※4

彼によれば、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の執筆時に仮想敵として設定したのは、カントの『純粋理性批判』だった。 18世紀のケーニヒスベルクの哲学者と、19世紀のロシアの文学者―直接的な邂逅はおろか、一方向的な影響関係さえ実証が難しい両者を並べて論じるのは、些か奇異に映るかもしれない※4。しかしこの2人を並列させたのは、ゴロソフケルだけではない。例えば文学者の埴谷雄高は、以下のように述べている。

「まったく方向の相反するカントとドストエフスキーが、不可能と可能の形而上学を背中合わせに挟んである黙示のごとく立っているシャム兄弟にように思われるのである」※5

“日本版の『カラマーゾフの兄弟』”を書いたとも言われる埴谷は、同じく彼に決定的影響を与えたカントとドストエフスキーをシャム兄弟(体が結合した双生児)に喩えている。他にも、管見の限りでも、亀山郁夫※5や高橋誠一郎※6、アルセニイ・グリガ※7らによって、両者の親近性が指摘されている。ともあれここで強調しておきたいことは、複数の哲学者や文学者らが直観的にカントとドストエフスキーになんらの関係性を感じ取ったということである。

だがそれを哲学的にある程度まとまった形で提示したのは、上述のゴロソフケルのみである。よって本稿はこのゴロソフケル論を重視し、その検討から思考を開始する。それは言わば、実現しなかった2人の思想的巨人の出会いを仮構する作業となるだろう。

1章:反定立命題と悪魔

「父殺しの物語」「神無き世界を描いた文学」―不穏な枕詞を冠せられることの多い『カラマーゾフの兄弟』は、数多くの謎に満ちている。その謎の一つは、「一体誰がカラマーゾフ老人を殺害したのか?」というものだ。素直に小説を読めば、犯人はスメルジャコフだと結論したくなる。しかしこの作品の錯綜した状況は、安易な断定を許してはくれない。確かにスメルジャコフはイワンに対して、次のように述べる。

「ぼくはそこで、旦那さまのテーブルの上に置いてあった例の鋳物の文鎮、おぼえておいででしょうが、一キロ以上もありそうなやつです。あれをつかみまして、振りかぶり、うしろから後頭部のてっぺんめがけて、打ち下ろしました。声ひとつあげませんでしたよ。ぼくは二度、三度と打ちおろしました。三度目に、ぐしゃっと割れた手ごたえがありました。フョードルさまは、血だらけの顔を上に向け、ふいにどうっと倒れました」※1

この生々しい自白だけを見れば、犯人がスメルジャコフであることは明らかだ。しかしこの告白の後、スメルジャコフは奇妙なことを述べる。

「それなら、申しますが、殺したのは、ほら、そこにいる、あなたですよ」 ※2

「殺したのは、あなたですよ、あなたが主犯なんです、ぼくは、ただ、あなたの手足を務めたにすぎません」 ※3

スメルジャコフは撲殺を認めたにもかかわらず、自らは「手先」に過ぎないと述べる。加えて、カラマーゾフ家の次男のイワンこそ、「真の殺害者」であると主張する。このスメルジャコフの言葉は、単なる殺人鬼の戯言として片付けられない。イワンはスメルジャコフの告白によって強い動揺に晒され、果てには譫妄症に陥った。さらに読者を一層の混乱へと導くのは、イワンの前に出現する悪魔である。物語の中盤には、その悪魔という謎の存在が一人の登場人物として壇上に姿を現し、イワンと狂気の会話を繰り広げる。

なぜイワンは、スメルジャコフから殺害の告白を受けながらも、自らを「真の殺害者」であると信じてやまなかったのか?なぜアリョーシャは、「あなたではない」とイワンに叫ばなければならなかったのか?そして、「悪魔」とは何なのか?それが「真犯人」であるとするならば、それはどんな存在なのか?

ゴロソフケルが取り組むのは、これらの謎だ。順番に彼の主張を概観していこう。

1章 第1節:悪魔と反定立命題

(1)『カラマーゾフの兄弟』には、哲学的・理念的な次元が存在する。

なぜドストエフスキーは、悪魔という現象界に属するとは到底考えられない存在を物語に登場させたのか?この問いに対してゴロソフケルは、以下のように論じている。

「作者は、遂行された犯罪の形式的な事実の領域だけに読者をとどめてはいない。作者は読者を別の領域、良心の世界の領域、心の領域、幻想的な領域、地獄的な領域へと誘導するのである。そしてそこでは、知情とともに震撼させられる見世物、悲劇であり同時にヴォードヴィルである出し物が演じられるのである。(中略)作者が読者を、悪夢にうなされるような心の領域へと移行させるのは、フョードル・パーヴロヴィチの殺人犯を、そこの領域で読者に探させるためである」※4

すなわち、『カラマーゾフの兄弟』は、ファクトベース的な推理小説に留まらない。そこには、「別の領域」が広がっている。その「形而下」に収まりきらない「心の領域」が「哲学」を巡る領域であることを、ゴロソフケルは以下のような論証で主張している。

スメルジャコフは自らの犯行をイワンに告白したのち、殺害に手をかけた理由をイワンに投げかけている。

この見解が述べられた後、先も引用した以下の記載が続く。

「 作者の考えによると、唯一の犯人は、俗に鳥も通わぬ里といわれる、とても辺鄙な秘密の隠れ家、要するに、ほかならぬカントの『純粋理性批判』・・・のなかに身をひそめているのである。 」※5

「形而下」(ファクトベース的探究)に収まりきらない「心の領域」―それが「哲学」を巡る領域であることを、ゴロソフケルは以下のような論証で主張している。それは、イワンがスメルジャコフならびに悪魔と自分を同一視した際に、「イワン=スメルジャコフ=悪魔」という等式を媒介したものこそ、「哲学」だったということである。

スメルジャコフは自らの犯行をイワンに告白したのち、殺害に手をかけた理由をイワンに投げかけている。

「それもこれも、《すべてはゆるされる》と考えたからです。これはあなたが本気で教えてくだすったことです。なぜってあなたはあの、いろんなことをお話しくださいましたから。無限の神がなければ、どんな善行もありえないし、そうなったら善行なんてまったく必要なくなるとね。これはあなたが本気で教えてくださったことですよ。ですからぼくもそんなふうな考えにたどり着いたんです」 ※6

「すべてはゆるされる」―それは人間が自らの行為を規定する際に、超越的存在や道徳を考慮することなく、ただ感性的欲望(ここではもっぱら金銭の獲得)に従えばよいというものである。これは哲学の一領域である倫理学に位置する命題と言える。つまりイワンがスメルジャコフに行った「教唆」とは、単にフョードルの頭を文鎮でたたき割れ、という行為を唆したものではない。その殺人行為を正当化する哲学的命題を、(スメルジャコフによれば)イワンはスメルジャコフに教え、スメルジャコフはそれに基づいて殺人に手を染めたのである。ここで「イワン=アリョーシャ」を媒介するものが「すべてはゆるされる」という倫理的(哲学的)命題であることが明らかになったことがわかる 。

さらにスメルジャコフとの面会を終えたイワンは帰宅後、悪魔との狂気的な会話を繰り広げる。そこで悪魔が主張するのは、以下のようなものだ。

「いったん、人間が一人残らず神を否定すれば、(中略)おのずから今までの世界観や、肝心かなめの過去の道徳はすべて崩壊し、何もかも新しいものが訪れてくるのさ。生命がもたらしうるすべてのものを手に入れるため、人々は一つになる。が、それはぜひとも、現世での幸せと喜びのためでなければならない。人間は、神のような、巨人のような誇りの精神によって称えられ、人神が出現する」 ※7

「次に問題となるのはこういう点だと、この若い思想家は考えたわけです。つまり、こういう時代がいつか訪れることが可能なのかどうか、って点ですよ。(中略)人間のぬきがたい愚かさを考えれば、おそらく今後一千年は整わないだろから、すでにもう真理を認識している人間はだれも、新しい原則に従って、完全に自分の好きなように身の振り方を決めることが許される。この意味で彼には『すべてはゆるされる』ってわけ」 ※8

悪魔の主張もまた、「すべてはゆるされる」という倫理的命題を巡るものであり、それはイワンがかつて『地質学的変動』において論じたことをそのままなぞるものだ。それは地上の人間が一人残らず神の存在を否定すれば、既存の価値や道徳はすべて崩壊し、新しく現世の幸福と喜びを尺度とした行動規範を定立できるようになる。そのような世界の確立は難しいが、ごく一部の神がないという「真理を認識した人間」は例外的に、自らの行動を新しい規則に則って規定できる。即ち「すべてはゆるされる」。ここで悪魔の「哲学」とイワンの「哲学」は、「すべてはゆるされる」という命題において一致している。正気を失いつつあるイワンも、以下のように述べる。

「おまえは、おれの幻覚なんだ。お前は、おれの生き写しだ。といってもおれの反面にすぎんがな・・・おれの考えとか感情とか、いちばん胸糞わるい、愚かな半面のな」 ※9

イワンは、眼前に現れた「悪魔」を自らの「半面」と一致した存在だと認める。この「半面」という言葉が示す意味は示唆的であるが、それは後述することにしよう。

・・・・

 

1章 第2節:二律背反的主人公、イワン・カラマーゾフ

ゴロソフケル説の概観、続き。イワンを二律背反における両命題を揺れ動く「二律背反の主人公」として描く。

1章 第3節:ゴロソフケル説の検討

ゴロソフケル説の概観を終え、彼の論の批判を行い、第2章への架橋をする。

 

2章:不可避的な二律背反的世界認識

2章 第1節:イワンの二律背反的世界認識

ゴロソフケル説への批判を踏まえ、イワン・カラマーゾフの世界認識を言語化する。

 

22節:第二の二律背反的世界認識

ゴロソフケルが「定立命題の象徴」として描いたアリョーシャを、「第二の二律背反の主人公」として描く。

 

3章:時間、道徳、受肉

1節:思弁的実在論における喪の問題

カンタン・メイヤスーの「亡霊のジレンマ」を『有限性の後で』を踏まえながら概観。

 

2節:固有性を巡って

メイヤスーの論を、『カラマーゾフの兄弟』の観点から批判。

「特定の時空間に刻まれた固有の存在の苦しみ」を思弁的実在論は回収できるのか?を論ずる。

主な参照先は、ヘグルンド。

 

3節:時間、道徳、受肉

最後に、「大審問官」を論ずる。

それは、「神」ではなく、「人になった神(=イエス・キリスト)」が降臨する意味に対する考察である。

参照先は、メイヤスー、フォイエルバッハ、カント。

 

まとめ

文字数:5478

課題提出者一覧