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音楽言語の家、自然言語の家、そしてもう一つの家……その狭間に住まう緊張――アペルギス試論


 「言葉は存在の家である ――Die Sprache ist das Haus des Seins――」という言葉がある。
 ハイデガーの『ヒューマニズムのために』という本に登場する言葉だが、ここではハイデガーの存在論的意図を汲もうとするのではなく、この言葉から自由に発想を膨らませてみようと思う。

 まず思い浮かぶのは言語学者エドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフによって打ち立てられた「サピア=ウォーフの仮説」である。
 この説によれば、人間は習得する言語によって世界に対する認識が変容し言語の特質と対応した制約を受けるのだという。このサピア=ウォーフ説に見られる思想を簡単に言い表せば、シームレスな現実を言語というものが分節し分節された語が思考を形作るという思想である。この仮説は時制の違いによる「時間」というものの捉え方の違いや、色や雨を表す言葉の種類による識別能力の違いついて展開された。
 しかし、この構築主義的な仮説は自然主義的な観点から様々な誤りが実証的に示されているようだ。人間があるものとあるものの境界を見極める能力は、生得的な認知機構によるものが大きく、自然言語はあくまでそれを表す手段であるというわけである。[注1]
 これは自然言語の形式によって人間の思考=内容が制限されることはないということを意味している。
 では芸術言語においてはどうだろうか。ここでは諸芸術の内、音楽を例とって、芸術の言語性および自然言語との関わりについて考えていく。

[注1] 例えばスティーブン・ピンカ―『言語を生み出す本能』などでサピア=ウォーフ説が批判されている。
   この問題についての、より現在的な発展については、Mike Frankによる以下の記事などが参考となるだろう。
   http://babieslearninglanguage.blogspot.jp/2017/05/language-and-thought-shifting-axis-of.html

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 そもそも音楽言語とはなんなのだろうか。
 例えば音楽を「感情の言語」と見なす思想はロマン派の時代に多く見られるものだ。〔注1〕この考え方によれば音楽は自然言語では表し尽くせない感情を直截的に伝えるものであるとされる。
 この主張に対して、表現内容ではなく「形式」(旋律線や和声づけなどの音楽的構造のことを指す)を重視する形式主義が現れる。
 例えば音楽学者エドゥアルト・ハンスリックはその中心人物である。彼は『音楽美論』の中で、曲とぴったりと合った滑稽な替え歌や、なにかを描写した音楽に対して聴き手が標題抜きでその描写対称、つまり作者の意図を当てることの不可能性を指摘し、音楽の本質を形式の美に求めた。
 では、ハンスリックが述べるように、音楽は言語のように何かを指し示す記号ではなく、そこに作られているものは形式性だけであり、音楽自体が特定の意味を(偶然に基づくことなく)持つことはないと言いきってしまって良いのだろうか。
 そうではないだろう。なぜならばこの2項対立は「音楽構造に内在する意味」という観点を導入したときに新たな様相を現しはじめるからだ。どういうことか?東条敏・平田敬二『音楽・数学・言語』 から数センテンス引用してみよう。

例えば,ドレミファドレミファ・・・というフレーズ(音列)があるとする.このようなドレミファのくり返しを聴けば,ゲシュタルトによりドレミファという単位が認知され,それがまた次に現れるのではないかと期待するだろう.聴者は心の中で,今聴いている音列が今まで聴いた音列のどこかに何か関連(同型,類似など)していないだろうかと記憶の中を常に探索しており,聴者が関連を見出した時に音列どうしの参照関係が認識される.つまり,音楽における参照は聴者の記憶と予測から生じ,未来に生じるフレーズの推測および過去に聴いたフレーズの認識は,それぞれ今聴いているフレーズから未来のフレーズへの参照および過去のフレーズへの参照と見なせる.この時,[パースの記号論と照らし合わせるならば]今聴いているフレーズ(ゲシュタルトによって分節されたドレミファという音列)が記号(表現)に対応し,未来に生じるフレーズの推測および過去に聴いたフレーズが表現の対象や結果に対応し,聴者が観察者に対応する.この参照関係が旋律の意味づけの正体である.(東条敏・平田敬二『音楽・数学・言語』 p10 近代科学社  ([]内は引用者注))

 ここで重要なのは、ハンスリックが重視するような形式的に説明可能な客観的な構造を、ゲシュタルト心理学を介して人間の認知と結びつけることによって「意味」と捉えていることである。音楽自体に内在する構造を聴者が認知し、形式=記号が別の形式=記号を参照することによって「意味」が作り出されるというわけなのである。このような参照関係、つまり音のゲシュタルトによる推測とその当たり外れが情動を引き起こし、音楽を意味づけることを最初に指摘したのはLeonard B.Meyerである。彼はこの「意味」を「内在的情動」と呼んでいる。
 つまり音楽とは、音楽の形式がその形式自体によって作り出す意味の次元が存在する言語である。ここには自然言語のような内容と形式のような対立はなく、それゆえにサピア=ウォーフの――いまや自然言語においては時効となった――仮説がなりたつのではないだろうか。なぜならばこれは、形式どうしの内在的参照関係は形式に縛られるという半ばトートロジー的な命題であるからだ。
 ちなみに西洋音楽には作曲家の個性を指し示すタームとして「書式」(エクリチュール)という言葉があることを示しておこう。

[注1]  ヨハン・マッテゾン、シャルル・バトゥー、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ、ヨハン・ニコラウス・フォルケル、ヨハン・ゲオルク・ズルツァー、ヨハンリヒ・クリストフ・コッホなどの著作に見うけられる。(マーク・エヴァン・ボンズ『聴くことの革命』(近藤譲 井上登喜子訳 )ARTES 2015 p48を参照)
[注2]  この予測とその充足/裏切りはEugene Narmourによって「暗意-実現モデル」という情報科学モデルに応用されている。暗意-実現モデルでは音楽の諸要素(メロディ、リズム、ハーモニーなど)のゲシュタルトをそれぞれ最小のパターンに分類し、その連なりを分析する。また、このモデルの利点はその分析が人間の知覚に即していることがJames C.Carlsenなどの実験によって明らかにされている点である。(暗意-実現モデルについては前掲の『音楽・数学・言語』を参照。また、このモデルを用いて聴者の文化的背景を考慮しつつ充足/裏切りのパーセンテージを実証的に示す可能性としては、矢澤櫻子・寺澤洋子・平田圭二・東条敏・浜中雅俊「暗意実現モデルにおける 連鎖構造を用いたメロディ構造分析」(http://gttm.jp/hamanaka/wp-content/uploads/2015/12/MUS94SLP90-341.pdf)などが参考になるだろう。その他、音楽の言語性に関わる理論としては、チョムスキーの生成文法とシェンカーの音楽理論を元に発展したGenerative Theory of Tonal Music(通称GTTM)がある。)


 音楽が一つの独立した言語性を持つのであれば、そこに別の言語性が介入する歌曲とはなんなのだろうか。
 歴史の始め、音楽は歌詞に従属していた。教会音楽における意味の次元で例えばある旋律がミサにおいてすでに決められた何らかの象徴的意味合いを持つといったものであったり、音節の次元で例えばグレゴリオ聖歌では言語のアクセントにおおもね基づく形で旋律が形成されているといったものであったりという具合で、音楽は歌詞に付随するものにすぎなかったのである。
 その後、言語に対する音楽の自律性は次第に高まっていくのだが、例えば時代がとんでロマン派の時代、シューベルトやシューマンに至っては音楽は激しく展開し、そこに言語が付随されることによって新しい感情表現が追求された。あるいはいわゆる「ゲンダイオンガク」の始祖ともいえる新ウィーン学派において、音楽はその形式的自律性を12音技法という形で極度に高めることになるのだが、その難解さを補うために歌曲が多く作られた、つまり歌詞という意味の次元が自立した音楽に付随する形で導入されることになったことなども重要だろう。
 つまり西洋音楽の歴史として、「歌詞優位から音楽構造優位へ」という流れがあるのである。
 では、より現代的な「現代音楽」では言語に対してどのようなアプローチがなされているのだろうか。

 ここで取り上げたいのはジョルジュ・アペルギスという作曲家だ。
 彼は1945年にギリシャで生まれフランスで活躍している音楽家である。彼はしばしば役者との共同作業によって作品を作り上げるのであるが、その活動の中でも特に、言語を用いたシアター型の諸作品で知られている。ここでは彼の代表作「Récitations」 (1977-1978) について考えてみようと思う。この音楽は14の部分からできており、その全てにおいて音楽言語と自然言語の関係性に注目した実験が行われている。

(Georges Aperghis  『 Récitations』 Selabertより )

 

 上に載せたものは「Récitations」の1曲目の楽譜の一部である。楽譜左上には「Récitations」の1曲目で用いられるセリーが書かれている。各音は音高を表すだけでなくその音高に固定された仏語の単語も表している。曲の造りとしては3段目の途中までを分析した譜例を見れば分かる通り、セリーを元としてそのセリーの断片を挿入、配列、反復することによって、フレーズがランダム再生されるような効果を引き起こしている。ちなみに分析譜の方で四角で囲ってあるものがひとつなぎの断片である。有限の単語はあらかじめ非文法的にセリー化されており、さらにそれが切断、再配列、反復されることによって非構文的なイメージの連鎖が引き起こされる。ここで起きるのは音楽的構造と自然言語の間に起きる緊張である。なぜならば自然言語と音楽言語ではそれらが存在論的に住まう言語性が異なるからである。アペルギスは自身の音楽についてこのように言っている。

この音楽における音響的な出来事の進む速さは私たちの脳が処理できることよりも速い。まるで言語、単語、音節が脳の論理的機能と同じレベルで自分の人生を生きているかのようだ。
(Georges Aperghis・Donatienne Michel-Dansac『14 Récitations』 collegno  2006  プログラムノート  p24   訳に関してはSteven Lingbergによる英訳を筆者が訳している。)

 アペルギスの音楽における言語性の緊張は自然言語の構文と音楽的構造によるものだけではない。例えば「Récitations」14番では一息のもと、「heart heart luth heart luth cor luth」のような言葉が囁かれ変形されていく。

(同上)

 おそらく各単語はその音韻で選ばれたのだろう。このような言語の音声性への注目は6番における音節によるセリーの作成や13番における打楽器の模倣などにも見受けられる。そして、この音楽で重要なのは歌手は息切れと戦わなくてはならないということだ。楽譜の指示ではBPMは120から40へとリタルダントしていくわけだが、――アペルギスの音楽ではよく起こることであるが――演奏上の制約上それが滑らかに達成されることは難しいだろう。アペルギスは「Récitations」14番についてこのように述べている。

この指示は曲の終盤における息切れを自然に導く。この息切れは私たち、つまり観客にこの女性におこった重要な、おそらく悲劇的な出来事を考えさせるが、実際には単に技術的な要求の結果だ。(同上p23)

 つまりアペルギスの声を用いた音楽――ここではあえてそれを20世紀の歌曲と呼ぼう――では自然言語の構文的言語性やその音声的言語性などの複数の系列と音楽の構造的言語性という系列がそれぞれ中心をめぐって争い合いながら、結果としてそれらの間に生じる「亀裂」こそが作品の本質となっているのである。それは構文が破壊されたものでありながら、時にまるでオペラのような物語性すら我々に与えるのである。
 つまり、アペルギスにとってこうした実験は音楽技巧上に限った問題ではない。ドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」という概念について語るまでもなく、ここには正当な一つの「構文」への存在論的懐疑が見受けられるからだ。彼は言っている。

私たちは楽譜をリアリゼーションする歌手を見たり聞いたりするが、それと同時に正しく話せない人、非常に神経質な人、落ち着きのない、あるいは何かに追われた人などを目撃する。
それがこの作品の人間的次元である。 私たちは日々の生活の中で闘う人、あまり健康でない人、自分自身を表現するのに困っている人たちの、とらえどころのない精神的な小さな肖像画を見る。(同上 p23)

 言葉は存在の家である ――Die Sprache ist das Haus des Seins――。各芸術にはそれぞれにそれぞれの言語性があり、それぞれの存在の家がある。そして、その存在の家が重なり合う時、そこに住まう緊張に目を向けることは、メディアがデジタル技術によって統合されていくニューメディアの時代において重要な観点となるだろう。

参考文献

スティーブン・ピンカ―『言語を生み出す本能』 (椋田直子訳NHKブックス 1995)
エドゥアルト・ハンスリック『音楽美論』( 渡辺護 岩波文庫 1960 )
マーク・エヴァン・ボンズ『聴くことの革命』(近藤譲 井上登喜子訳 )ARTES 2015 )
東条敏・平田敬二『音楽・数学・言語』  (近代科学社 2017)

文字数:5707

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