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『トウキョウソナタ』はソナタ形式か?

 黒澤清という監督や『トウキョウソナタ』という作品についての前置きとしての説明は不要だろう。本論ではソナタ形式という形式に添って『トウキョウソナタ』の映像を説話論的、主題論的に読み解いていく。
 無論これからなされる分析が非常に恣意的なことは自覚している。しかし、そういった強引な解釈が時に新しい価値を創出することがあるのも事実であるのだ。故に私はアナリーゼというよりも作曲をするようにこの映画を考えていこうと思う。

 

Ⅰ.提示部

ソナタ形式は、その主題としての材料を多種多様に,実に技巧豊かに利用して展開し,複雑かつ立体的な曲想を持ち得る形式です.そしてこの立体的な展開的操作こそが,この形式の最大の正確的な特徴であるということができます.(中略)

主題提示部は,その名のごとく,主題を提示する全曲の約1/3にわたる部分をさしています。主題はたいていの場合,対比的な,しかも調和を失わない二つの主題,すなわち第1主題と第2主題にわけることができます.(石桁真礼生『楽式論』 音楽之友社 1950 p108) 

 『トウキョウソナタ』にとって第1主題は「赤」、第2主題は「青」である。しばしば、前者は「待つ」ということを後者は「到来する」ものを引き起こす。どういうことか。

 冒頭は庭に続く窓ガラスから佐々木家に吹き込む雨風により、テーブルから落ちる新聞紙、はためくカーテンが映される。小泉今日子演じる一家の母である佐々木恵が一度開いた窓ガラスを閉じるが、意味真にそれをもう一度開ける。この前奏の時点ですでに二つの主題が暗示されている。これは内にいるものに何かが到来するという予感である。半透明のカーテンと吹き込む雨風が内と外とが浸透していく関係を作りだしている。さらにつづきをみていこう。
 その後のオフィスでのシーンでもまた、オフィスの後方にある窓にゆらゆらと揺れる布の影が写っている。なにかが到来する予感という不協和音が続いているわけである。このオフィスでのシーンでは物語的な核心となる決定的な出来事、つまり香川照之演じる父役、佐々木竜平がリストラされるという事件が「到来」する。この決定的な「到来」のシーンにおいてもまた、中と外とを仲介するブラインドが背景に映されている。さらにクローズアップしてみてみよう。
 上司は彼に「それで、佐々木さん。今後総務を離れて何をやります? あなたができることは何ですか? (中略) タニタで最大限の能力を発揮していただくか。それとも、ここを去っていただくか」と攻撃的な言葉を告げる。この言葉を発し、竜平の返事を「待つ」上司の側に何気なく置かれたファイルには仄かな赤色が、解雇されるという事実が「到来」した竜平が座るこちら側では、竜平のさらに背後に映る衝立に仄かな青色が現れていることに注目したい。ここで、すでにモチーフがはっきりと登場している。さらにこのシーンでは外の風の音が不吉に部屋の内部に「侵入」している点も指摘しておきたい。
そして竜平がオフィスから去るシーン。不意の到来に貫かれた彼が首に下げているストラップが鮮やかな青色であり、リストラされた竜平が文字通り庭から自身の家に「侵入」した時、彼の帰りを「待って」いる妻――この時点ではリストラを知らない――である恵の着ている服が「赤」色である。
この時点で第1主題第2主題が完全に確保されたことになる。第1主題は「赤」、第2主題は「青」である。しばしば、前者は「待つ」ということを後者は「到来する」ものを引き起こす。

 提示部ではその後、仕事を探す父、同じくリストラされた津田寛治演じる父の友人である黒須、ピアノを習おうとして竜平に反対される井之脇海演じる主人公の健二、小柳友演じる放蕩する兄の貴、といった登場人物、およびそれらが抱える問題も提示されるわけであるがそれらの主題群も「待つ」ことと「到来」するものを巡るバリエーションである。
 例えば、竜平が仕事に再び就く日を「待つ」ということ――そしてそのネクタイが色になること――、大人への不信からつまらなさそうに日々を過ごす主人公に近所の家のピアノ教室から音が聴こえて「くる」こと――ここでも内と外が侵犯されていることに注目しよう。「到来」することと「待つ」ことは内と外との侵犯である――、放蕩する兄がアメリカという「外」部の軍隊に「入」隊しようとしていること、また、映画が始まってから22分30秒後頃、父が同じくリストラされた友人から家族にそのことを隠すためのレクチャーを受けているシーンにて、そこに映る犬の首輪が2重になっており、それが「」と「」であることなど、全て二つの主題からあらゆる主題群が、巧みに調和した和声のもとで導き出されているのである。

 

Ⅱ.展開部

展開部は,これらの主題の動機構造をその素材として展開し,最高潮にまで盛り上げる,最も技巧的な,正確的な部分です. (中略) 様々な技巧と,高揚する幻想による展開部もその頂点に達し,いよいよその終り近くなった時に,低続音(オルゲンプンクト)があらわれることが,たいていの場合見うけられる現象です.(同上 p109)

 展開部はリストラ仲間の友人の夫婦が無理心中で死亡したところからはじまる。彼らには「死」が「到来」したのである。これより「待つ」ことと「到来」するものが錯綜し、絡み合うモチーフの効果が熾烈を極めながらも物語が展開していくのである。
 ちなみにこの唐突にも思える夫婦の死であるが、すでに提示部にこの結末を迎える種子が存在していたことを忘れてはならない。竜平が黒須家へ(黒須の失業を家族に隠す工作の一環として)食事に行ったとき、夫婦が来ていたシャツは桃色、つまり淡い「赤」であった。つまりこの時点でこの二人は死を待つ運命にあったのである。無理心中は登場人物の心理的因果によってではなく、映像的因果によって引き起こされたのだ。実際、この時に「赤」を身にまとっていなかった土屋太鳳演じる黒須の娘が偶然生き残っているということをさらに指摘しておこう。

 この展開部では緊張の頂点が二つ作られている。その一つは、ピアノをこっそりと習っていた健二と、それを知り激怒する竜平との不和が決定的なものとなるシーンである。
 ここでは父である竜平との揉み合いにより健二がけがを負う。また、恵はこの時点ですでに竜平が失業していることを知っており、形骸化した「親の権威」を振りかざす竜平に「つぶれちゃえそんな権威」と冷たく告げる。ここは家族の「崩壊」を象徴する一つの緊張の頂点である。
 ちなみにこの決定的な不和の重要な一因となったのは井川遥演じるピアノ教師金子が佐々木家に送った手紙である。その手紙によれば、健二は大変な音楽の才能があり音楽大学の付属中学にいくべきであるという。この手紙を見て竜平は健二がこっそりとピアノを習っていたことを知ってしまうのだ。この「到来」した手紙の内容――健二が大変な才能をもっているということ――はすでにレッスンの際に健二本人に金子が直接伝えているのであるが、そのシーンで健二が着ているシャツの色に注目すればそれが彩度の高い「」色なことがわかるだろう。その前のシーンから健二は薄い灰色がかった青色のパーカーを着ているのであるが、さらにここで強い青が重ねられることが、この決定的な「到来」の場面での契機として機能してしまったのである。

 さて、ここでみられる象徴的な「父」(の権威)の死であるが、実はこれは物語内容として「ソナタ」というものに関係している。そのことを確認する前に象徴的な「父」の死がすでにこの映画の序盤に現れていたことを指摘しておこう。
 序盤、授業中に自分の席に回ってきた漫画雑誌を手にしていた健二は、児嶋一哉演じる教師小林に注意を受ける。漫画雑誌が自身のものではないという訴えに耳を貸さない教師に腹を立てた健二は、その教師が電車の中で「週刊エロマニア」なる雑誌を読んいたことを告げる。その後、同級生は健二の意図に反して盛り上がり「これで小林の権威は完全に失墜したな」、「これってさ! 革命じゃん。か く め い!」と浮かれ始める。
 これは明確な「王」あるいは「父」の象徴的処刑であり、すでにこの時点で革命が始まっていたのである。

 さて、ソナタ形式であるが、ひとつの音楽形式が革命=近代化と密接な関係があるとはどういうことだろうか。
 そのことについて考えるためにはもう一回り迂回して「交響曲」について論じておかなければならない。

 音楽学者のマーク・エヴァン・ボンズはその著書『聴くことの革命』のなかで、ベートーヴェンの時代に聴衆の交響曲を聴き方が大きく変わったことを当時の膨大な資料を参照しつつ指摘している。18世紀前半までは社交界のバックグラウンドミュージックでしかなかった交響曲が、ヘーゲル哲学やロマン主義美学と結びついたことによって理性と非理性を統合する崇高なものとして捉えられるようになったのである。
 そしてボンズによればその矛盾の統合といった観点は国家や共同体を作ることとも関係するものであったという。フランス革命とそれに続く無秩序を目にした初期のロマン主義者たちは、上からの専制政治と下からの混沌の双方を斥けるために有機的組織体――それを構成する諸部分が相互に依存し合って機能する組織体――という概念を考えた。そのことと交響曲の性質――様々な声部と楽器を組み合わせ一つの統一や不協和と協和の大規模な秩序を作り上げること――が重なり合い、交響曲は政治的な有機的組織体のメタファーとなったというのである。 

 なぜ私はこの話をしたのだろうか。
 ここでソナタ形式もまたベートーヴェンの時代に完成されたものであることを言っておかなければならないだろう。先に引用した『楽式論』の中で石桁はこのように述べている。

歴史的には幾多の変遷を経ながら,暫時不完全なものから完全なものへと発達したものであって,現代に生きているソナタ形式からはややその範疇外の感がありますが,イタリアやフランスの古いソナタ形式や,ドイツでも,バッハ以前の組曲のような不完全な(現代のソナタ形式の概念よりしては)ものから,K.P.エマヌエル バッハ(バッハの第3男)によってソナタ形式がきずかれ,さらにハイドン,モーツァルトを経てベートーヴェンにいたり,ソナタ形式が完璧なものとなりえたのです.(p108)

 ソナタ形式とは対比的な二つの主題がその調和を失うことなく統一体として展開されていくものであった。これはまさに、交響曲の相反するもの同士の統合といった性質と類似のものだ。そして、そのどちらもがベートーヴェンの時代に完成された――あるいはそのように聴かれるようになった――のである。
 これをボンズの論に登場した「有機的組織体」という考えと照らし合わせるのならば、ソナタ形式もまた、象徴的な父である「王」なき時代の芸術であったといえるだろう。実際、交響曲の性格を形作る基礎となる第1楽章はソナタ形式で作曲されたのである。

 故に象徴的な「父」の死とその後をあつかうこの物語は『トウキョウ「ソナタ」』であり、二つの主題「到来」と「待つ」という二つのモチーフを必要としたのだ。

 しかし、『トウキョウソナタ』の二つのモチーフはそもそも矛盾する性質のものではないのではないだろうか。むしろ本来ならば待ち望まれたものが到来するという形で合致するものである。しかし『トウキョウソナタ』においてはこの二つが最後まで一致しない、というよりもそれがズレたままその緊張感によりカタストロフ的頂点、不協和音の調和が形作られるのである。
 なぜならばこれは18世紀や19世紀でなく21世紀の映画だからである。そこはすでに18世紀の象徴的な巨大な「父」はすでに消滅してその後作られた秩序の世界である。『トウキョウソナタ』で処刑された「父性」は、18世紀の時のような王とは比べるべくもない矮小なものに過ぎないのである。その秩序が再び機能不全に至り崩壊する物語において、本来一致するはずの「到来」と「待つ」というモチーフが離反しはじめるのである。故にこれは秩序と混沌が逆向きになったソナタなのである。
 ではここからは先に述べた展開部の二つの頂点のうち、もうひとつの頂点について考えていこう。
 二つ目の頂点はポリフォニックに生起する。いうまでもなく、父竜平が札束を拾い、健二がバスに忍び込み、恵が役所広司演じる強盗と奇妙なドライブをするそれぞれのシーンのことである。
 これらのシーンではその全員が何かの到来を待ち望んでいる。それはほとんど救済といっていも良いかもしれない。しかしそこに現れるのはカタストロフであるのだ。そのカタストロフの無秩序がなぜか救済かのように見えてしまうというのが黒澤清の技巧である。

 まず父竜平が不本意ながら就いた新しい職である清掃員の制服がだいだいいろ、つまり「赤」のモチーフであることに注目しよう。彼は遺失物である札束を横領し夜道を駆け抜ける。夜道に置いてい照明に照らされながら「どうやったら、どうやったら、やりなおせる……」と呟く。彼は彼は明確に救済を待ち望んでいる。
 健二は友人の家出などを手助けする中で大人への不信感をさらに募らせる。そんな彼はどこか遠くに行こうとしたのかバスに無銭で忍び込み逮捕される。この時来ているシャツの色が彩度の高い色であることに注目しよう。このシャツは彼がピアノ教室に着ていたいシャツとの強い対比を感じさせる。また、彼が入れられた留置所の廊下で点滅する赤いランプも見落としてはいけないだろう。何度も何度も赤が反復され「待つ」というモチーフが強調されるのである。
 恵と佐々木家にたまたま入った強盗は奇妙な「ふっきれ」からドライブを行ない、海辺に到着する。この時のっている車は、提示部にて恵がカーショップで見ていたものと同じモデルである。しかしこの色の違いにこそ私たちは注目すべきだろう。提示部では「待つ」ことの「赤」であり、この展開部ではそれは「到来」の「青」となっているのである。彼女には強盗と出会うことによって何かが「到来」したのである。
 そして、強盗と辿りついた先の海の異様な紫色こそがこの作品の結論に他ならない。紫とは「赤」と「青」が混ぜ合わされた色である。つまり「待つ」ことと「到来」することが。
 「赤」の連打の後に再び現れた、「青」というモチーフ。そしてその結果としての「紫」。この「紫」とはなんだろうか。
 分からない。全く分からないのである。しかし、この詩的な紫は全てのモチーフを飲みこみカタストロフをもたらすのである。
 このカタストロフの後、夜が明け、朝焼けが現れる。竜平に、健二に、恵に。紫が赤と青に分解されていく。何も解決しないまま、アメリカに貴を残したまま、3人が家に帰ってくる。最悪の結末にもかかわらず胸がすく思いがする。すべてが祝福されている。すべてが。まるで展開部における低音による属音保続のようにも思えるその「赤」「青」は、提示部の再帰を祝福しながら再現部へと疾走していく。

 

Ⅲ.再現部

主題再現部は,おおまかにいって,第Ⅰ部分の反復的再現の部分です. (中略) 主題提示部とことなるところは,第2主題(主題群)がこの部分では主調またはその並行調・同主調に復帰するところです.(楽式論p110)

 もはやこれはソナタではない。たしかに映像表現上、序盤の再現らしきものは行なわれる。すべてが崩壊した後の食事のシーン。実はこれは提示部で示された構図と全く同じものが用いられている。食器棚越しに見る閉塞感のある食卓も何故か明るく見える。TVに映るニュース画面に赤と青が現れる。貴から青い字で手紙が届く。
 しかし、これはベートーヴェンのソナタのように何か矛盾する二つのものが止揚されるような「解決」が起こったわけではない。何も解決していないし、まだ何が起こるか分からないのだ。
 けれどこれで良いのではないだろうか。意味的な「赤」と「青」のモチーフが錯綜した結果それはほとんど非意味的な次元である「紫」まで昇りつめ、強いカタストロフと感動をもたらしたのだ。

 もはやこれはソナタではない。それゆえに最後に演奏される音楽は≪月の光≫なのである。
 その青い光は次は私たちになにをもたらすのだろうか。

 

 

参考文献

石桁真礼生『楽式論』 (音楽之友社 1950)
マーク・エヴァン・ボンズ『聴くことの革命』(ARTES 2015 近藤譲 井上登喜子訳)

文字数:6716

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