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蓮沼執太作品における空間性ついて

■ 大学で環境学を専攻しており、環境音の記録の目的からフィールドレコーディングを始めたという蓮沼執太であるが、音に関する活動の始まりが特定の「空間」の音楽であったことは興味深い。
 その後も彼は空間に注目した作品を多く作り続けている。
 例えばヨコハマトリエンナーレ2011にて開催されたイベント「music for planet」ではピーター・コフィンのインスタレーション作品である温室の中、植物のための音楽というコンセプトで大谷能生、石塚周太、イトケンなどと半ば即興的なセッションが行われた。
 あるいは2013年に行われた展覧会『音的』ではその開催の一年前から「蓮沼執太のスタディーズ」と称して1年間アサヒ・アートスクエアにて公開レコーディングや映像の撮影など様々なイベントが行われ、それらも含めた多くの作品が後に展覧会として展示されるというサイトスぺシフィックな試みが行なわれた。
 では、彼の作品はサイトスぺシフィックであったりインスタレーショナルな試みを実践しているという意味において「空間」の音楽であるのか。
 無論それだけではない。彼の「空間性」はレコーディングされた作品においてもみられるものだからである。レコーディングされた作品について考える時、ここでは通常の意味の「空間」とは異なる「音楽的空間」こそが観点となる。

 

■  時間的な時間と空間的な時間が存在している。

 音楽はその媒体の特質として紛れもなく時間芸術である。
 しかし、符は五線上を疾走するだけではない。音符は疾走すると同時に自身を堆積させていく。
 一般的に音楽の3要素と言われるメロディ・リズム・ハーモニーであるが今、私はメロディとハーモニーについて話をしている。

 西洋音楽において空間と時間という要素についての諸思考は――その時代によって様々に異なった形態をとるのだが――その音楽が多声化して以降、歴史的なものである。
 例えば古典的な音楽理論として対位法と和声法というものがある。前者は和音に関する、後者は旋律に関する諸理論である。
 しかし、ここで強調しておきたいのは空間=和声(和音)で時間=対位法(旋律)「とは限らない」ということだ。
 和声法は各和音の横の繋がりについての理論でもあるし、また対位法においても各声部間の縦の響きについては制約が常に付きまとう。

 では音楽における「時間」と「空間」の違いとは何か。
 本論では音楽的空間を「浮遊・色彩」、音楽的時間を「構成・機能」と定義する。どういうことか?
 例えば、古典派のクラシック音楽においては動機としての旋律は反復され小楽節へ小楽節は反復され大楽節へと構成的に分節される。また、和音は機能和声と呼ばれる体系に属しており、そこでは和音は各和音ごとの機能により次の和音への連節可能性を持つ。
 しかし例えば印象主義音楽(特にドビュッシーのそれ)においてはしばしば和音も旋律も、特定の響き(モード)を作りだすという目的のみのために非機能的・非構成的に用いられる。そこではある長さを持つ旋律も、決して分節され時間を紡いでいくものではなく、その箇所全体で一単位となる持続する響きのためのものとなる。そこでは和音も旋律も次の音への連節に向かって時間的構成的に機能を発揮するものではなく、その場に留まりただ聴かれる浮遊する色彩となっているのである。

 無論、一つの曲や一人の作曲家をこの2分法で完全に分けることには問題があるだろう。しかしあくまで相対的な傾向として空間と時間、テクスチャーとストラクチャーのどちらが重視されているかというグリッドは音楽を思考する上で非常に有効である。
 このことを念頭に、本課題である蓮沼執太の作品について考えてみるならば、彼の作品のいくつかには拡張された音楽的空間性とでも呼ぶべきものを見出すことができる。

彼の2012年の作品に《Hellow Everything》 という曲がある。HEADZからリリースされているCDアルバム『CC OO』(2012 )の自作解説で「中心となるフレーズが頭に浮かんでから、ずっとメロディーがループしていました。」と語られているこの作品であるが、これは主に4小節のメロディーと和声が微細な楽器法的な変化を伴いながら繰り返される音楽である。この4小節内ではいわゆる機能的な和声が進行しているのであるが、その4小節の「時間」が1単位としてここまで非発展的に反復が行なわれた場合それはある種「一つの響き」=「音楽的空間」として感じられてくる。ここで和声と旋律は徹底的にその場に留まり浮遊する色彩となっており、一つの色彩の元、それのディティールである楽器法だけが変化をしていくのである。
 ただ、これは決して新しいことではない。これはアンビエントやミニマルミュージックを参照するまでもなくラヴェルの《ボレロ》などにも見られる空間性だからである。
 しかし《Hello Everything》は新しい展開を見せ始める。
 蓮沼は蓮沼執太フィルという15名からなる室内アンサンブル的な楽団を2010年に結成しているのだが、2014年に発表された彼らのファーストアルバムである『時が奏でる』の最後には《Hello Everything》という名のトラックが入っているのである。
 ここではまた《Hello Everything》の一つの色彩の元、独特な編成の楽器の絡み合いによってさらに多層的にディティールが書き込まれている。(蓮沼執太フィルのメンバーと担当は以下を参照すると良いだろう。 https://www.hasunumaphil.com/)。
 蓮沼は《Hello Everything》のもつ単一の響きの可能性をさらに押し広げたのだろう。
 フィル版の《Hello Everything》にはメンバーである木下美紗都と蓮沼による歌と環ROYのラップが入っているのだがそれもまた空間的である。例えばラップパートは「まぶしい朝日 カーテンの隙間から光 窓あけて 外の空気 流れ込んでみつけた近くの木」などひたすら素朴に日常の空間を非物語的に描いていく。そして重要なのは曲の前半のリリックが後半でも全く変化することなく同じ様に繰り返されるということである。ここではリリックもまた物語的に発展するものではなく、一つの世界観としての色彩――あるいは「リリックのモード」とすら呼んでも良いかもしれない――となっているのである。(また環ROYに蓮沼が提供したYESでは《Hello Everything》からサンプリングが行われており、その和声感を残したままその上でラップというディティールが書きこまれている。《Hello Everything》の色彩が持つ潜在性がここでもまた発揮されているのである)。

 

■  もう一度通常の意味での「空間」へと話を戻そう。蓮沼執太フィルはライブにおいても空間を作ることを重視しているようだ。彼らのライブはしばしばフィルメンバーを取り囲むように観客が配置され、観客とプレイヤー間の空間がフラットに形成されるのが特徴である。

 

 

 この映像は一例であるがこちらを観れば分かるように、ここでは観客を含めた空間全体を一つの作品としているように思える。実際蓮沼は2014年にKAAT神奈川芸術劇場で行なわれたライブ『作曲:ニューフィル』についてのインタビューの中で「空間を作曲する」というコンセプトについて語っているし(https://magcul.net/focus/hasunuma_mohri/)、前述の「蓮沼執太のスタディーズ」においても彼は空間を含めた音響設計を行なっていたという(http://www.shift.jp.org/ja/archives/2013/02/shuta_hasunuma.html)。
 さらにライブにおいては通常の意味での「空間」と「音楽的空間」の接点として、しばしば彼らの音楽には一定の即興の余地が残されている。つまり同じ音楽であってもその「空間」の空気を演奏=「音楽の空間」にフィードバックさせ、一つの色彩であってもライブごとに微細なディティールの変化がもたらされるのである。

 『作曲:ニューフィル』では観客参加型の演奏なども行なった蓮沼執太フィルであるが、どうやら現在は新しいメンバーを加えたクリエーションを企画しているようである。
 彼らの新しい色彩をこれからも聴き続けたい。

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