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Automatic Objective Polyphony ――10年代、20年代の想像力草稿

 まず漫画『BLAME!』の話をしよう。『BLAME!』は1997年に月刊アフタヌーンにて連載が始まり2003年に連載を終了した作品である。
 10年代の想像力について論じるこの論考でなぜ90年代後半の作品を挙げるのか。それは、この作品とこの作品を取り巻く環境こそが最も10年代、そして来るべき20年代の想像力について論じるための導入として相応しいからである。

 二瓶勉(1971)はデビュー作である『BLAME!』において「モノによって駆動する世界」を描いた。それはディストピアSFの定型である「機械によって支配される人間社会」とは大きく異なる。
 『BLAME!』は、各都市の「超構造体」をハードウェアとする「システム」(そしてそのシステムはネット空間「ネットスフィア」によって制御されている)が都市環境を構築しているほどに技術が発達した未来において、「感染」により「ネット端末遺伝子」を失いネットに接続することができなくなった人間は不法移住者と見なされ、セーフガードと呼ばれる都市の防衛機構により排除(殺戮)され始めた世界の物語である。主人公である霧亥はネット端末遺伝子を持った人間を探して(人間は絶滅しかけており、その世界はポストアポカリプス的である)都市を旅していくわけであるが、重要なのは物語序盤でネットスフィアの支配レベルであり、この世界を形作っているOSである「統治局」が霧亥と共闘姿勢を取り始める点である。「統治局」によれば人間が「感染」して以降都市の「建設者」(建物を建築する機械)は際限なく都市の建設を繰り返し、その結果都市自体をハードウェアとしている「ネットスフィア」内も混乱が加速しているという(「統治局」ですら人間不在でそれを止めることができない)。
 このように『BLAME!』は、そのセリフや情感を徹底して排除した冷たい作風と相まって、「モノによって構成される世界」――それはもはや人間の似姿である理性を持ったAIによるものですらない――を最高の完成度で描いている。モノは社会を管理するのではなく、人間と関わりなく世界・セカイを作りだすわけである。

 ではなぜ、今『BLAME!』なのか? それは『BLAME』こそが10年代そして20年代の新しい想像力を先取りしていたと思われるからである。この「人間から遠く離れたもの(モノ)」への注目。本論でいうところの「固有の領域をもつオブジェクトの蠢き」は10年代に入ってから様々な領域(文学/映像/音楽/ゲーム/思想)などに見られる。近年『BLAME』が再燃していること――2015年には新装版が出版されたこと、また今年(2017年)には劇場版アニメ化がなされたこと――は何やらこのこととパラレルな現象であるようにも思えてしまう。
 次の章からは実際に10年代の想像力の例を列挙していこうと思う。無論、10年代、そして来るべき20年代の想像力についてその全容を詳細に書こうとすれば本課題に対する文量では到底こと足りないだろう。そのため、この文章は冒頭、あるいは草稿に過ぎないことを断っておく。また、当然本論が提示するこの10年代性も部分的なものでしかなく、基本的にはに来るべき20年代に引き継がれることを個人的に願っている性質のものを取り上げた。
 
 

・モノたちのセカイ ――『現実宿り』の場合

 まず10年代の文学に目を向けてみよう。ここでも「固有の領域を持つオブジェクトの蠢き」を見つけることができるだろうか。

 本章では坂口恭平(1978-)の小説作品『現実宿り』(2016)について論じてみたい。『現実宿り』は要約がほとんど不可能な小説である。冒頭は「砂」による語りで始まり、「砂」が「人間」の書いた本を図書館でみつけ、それを読むとともに砂達なりの本を書いているらしいということが示される。『現実宿り』における物語は砂たちの語りによるものと人間(語り手は3人に分かれ(ているようにみえ)る)によるものの合計4つのパートで展開されるのであるが、それらは(書く-書かれる/読む-読まれるというベケット的な問題系を仄めかせながら)複雑に交錯していく。ここで強調したいのは坂口がそこで「非人間的な感覚」を(書き手と読者が人間である以上それは原理的に不可能に思われる試みであるのだが)描き出そうとしている点である。一例を引用しよう。

 ……明日が来れば、私たちはまたどこか遠くへ連れて行かれるのだろう。それでいい。何も問題はない。人間はなぜか一人一人の感情にこだわっているように見えた。わたしたちはその理由を理解することができない。それでも毎日図書館に入りびたっている間、すこしだけわたしたちは人間になった気がした。(中略)忘れつづけ、風にどこかへ運ばれる。死ぬことのないわたしたちには、人間になりたいとは決して思わないが、それでも図書館に対して感謝を感じているということは彼らに対してなんらかの親近感を感じているのだろう。空気を食べるトカゲよりも。わたしたちはその都度、忘れながら書いているはずなのに、どこか一貫性があるのだ。(中略)人間を通じた虫の思考は、本当に虫なのだろうか。記録によると、わたしたちはつい先日、夕食を食べながらそんなことを話していたらしい。私たちは伝達している。人間に向けてと言いながら、実は砂同士の対話なのだ。(p6-7)

 一見するとここで行われているのは砂の擬人化に他ならないように見える。たしかに砂は本を読み、図書館に対して感謝をし、人間に対して親近感を感じ、夕食を食べている。しかし、ここでは砂は個人の概念を持たず、風に運ばれ、絶えず記憶を忘れ続ける存在者としても描かれている。そして重要なのは「人間を通じた虫の思考」について思索していることである。無論、「人間を通じた虫の思考」は「虫の思考」になりえない。同じく「人間を通じた砂の思考」も「砂の思考」にはなりえない。
 そこで坂口は砂の視点から人間について思索させ――そのことによって砂は半ば人間化し我々と接点を持つ――るという(不可能な)転倒をおこなうことによって「砂のセカイ」を描こうとしているのである。
 実際、『現実宿り』では人間存在もまた特殊な描き方をされており、あたかも「砂化」された(砂によって捉えられた)人間となっている。その典型的な現れとしてはこの作品では人間の「記憶」は常に失われるものであり、また砂が自己の同一性を失うように人間も自己の同一性を失い、別のもの、例えば「蜘蛛」になり、「蜘蛛のセカイ」を生きたりする。
 無機物を語り手とした文学は坂口以前から無数に存在している。しかしここで重要なのは、砂達に本を読ませたり書かせたりしているにもかかわらず、それが擬人化になりきることはなく「モノたちのセカイ」、それもそれを通して人間の知覚の外側を、砂固有の運動に基づくセカイを人間に対して示そうとしている点だろう。『現実宿り』は砂のセカイ(のシミュレーション)を通した別世界への旅なのである。

〔補足〕
 ちなみにこうした「モノのセカイ」に対してアクセスしようとする想像力は現代の哲学的潮流である「思弁的実在論」(SR)と「オブジェクト指向主義」(OOO)(ちなみにこれらの潮流は日本では10年代に入ってようやく「現代思想」などで取り上げられるなど活性化してきている。)やその周辺においてもみることができる。例えばブラジルの人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス=デ=カストロ(1951-)は『食人の形而上学』(原2014)などの中で、動物と「人間、あるいは自然と文化という概念をアメリカ先住民の世界観である「パースペクティヴ主義」によって書き換え、「多自然主義」を打ち立てた。これは人間文化の多様性を謳う「多文化主義」とは異なり、「人間」という概念を世界を把握するパースぺクティヴの起点ととらえることによって、あらゆる動物が「人間」となりうること、あらゆる人間が「動物」となりうることを示したものである。
 あるいは、オブジェクト指向主義の代表であるグレアム・ハーマン(1968-)は「代替因果について」においてヴィヴェイロス・デ・カストロと類似する思考をより抽象的な(存在論的な)形でモノに対して展開している。
 このように哲学/思想界においても非人間、「モノたちのセカイ」にアクセスしようとする試みは見てとれる。

 

・モノたちの運動 ――『ハンドシェイカー』の場合

 次は10年代の映像に目を向けてみよう。ここでも10年代の映像作品に「固有の領域をもつオブジェクトの蠢き」を見つけることができるだろうか。

 本章ではテレビアニメ『ハンドシェイカー』について論じてみたい。『ハンドシェイカー』は2017年の1月から3月まで放送されたテレビアニメだ。原作GoHands・Frontier Works・KADOKAWAの共同によるもので、監督は鈴木信吾・金澤洪充の両氏が務めている。
 物語の内容は、神の啓示を受けた二人組「ハンドシェイカー」(何組か存在する)たちがそれぞれの願いを叶えるために、手を繋ぐことによって特殊能力「ニムロデ」を用い闘い合う(最後に残ったものが神にまみえ願いを叶えることができるとされている)といったものである。
 こうした設定は宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で分類したところの「バトルロワイヤル形式」あるいは「決断主義」的なものとみることもできるだろう。
 また、主人公「高槻手綱」のペアである「芥川小代理」は特殊な体質故にハンドシェイカーの資格を失う――ハンドシェイカーは闘いに敗れると資格を失う――と命を失ってしまうという設定メインヒロインだけが命の危機に晒され、本当の殺し合いという意味での「戦い」に参加していること)や、闘いぬくことによって願いがかなうというこの作品の設定は神の啓示という形で声によってハンドシェイカーたちや視聴者に知らされたにすぎないこと――この設定には根拠がなく、登場人物たちも半信半疑であると同時に物語の最後までその真相は明らかにならない――や、願いがかなうという壮大なモチーフに対する主人公の願いが「芥川小代理を救うこと」――主人公たちは物語のある時点で恋愛関係になる――をもって「バトルロワイヤル形式」以前の「セカイ系」作品とみなすこともできるだろう。
 しかし、ここではそのどちらの読みも退けたいと思う。この作品の物語は確かに「ゼロ年代的」である。しかしこの作品の映像は明確に新しさを備えている。

 

 

 この公式PVだけでは分かりにくいところもあるかもしれないが、映像を観て分かることは画面内にて常に何らかのマテリアル、つまりモノ(それもしばしば複数の個体や種類のモノ)が自律的に蠢いているということである。
 戦闘シーンなどは明確に、もはや起こっている現象の細部を人間の処理能力では捉えきれないほどの塵や光の情報量で埋め尽くされている上、何気ない日常の会話が行われるシーンでも金属に反射して粒上になった光が――カメラは動いていないにもかかわらず――滑るようにその表面を動く。そして重要なのは、これらがそれぞれ固有の動きを別々に行っていること、およびおそらく光の点滅や塵のいくらかはVFX用のソフトウェアにおいて乱数でもって動きを決定されていることである。それぞれのマテリアルは別々のパラメーターでもって制御されており、戦闘によって飛び散る塵などはある程度制御されつつも乱数(不確定性)を用いて、つまり人間の想像力や技術力を超えてモノたちが蠢いているわけである。この「乱数」は芸術音楽における電子音楽や実験的な映像作品などではしばしば頻繁に用いられてきたものであるが、これからよりポピュラーな領域においても鍵となってくる要素だろう。
 『ハンドシェイカー』の物語は主人公の口癖「噛みあってる」から分かるように、登場人物達の心理的なやり取りを重視した作品であるが、映像においてはそれぞれのオブジェクトが従来の形では「噛み合っていないこと」、しかしその噛みあわないオブジェクトが制作者の意図によって噛みあわなさを残したまま作品に昇華されていることが重要な点である(元々アニメーションは(自主制作アニメやインディペンデントな芸術アニメ―ションを別として)共同で作るものである。むしろ高次の「噛みあわなさ」はアニメーションのメディウムスペシフィシティであり称賛されるべきものであるとすらいえるかもしれない)。この噛みあわないが一つの作品として成立している映像については、本作9話において(今まで能力が顕現しなかった小代理にニムロデが生じて)手綱と小代理が共に力を合わせて闘うシーンにて、敵対するハンドシェイカー「阿波座こだま」が語るセリフ「二つの世界が交じり合わずに、でも一つに……これが君達のニムロデ!?」に物語の意図とは関係なく表されている(と読むこともできる)と言えるだろう。(ちなみにこのセリフが発せられるシーンの背景は、手綱と小代理の力によって視覚的に二つの世界に分裂している)。
 モノたちのポリフォニーともいえるようなこの映像は近年のアニメ制作における3DCGの大幅な導入によって成立している。(本作品は人物などの作画は従来通りのアニメーターによる手作業によって行われているが、『楽園追放 -Expelled from Paradise-』(2014)や『けものフレンズ』(2017)など人物を含め3Dを用いて制作された作品が近年ヒット作となっている)。
 ただ、この作品は3DCG技術を過剰に用いている拙さがあるといえなくもない(実際ネット上には「画面がごちゃごちゃしていてみにくい」といった趣旨の批判が散見される)が、技術に基づく10年代以降の新しい想像力の系譜において重要なポジションに位置づけられるといった意味で『ハンドシェイカー』は3DCGの導入以後のアニメ制作における記念碑的作品といえるだろう。

〔補足〕
 ちなみに、この「様々なモノが人間の処理能力の限界を超えて動きまわる」感覚は広い文脈で新しい想像力として見うけられる。佐々木友輔は『人間から遠く離れて ザックスナイダーと21世紀映画の旅』(2017)の第2章第1節「速度の映画について――マン・オブ・スティールに触れる」において、ゼロ年代後半にマイケル・べイ監督の『トランスフォーマー』によって「トランスフォーマーの変形、ビルの破壊によって飛び散る破片や粉塵、爆発や燃え上がる炎、戦場を駆けまわる人びと、カメラに射し込む光(レンズフレア)、極端なローアングルと高速度の「寄り」を多用したカメラワークなど、様々な位相にある具体的な運動が、それぞれが独立しつつ、一つの画面上にかさね合わせられた結果として現れてくる」(p82)映像が開拓され、ハリウッド映画においてこういった想像力が『G.Iジョー』(2009)などに受け継がれ働いていることを示している。
 このことはゼロ年代と10年代に明確に線を引くことの難しさを示している。私個人としてはこのことを持ってこういった技術や想像力を10年代的ではないとするべきでなく、むしろゼロ年代後半にて用意されていたものが10年代に入りより成熟していっているとみなすべきだろうと考える。佐々木はベイのこうした技法の集大成を『トランスフォーマー/ダークサイドムーン』(2011)に見出している。

 

・モノたちのポリフォニー ――『async』の場合

次は10年代の音楽に目を向けてみよう。ここでも10年代の映像作品に「固有の領域をもつオブジェクトの蠢き」を見つけることができる。
 本章では坂本龍一が今年(2017年)に発表したCDアルバム『async』について論じる。といってもこれについては基本的な論旨は前章において『ハンドシェイカー』 を論じたものと同形である。『async』においてはさまざまな環境音や電子音、楽器音がそれぞれのオブジェクトとしての輪郭を保ちつつ、タイトル通り非同期的に展開される。ここで重要なのは音色としての各オブジェクトが混じり合ったり、単一の閉じたリズムを形成すること(例えば3拍子と4拍子が12拍目で一致して1周期を作るといった)を極力避け一つの作品を構成するように配置されていることである。(この点でスティーヴライヒの「フェイズ・シフティング」とは異なる)。
 これは坂本龍一の前作のCDアルバム『アウト・オブ・ノイズ』(2009)と真逆のアプローチである。例えば
 むしろ坂本龍一の試みはピエール・シェフェールのような初期ミュージックコンクレート作品と部分的にリンクしているといえるだろう。それは、つまり世界に溢れる「オブジェクトとしての音」への注目である。
 坂本龍一はオブジェクトとしての音が我々にもたらす感覚的性質を他の音と隣接させ、オブジェクト感のポリフォニーを作りだしていく。それはもはや対位法的なそれではなく文字通りの複数の響き、そしてその間に生じる無数の感覚的性質や関係性を媒体とした結びつきである。その美学はグレアム・ハーマンの「魅惑」の概念に近いものかもしれない。

[補足]
 もはや時間はあまり残されていない。その他。オブジェクト=非人間への注目とAI=人間の似姿が人間の芸術の領域にもたらすものとの関係性についてモジュラーシンセブームについて。モジュラーシンセは各部位がオブジェクトとして独立している。各自がそれらを組み合わせて一つのシステムを作る。出口はあるが中心はないシステム。
 MAX/mspについて。ver7よりつくられた仮想モジュラーシンセの機能。

・その他のメモランダムあるいはモノと社会的状況

 もはや時間はあまり残されていない。例えば『マギアレコード』。テレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』と『劇場版魔法少女まどか☆マギカ〔新編〕反逆の物語』においてゼロ年代的な要素(テレビアニメにおいては「セカイ系」や「ループもの」。劇場版においては2次創作のデータベース群の公式へのフィードバック。つまり『動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』によって扱われていた初作品の想像力)の総決算を行なった「魔法少女まどか☆マギカ」シリーズは『マギアレコード』によってソーシャルゲーム化した。「ガチャ」の実装されたソーシャルゲームは10年代に入り爆発的に人気を博したゲーム形態である。「ガチャ」はキャラクターを物象化する。同じキャラクターを二人以上含めたパーティーによる戦闘すら行われる。これにはSNSにおける他者の生のリスト的所有(Twitterのフォローとタイムラインにおいて顕著である)との相似性が見られるのではないか? マギアレコードでは手に入れた魔法少女の物語を本編の物語とは別に進めることもできる。ゲームをプレイする私の時間に偶発的に介入する、手に入れた他者の生の時間。新しい創作物の時間のありかた。また『ダークソウル』シリーズ。各プレーヤー固有の世界への侵入。部分的な開かれ。外国プレーヤーとの時差。時差をもちつつもそこにログインすれば同時に進行する世界への介入。異世界とは違った複数の世界の在り方。

 

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