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「絵画」と「インスタレーション」の時間

 現在という時制を見定める作業は困難を極める。他の何ものでもない現在とはいまのここに生起する時間であると指し示した瞬間にその対象は過去の遺産へと様変わりしてしまうからだ。私たちは抽象的概念としてあるいは具体的な実感として現在という不確かな時制の手触りをかすかに感じながらも、確かなその輪郭線を描けずにいる。過去も未来も直接的に生きることもできず、現在においてしか生きることができないにもかかわらず、常に私たちは現在を捉え損ねているのだ。もちろん、現在の把握とは実体化しえず、端的に夢想的であり、真に思考するに値しない事象なのかもしれない。現在よりも過去や未来についての思考の方が多様であるし、世俗的な人生哲学においても有用性があるだろう。自らの過去を反省し、未来に希望を託すというストーリー仕立てはあらゆる局面に当てはめることは想像するにたやすい。

 しかし、一方で現代ほどに現在という時制の効用が、他のどの時代に比べても強力に働いている時代はない。いや、正確には近代がすでにそのような時代であったことを思想家シャルル・ボードレールは前衛芸術家の精神を射抜く形で指摘している。彼が記述するところによれば、現代性とはうつろい易く、一時的である現在を歴史の永続性をその反面として合致させて初めて表現されうるものである。長い歴史画の時代を経た19世紀後半の近代(モダン)の精神は彼らが生きている、まさにその実感の中心にある現在をいかに捉えるのかという挑戦にあったのである。本稿ではこのような近代美術史における現在(時制)の把握とその延長線上にある現代小説の実験を批判的に確認したうえで、現代美術の中心に位置する「インスタレーション」という新しい空間芸術の形式に潜在する時間性について考察する。

 美術史の話に戻そう。ボードレールの指摘する現在についてである。例えば、エドゥアール・マネの歴史的なコンテクスト上に重ねられる世俗的なモティーフや印象派の光学的な一瞬の知覚の点描による描写は、互いにモティーフと方法という異なりはあるものの、現在を歴史的遺産である絵画空間の主人に据え変えようとする点において共通している。マネの塗り残しや印象派の中でもクロード・モネの《日の出・印象》に見られる筆触の集積は現在という瞬間の時間を捉えることによって、必然的に導かれた空間的な希薄さであるだろう。絵画の表面に本質として宗教/歴史的な物語を覗き込むという伝統的な絵画の構図に対して、ボードレールのいう近代芸術は本質という深層を排した上で、表層という美的次元を発見したのである。

 では、彼らは現在を掴むことに成功したのか。これらは芸術、それも絵画に限定した議論であるが、問うてみよう。彼らは成功したのか。答えは端的に否であるほかないだろう。むしろ、最初からそれは解決不可能なアポリアを包含していたことが明らかになったと言える。なぜなら、私たちは絵を描く際に、その対象を見ながら、自身の筆先を見ることはできないからだ。したがって、画家は対象の現在をたしかに認識しえたとしても、それを絵画面に落とし込む時点では原理的に過去の対象の描写にならざるをえない。言い換えれば、現在とは認識された素材から事後的に再構成されたもの、つまり「遅れ」の経験なのである。当たり前すぎるかもしれない。ただし、現在を捉える上で、よりいっそう困難な要請はこのあとに存在する。もし画家が対象の現在を認識し、部分的にでも表現しえたとしても、鑑賞者(制作後の画家)からすると、それは過去のある知覚として認識されてしまうということだ。語彙矛盾を承知で表現するならば、現在を描くだけでは、現在を描くことができないのだ。画家が現在を描き込むことと鑑賞者がそこに現在を認識するという二つのレベルにおいて、現在を捉える困難は存在している。言うまでもなく、前者は原理的に不可能であるために、前者を回避して、後者を可能にする方法はないか。そう考えることが困難ではあるが、妥当な策として挙げられるだろう。そして、実際にそのような画家がいた。近代に遅れきた画家ポール・セザンヌである。要言すれば、セザンヌの問題系は鑑賞者が見るたびに現在として知覚/認識される絵画の可能性についてである。

 ここまで近代絵画史を振り返りながら、現在の把握の困難について確認してきた理由は、実のところ、ある短編小説について論じるためであった。短編の中でもきわめて短い部類に入る磯崎憲一郎の小説。「絵画」は小説内の世界を描写する視点と、主人公といってもいい橋の上から川の水面を覗き込む画家、そして後半部に姿を表す女子高生の視点が区別されることなく、リニアに連続する独特の視点と自然描写を持つ作品である。驚くべきは視点のある位置よりも距離をやや隔たった対象に対する解像度の高い描写である。

「本当のハチ、マルハナバチがハルジオンの花の上に降り立とうとするそのとき、川面から舞い上がる少しばかり強い風が吹いて、全身黒毛で覆われた醜い虫は花から拒まれてしまう。だが簡単にハチは諦めない。右に逃げる花を追い回して、花びらを二つの前足でしっかりとつかむと、急いで羽をたたみながら、大きな頭を花弁の奥深くまで突っ込んで蜜を吸う」(p.114)

 この視点は通常の人間の視覚能力と比較すれば、明らかに見えすぎているが、超解像度の遠い対象への視点に関しては本作において多用される「間/あいだ」という表現にも注目すべきであろう。例えば、それは最初の4頁で6度使われている。特に冒頭4行のうち2度使われる「あいだに」が印象的である。

「花の朱色と枝葉の黄緑色のまだら模様の「あいだに」埋まるようにして小さな木製のベンチが置かれている。いまはそこに誰も座っていない。ゴム製のサッカーボールがひとつ、ベンチの座板と赤土の地面の「あいだに」窮屈に、変形してもう二度と元の姿には戻らないほどに無理やり押し込まれている」(p.111)

 どの小説にも登場する些細な記述だろうか。しかし、本作と「間/あいだ」表現の間の必然的な結びつきは後半部、突然に会話文として挿入される「地球の歴史」を解説する際に確信される。曰く、46億年前に誕生した地球は「しばらくするとコアが外核と内核」に、マントルは「上部マントルと下部マントル」に、地殻は「大陸地殻と海洋地殻」に分かれるという「分化の歴史」であり、さらには宇宙や生命も「分化の歴史」であった。生命の延長にはその生命が作り出した小説も含まれるかもしれない。つまり、極大の宇宙と極小の小説はもともと同一だったものが二つに分化し、その間が開示されることの繰り返しの歴史をもっているのだ。

 「この間」という時間的な同時性を小説のリアリズムとして捉えたのはベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』であった。異なった場所にあるかもしれない見ず知らずの二者の関係を「この間」という表現一つによって、同時に起きている/いた出来事として記述する方法の発明とその読解を可能にする読者の意識の変化にアンダーソンは「国民意識」の発生を指摘している。ナショナリズムを生み出す国民意識の成立が、近代に生まれた小説のリアリズムを準備したのだ。「この間」が抽象的な時間概念の共有の元にあったとすれば、空間の「この間」を描出しようとした画家がセザンヌであった。例えば、このような作品(図1)実践に見ることができる。

《レ・ローブの庭》、1906年

 小説「絵画」は小説特有の時間的な「この間」のリアリズムを前提としながら、空間的あるいはセザンヌ的な「この間」の描写に成功しているだろうか。結論を先回りすれば、空間的な「間/あいだ」の描写には失敗している。というより、描写の原理的な不可能性を驚くべき手法で表現していると言えるだろう。具体的には「絵画」の大部分を占める画家のシーンに目を向ける必要がある。

 画家は登場の初めから終わりまで川に架かった橋の上にいる。
高解像度の観察の最中に、突如として画家に向かって「ハト」が来襲してくる。スローモーションのように過ぎる時間とその経過にしたがって最終的に11羽まで数を増すハトの出現本作のアクロバットな「間/あいだ」の表現なのである。

 「ハト」はなぜ突如として来襲したのか(あるいはそのように感じられたのか)。それは引用部にある「川面を覗き込む」という表現と実際の描写の間にある違和感に代えて説明できるかもしれない。「覗き込む」と書いた後の描写を見てみると、「人間の目には流れているようにも見えない、のっぺりとした水のなかを巨大な黒いコイが何尾も、いや何十尾もうねるように、とぐろを巻くように泳ぎ回っている」(p.116)と続いている。これは水底の様子の描写である。他にも「眼を覗き込む」という使われ方もあるが、同様に深層部に当たる表現が続く。ここで一つの疑問を呈することができる。「画家の視点は遠い空間と近い空間に引き裂かれているのではないか」という問いである。

「絵画」の「覗き込む(深淵への関心)」と「(表層への)無関心」

「川面を覗き込む/眼を覗き込む」に対する違和感→表層と深層へ向かう視線の併置

普通は水面は眺めるもので、覗き込むものではない。モネの睡蓮の絵画を思わせる描写である。実際にモネは自宅に日本式庭園を再現し、池に橋をかけ、その上から水面を眺めながら、有名な睡蓮の絵を描いていた。

画家の視点→遠く/深層を認識し、近く/表層を見逃す(ハト)
表層への無関心というより、近いものを覗き込むことができない。
「覗き込む」という作法が通用しない。
モネの睡蓮(表層の時間的推移と深層の不動の空間的な二層関係の描出)
小説自体が2層構造になっており、表層への無関心によってリアリズムが支えられている
この小説世界では遠い空間が高解像度で知覚される代償として、近い空間がその物理的な連続性を失い、不可視の領域になっている。単眼鏡を覗く鑑賞者が、隣の鑑賞者の存在に気付かず、
不可視の近さと超可視的な遠さのズレ=不一致から、あの「ハト」が画家に向かって突撃するのである。

「間/あいだ」の欠如から生まれた「ハト」なのである。つまり、その意味では「間/あいだ」を描くことに新しい仕方において失敗していると言えるだろう。

セザンヌの問題系、すなわち遠さと近さの同時併置は、現在の認識を生み出すために、セザンヌが採用した方法である。どういうことか。

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