印刷

「意志」をめぐる過去と現在と未来について

 中学二年ぐらいの時だったか、詳しくは覚えていないが、おそらくいつも一緒に下校する友人をその日は少し待たせてしまったことがある。私は軽く「ごめん」と謝り、友人も何の気なしにいつも通りの会話を始めた。歩き始めて、少し経ってから、私は自分の中で、さっきの「ごめん」には本当に謝罪の気持ちが込もっていたのだろうかと疑いの自問自答を始めた。そして、謝罪の意がこもっていなかったと思い、話を遮って、もう一度「ごめん」と言ってみた。友人はさっきと同じようにさらりと受け流している。ただ、その時の私にとって、友人の受け答えや気持ちはもはや関係がなかった。そうではなく、謝罪の意がどうしても「ごめん」という言葉に入れることができないことが問題であった。結局、もう一度ぐらい「ごめん」といったところで、友人の家に着いてしまい、私たちは別れてしまった。なぜ、私のこうしたいという意志は言葉となって現れないのか。

 同じような問答は今でも経験するが、大学受験前かそのあたりの時期に私はある解決策を発明した。それは「ごめん」という言葉に謝罪の意がこもっていたかどうかは、今の私ではなく、未来の私にその判断を任せようというものである。今まさに「ごめん」と言おうとしている私が謝罪の意の有無を判定することはできないと割り切ったがゆえの解決策、というより保留策に近いものだ。私はそれ以降もこの方法を使っている。ただ、実際のところ、いつかはわからない未来の私はかつての「ごめん」の意などはすべて忘れている。だから結局は、現在の私も未来の私もそこにどのような意が込められていたかを決定する時は来ないのだろう。

 一体、意志とはなにものなのか。『中動態の世界』はまさにその問いに答える哲学書であった。

 國分は本書の中で、言語学的な能動態/中動態の対立関係から能動態/受動態への移行に意志の発生をみている。というのも、「する」か「される」かで行為の意味を判断する能動/受動の関係はシンプルに「この行為は誰のものか?」という行為の主体を明らかにするとともに、その主体の意志の表れとしてあらゆる行為を認識するからである。中動態から受動態への些細な文法上の変化を國分はこう言い換えている。「出来事を描写する言語」から「行為を行為者へと帰属させる言語」への移行と。魅力的かつきわめて大胆な言い換えである。なぜなら、描写から所有=私有する言語への変化は、私たちが言語と同じように発明し、古代より慣れ親しんできたもう一つの無形文化遺産「イメージ」に対する言明のようにも読めるからだ。私は國分の「中動態」論を言語とイメージにまたがる研究として考えてみたい。

 整理すれば、言語/文法において描写の言語から私有の言語への変化は行為を所有している行為者の意志の概念を生み出した。「ある行為はある人の意志のもとに行われた」という一般的な認識は能動/受動による意志の所在とそこから派生する「責任」の二つによって成り立っているのだ。たとえば、仮に意志という概念を抜きにしてしまえば、すべての責任は誰に負わせることもできないものになってしまうだろう。描写から私有へのパラダイムチェンジは私たちに意志と責任という概念をもたらしたのだ。

 では、もう一つのイメージの場合はどうだろうか。私見では言語よりも描写と私有(collection)に長けているが、ここで古今東西のイメージについて扱うことは身に余る。ただし、西洋に限ってみれば、人間がイメージを捉える原初的なシーンは、悲しく美しい最期を遂げる「ナルキッソスの神話」をその一つとして挙げることができるだろう。


 神によって自らだけを愛するようにされたナルキッソスが山の泉に水を飲もうと近づいたとき、彼は水面に美しい青年を見つけ、一瞬で恋に堕ちる。その後の展開には諸説ある。見とれているうちに痩せこせ餓死したというものや美しい青年に口づけしようとして、そのまま水死したものなど。いずれにせよ、水面に描写された青年を恋からついに我がものにせんと欲したことによって、当の美しい青年であるナルキッソス自身が死を迎え、そこには水仙が咲いたという神話である。一例ではあるが、この神話では、描写はすぐさまに私有であり、私有はすなわち対象の喪失に結びついている。イメージにおいては描写は私有を意味するとともに、ここを見逃してはならないが、同時に対象の喪失が生じている。所有/私有とは対象の喪失を伴う行為なのである。そのような対象の喪失に裏打ちされたナルキッソスの神話は「表象=リプレゼンテーション」の祖型であり、長らく西洋美術史はもとおり、イメージ学全般に適応可能な鑑賞モデルとなってきたが、イメージ同様に言語が名詞的な世界描写から文の主体である主語へと帰属する動詞的な世界所有へと移行したとすれば、ある行為を所有する言語において、喪失/抑圧されたものは何であろうか。完全に消えたわけではないだろう。必ずや、抑圧は回帰してくるはずだ。

 能動/受動的な私有に由来する意志について。まずそれが確固たる概念として中動態から受動態への転換期に誕生したと考えるのは誤りであることを確認しよう。マルティン・ハイデガーやハンナ・アーレントの意志批判の詳細を追うことはしないが、私的にまとめれば、意志の不確かの原因はそれが未来と同時に過去を意味するという両義性にある。英語の意志=willには未来を示す助動詞の他に名詞としては「遺書」という意味がある。受験勉強でも暗記した覚えがあると思うが、この意志による未来と過去、あるいは事前と事後の二重の意味が一般的に使われる意志という言葉の不確かさの原因である。だからこそ、人はある人に意志があると仮定したとしても、事前にはその意味を確認できないために悩むことになるのだ。中学時代の私は未然に行為の行為者を決定することはできないという不可能性に思い悩んでいたと理解することもできるだろう。遺書の話に戻せば、本人の死後に遺書を開くとき、すでに行為の主人を喪失しているために示された意志は残された親族ががそれぞれの判断において理解するほかない。とすれば、意志の不確かさとは意志が記号的なものであることをも意味するのはないだろうか。例えば、最近の言葉で言えば、「やりがい搾取」が挙げられる。具体的な物の生産/製造は有限であるが、意志は過去の無数の選択から事後的にいくらでも導出可能である。意志も物ではないために記号と同じようにいくらでも搾取できてしまう。それゆえに、意志の不確かさのもつ構造とは実のところ記号消費の構造と同型なのである。消費である限りにおいて、私たちは常に退屈しつづけることになるだろう。「ファイトクラブ」のタイラーのように。彼は記号化された意志の典型のような人物である。話を戻そう。

 能動/受動と意志の世界を私有するという再現モデルが必然的に喪失し、抑圧したもの何か。これが最初の問いであった。何かを私有しようという恋のような欲望から始まる「ナルキッソスの神話」は再現表象的なモデルの根源であること、そして、イメージ同様に意志を示した遺書は対象を喪失した後に発見されることは先ほど述べておいた。描写から私有という再現モデルの始まりと徹底はヴァルター・ベンヤミンの指摘する通り、オリジナルとコピーの区分を喪失し、記号と呼ぶものに直結する。対象を持たなくなった表象とは記号のことである。したがって、抑圧の一つ目に考えうるものはあるイメージが元のオリジナルと分かちがたく結びつくことで成立するオリジナル=イメージという特異なモデルであろう。それを美術史では伝統的に「イコン」と呼ぶ。

 再現/表象/記号とは対照的な「イコン」について。もともとは、ヴェロニカという女性が十字架を背負いゴルゴタの丘を登るキリストの顔の汗を拭おうと布を差し出したところ、その布にキリストの顔が全くそのままに転写された聖布顔に由来するイコンは、神の顔を直接写し取ったものゆえに、画家によって描かれた聖書の物語画よりも神通力の強いものとして、人々の病を治癒するイメージとして使われたという逸話が残っている。20世紀初頭のロシアのパーヴェル・フロレンスキイという宗教思想家によれば、イコンとは「プロテスタント的造形」と「カトリック的造形」の共在にある。どういうことか。貝澤哉の解説を参照すると、プロテスタントとは現実の出来事を客観的に合理的に捉えるグラフィック(線描的な)積極性であり、カトリックとは油彩のマチエールのような肉感的な身体性を受けいれる受動性を意味している。この両方を同時に可能にするイメージこそがイコンなのである。能動でもあり、受動でもあるというまさに中動態的なイメージとして再現モデルとは異なるイコンを考えることができるだろう。

 ただし、フロレンスキイが扱っている対象はロシアの東方正教会におけるイコンであることを考えれば、逆説的にほとんどの領域においては再現モデルが支配的であるという結論にもなってしまうだろう。確かに、抑圧された非-再現モデルは生き残っている。しかし、それは神学のごくごく狭い領域においてであるが、といったように。果たして、そうだろうか。

 ここまでの再現モデルとイコンまでの流れを少し別の視点から要約してみよう。本稿では冒頭から行為の「所有」と結びつく「意志」における「時制」を問題化してきたと言えるだろう。例えば、再現モデルは喪失した対象を事後的に認識すること(=過去時制)、またイコンはいまここに神を認識すること(私と神の一致)=無時間性をそれぞれの時制としてもっていたと。現在を起点として、過去に目を向けるか、それとも時間から超越し、無時間性を獲得するのか。おそらく最後に考えるべきは、抑圧されたもう一つのモデルについて、神学ではなく、より広い領域に見られる非-再現モデルであるだろう。

 私はここでイコンとは別のモデルとして、ポピュラーカルチャーにおける「キャラクター」を挙げたい。もちろん、すぐさまに反論があるだろう。再現モデルを極端化した記号消費の高度な組み合わせによって成立するものがキャラクターであり、その意味でキャラクターとは全くもって再現モデルの代表例であると言うべきであると。確かに、そのようにしてキャラクターを理解することもできる。しかし、だとすると、古くはコラージュ、ポストモダンにおける芸術実践としてはアプロプリエーション、シミュレーショニズムの作品らと構造上見分けのつかないものとなってしまうだろう。問題は言い換えれば、アプロプリエーション/シミュレーショニズムとキャラクターに差異はあるのかということだ。

 美術批評家のクレイグ・オーウェンスは「アレゴリー的衝動」でシンボルとアレゴリーを区別している。分かりやすく言えば、シンボルとは内容と形式が一致しているイメージのことであり、アレゴリーとは注釈のように先行の意味を変更させていく代補のようなものである。オーウェンスによれば、1980-90年代、映画や雑誌など多様なメディアから盗用されてきたイメージ群のカットアップ/リミックスによって制作されたアプロプリエーションはアレゴリー的なものとして理解される。ベンヤミンの歴史の天使を参照すれば、アレゴリーとは残骸となった過去の事後的な発見だと言えるだろう。つまり、アプロプリエーションにアレゴリーを指摘するオーウェンス/私たちの視線は過去に向けられているのだ。また椹木野衣は『シミュレーショニズム』において、アプロプリエーションの手法的な分裂症を敗戦後の引き裂かれた日本人のアイデンティティに重ねることで、その相性の良さを指摘した。したがって、アプロプリエーション/シミュレーショニズムとはアレゴリー(=過去時制)+スキゾ(=分裂症)と考えることができる。

 1990年代を経て、2000年代に入ると、日本ではキャラクターを作品の一部に取り込む若手作家たちが現れ、その動向は今もまだ続いているが、彼らの使うキャラクターとはどのようなものなのか。美術史家の松下哲也は西洋美術史におけるキャラクターの造形的な分類(=観相学)にまで遡り、その端緒にライプニッツ的な可能世界論があることを指摘している。キャラクターの造形とは現実には存在していないが、「現実の世界の諸要素を「発見(invention)」し、破綻のない論理として結合させる組み合わせの技術」のことなのである。この操作は「このようにもありえた」という過去に向かうのではなく、今みているキャラクターの図像がいかようにも分解、再構成されうるという、未来の状態を現在と同時に透かし見るようにできている。再現モデルの根源がナルキッソスだったとすれば、キャラクターモデルの根源は未然的に変容可能な要素の集合として、例えばある顔貌を未来時制のうちに認識する経験にこそあるのかもしれない。これが『シミュレーショニズム』からちょうど10年後の2001年に出版された『動物化するポストモダン』において東浩紀が提起した「データベース消費モデル」の時制である。したがって、過去時制のアプロプリエーション/シミュレーショニズムに対して、キャラクターとはその誕生からして、未来時制を孕んだものだったと言えるだろう。

 時制という観点からみれば、行為の私有から事後的に仮定される意志の概念はイメージとして再現モデル(=過去時制)にあたり、その代償として、喪失されたものが一方で神学的なイコン(=無時間性)であり、他方で、可能世界的なキャラクター(=未来時制)であった。いまから思えば、中学時代のある病的で私的な問答は、未来の主体に意志を仮に託す行為であり、いまここの現象に未来の可能性を重ね見る一つの実践だったのかもしれない。意志をめぐる、過去と未来の時制間の移動は現在の窮屈からの解放をもたらすはずであろう。

 

 


参考文献

・クレイグ・オーウェンス「アレゴリー的衝動」『ゲンロン1』genron、2015年

・國分功一郎『中動態の世界』医学書院、2017年

・松下哲也『ヘンリー・フューズリの画法』三元社、2017年

 

文字数:5777

課題提出者一覧