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批評とは何か——「すれ違い」と「地図」から考える——

 批評再生塾は一度、死を迎えた批評を再度、生み出していくという目的を持ったスクールであるが、その死の意味はこうも考えられるだろう。「批評」は死を迎えたというよりも、様々な場所に徹底して遍在化したために、その総体が見えにくくなっているだけではないかと。文学、美術、演劇、音楽、あるいはインターネット上のサービス等々。それは、私たちの元に日夜降り注いではいるものの、その粒子が細かすぎるために、実態としてそれが何かを把握することの難しいものたちの遍在化である。とすれば、現代において遍在化した批評性を発見していく作業こそが、批評の総体を再生する試みとなるはずだ。本稿ではその上で「批評とは何か」を定義してみたい。

 なぜ批評の総体が見えづらくなったのか。一つの要因は1989年の冷戦崩壊後、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」に良くも悪くも象徴される、世界/社会の全体性を確保する視点の消滅と多文化主義への舵取りの変化による大きな物語の終焉といった政治/社会的なものであり、またそれと同時進行した批評対象となる芸術作品のジャンルそのものの融解である。モダニズム以降のジャンルの自明性が限りなく溶け合い、何が文学批評で、何が美術批評なのか定義しがたい状況になった。つまり、個別の作品分析を目的とした批評へと主眼がシフトしていったのである。その意味で、私たちはまず大枠ではマイクロな作品を対象とした批評の時代を生きている。少なくとも、そのはずである。

 では、そこで言われる批評とは何を意味しているのか。少し、問いを言い換えてみよう。もし、ある書物が批評だとすれば、批評の条件とは何か、と。例えば、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』は現代の主体像とは観光客的なものであることを提起したものであり、佐々木敦『新しい小説のために』は、現在の日本の小説の描写と人称の使用において、何が起きているのかを映画、絵画などの他ジャンルの形式との比較を通して、明らかにするものであった。あるいは國分功一郎『中動態の世界』は、哲学研究書ではあるが、言語学的な分析を介して、能動/受動ではない中動態的な主体のあり方を古代ギリシャまで遡り、再生させる試みであった。もし、この三冊が批評的なテキストとして読まれているとするならば、これらに共通する問題意識が、批評を定義する一つの視座になりうるはずだが、それは何であろうか。

 おそらく、それはわかりやすく「現代とは何か」という問いに応答することではないか。正確に言えば、現代における「主体」とは何かという問いと固く結びついてるのではないか。いま、現代という言葉を使ったが、それはいまの私が属する「同時代」と言い換えてもいいだろう。上記の三冊は、同時代における観光客、読者、患者といった主体像の変容とある種の処方箋を提出している。したがって、批評の条件とは「現代の主体像」についての思考と言えるかもしれない。もちろん、それは同時代の読者の主体性へとおのずと反射し、反映されていくものであり、さらに付け加えれば、この点は哲学や美術史の研究論文とは大きく異なる批評的な一つの評価軸でもあるだろう。

 しかしながら、それは容易に、現状の再認に陥りかねないことも事実である。同時代の人々に共有されている時代イメージ/主体イメージの輪郭をなぞり直すことで、読者にある安心感を与える装置になる可能性を大いに含んでいる。きわめて具体的にほとんどの自己啓発本はそのような構造を取っている。目指すべき隠れた自己イメージという分かりきったイメージを反復、強調し、サービスとして手を変え品を変え提供すること。それらは受容者/マーケティング分析の対象になるべきものであるが、これは批評文に限らず、現代性を問う、すべての芸術作品のもつ可能性であり危険性である。冒頭で述べた、遍在化した批評を感じさせる作品/書物の中でも、そのような傾向が見え隠れする。

 例えば、美術の領域をはるかに乗り越えてポピュラリティを国内外に問わず得ているウルトラテクノロジスト集団チームラボ。彼らの高度なテクノロジーに裏打ち、構築された余白のある空間において、複数の参加者が映像を通して見知らぬ他者との間にインタラクティビティを同時多発的に生成させ一時的な共同性を生み出す作品群は、多くの場合、デザイン性やプログラムの完成度の高さ以上に、もはや自然と化したテクノロジーの無意識的な媒介によって、集団的な人同士のつながりを生み出していく、言い換えれば、「関係性」構築の方法論の新しさにおいて評価されている。また、代表の猪子寿之自身も同様のことを様々なインタビューで答えていることも確かである。しかしながら、美術における「関係性」という観点からすれば、チームラボのそれはそれほど新しいモデルということはない。なぜなら、美術理論家クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」によるニコラ・ブリオー批判と同様の批判がそこでは適用できるからだ。

 どういうことか。ビショップはブリオーが90年代の「関係性の美学」と一括りにする作品群が観客の多様性を標榜しつつも、結局のところ、ギャラリーや美術館に足を運ぶ限りにおいて、価値を同定しあえる人同士の関係性であり、本来、民主主義に包含されていなければならない「敵対性」の契機が初めから排除されている構造を批判している。チームラボの作品も同様に参加する観客同士が互いに交換可能な身体性をフィクショナルにでさえ体験し、互いを同質性、同類性へと収斂していく構造を持っており、そこで「敵対性」を意識することはほとんどない。また、さらにビショップの評価する「敵対性」を孕んだ作品にも存在する「関係性」構築の問題が、チームラボに指摘できる。それは、同質性を仮想させる空間とともに、時間的な限定性にある。一言でいえば、いまここの参加者のみが関係性を結ぶことができる点である。同質性であれ、敵対性であれ、現在における関係性を前提としているのことは、チームラボ以前もそうであれ、以後もそうであると言える。つまり、チームラボの作品は確かにテクノロジーの質ではなく、「関係性」においては、90年代から続く従来の「関係性の美学」の域を出ないという意味で、現状の再認なのである。テクノロジーの関与によって、関係性にいかに時差をもたらすことができるのか。ここが課題となるだろう。

 このように考えてみると、そもそも現状の再認ではない作品はどれほどあるだろうか、という疑問すら生まれてくるだろう。それほどに困難な取り組みではあるのは確かであるが、以下では少なくとも筆者からは、二つの全く異なる方法で現代における主体像を批評的に開示していると思われる作品について考えてみたい。

 一つ目は最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』である。筆者は以前、最果における色彩表現について分析したことがあるが、その詳細は省き、端的に本作のキーとなるモティーフを述べれば、それは「すれ違い」にある。SNS上の私たちは誰かと出会っている感覚を、最果はすれ違う時に瞬間的に流れる電流の微弱な衝撃を一瞬後から思い返すという経験として表現している。映画版ではすれ違いの経験は男女の恋愛に、そして舞台は渋谷と新宿に設定されている。都市におけるすれ違う視線、あるいは交差しあう斜めの眼差しは、絵画であれば、エドゥアール・マネが表象した、近代都市パリの人々の新しい振る舞いであり、顔を認識し、同定しあうことのない匿名的な大衆を生み出した、まさにヴァルター・ベンヤミンが「パサージュ」論で描き出した都市の情景にまずは祖型を求めることができるのだが、最果の場合は都市の上に成立した都会人の新しいコミュニケーション形式に対して、インターネットの上に生まれた新しいコミュニケーション形式、つまりSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)での出会いの経験を的確に捉えている。ここ10年ほどの間で爆発的に普及したSNSのコミュニケーションにおける新しい主体像を描き出す、その詩は批評的であるがゆえに、「現代」詩であると言えるのだろう。

 二つ目はカオスラウンジ新芸術祭「150年の孤独」である。本作は福島県いわき市泉地区における廃仏毀釈後と東日本大震災後の展開を「復興の失敗」として二重化した上で、そこから新しい「寺」を建立し、生者と死者の切り離された関係を再度とり結ぶことをテーマとした市街劇/芸術祭である。鑑賞者は三つの会場で配布される手紙と地図をもとにして、徐々に開示される泉における廃仏毀釈以前、以後の寺社の消滅と神道式との無節操な折衷や墓場の移転を、直に目にしながら体験していく。つまり、本作の主眼は鑑賞者や作品との間の今ここの現在的な関係性ではなく、明治期の廃仏毀釈後150年の間、互いに関係性を喪失していた生者と死者との間の時間的な隔たり(=孤独)を持った関係性に向けられているのだ。最果と同様に端的に、本作のキーとなるモティーフを述べれば、それは「地図」である。水澤松次という泉における廃仏毀釈によって消えた寺院を調査した人物の手にしていた地図、そして今回のリサーチの元になった水澤の製作した地図、そして鑑賞者が3会場で受け取る地図。この三つが垂直的な時間軸に沿って同じ空間をマッピングしているのだ。

 ここで、地図からアビ・ヴァールブルクのアトラス「ムネモシュネ」を連想してもいいかもしれない。というのもキュレーションを務めた黒瀬陽平の著書『情報社会の情念』はヴァールブルクの「情念定型」という形態学的な概念から導出されているからである。「ムネモシュネ」はヴァールブルクがアナクロニスティックに様々な図像をコラージュ的に併置した、未完の大作であるが、全体を象徴するパネルAには上から星座図、地理図、家系図という三枚の地図が偶然にも垂直に並べられているのである。偶然か必然か「ムネモシュネ」の三枚の地図、「150年の孤独」の三枚の地図は符号しているようも思える。しかし、ここで一つ見落としている地図がある。それは第一会場から第二会場に向かう途中にあるSIDECOREの「WOOZY WIZARD」である。いびつな線の集合は地図以前、あるいは確定した地図を再設定するための準備とも見える未知なる地図である。三つの確定した地図の間に、未知の地図が挿入される。これが「150年の孤独」の地図的な構造である。確定した地図に記述されていることは、災害とそこからの復興の失敗という反復と忘却の断面的な記憶であり、その事実の再帰的な開示だけでは「悪い場所」という(仮の)現状の再認になってしまうだろう。そこに未知なる地図、それは芸術家の空想にとどまらず、作家/キュレーターの主体的な意志によって新しい「寺」を建立することで、現実的に現在という時間に変容を加えているのだ。このリサーチベースかつ大胆な試みは単なる反復と忘却の構造の再認を超えて、震災後の現代という枠組み、特に芸術祭における作家あるいはキュレーターの新しい主体像を提起していると言えるだろう。

 現代詩と現代美術とジャンルの違いは批評の定義とはさしたる関係を持たないだろう。冒頭で記述したように、現代詩か、現代美術かといったジャンルの自明性はすでに存在しないのだから。その前提の上で、まとめれば、上記で示した、最果タヒの「すれ違い」と「150年の孤独」の「地図」がそれぞれ提起していた新しい主体像の発見と提出こそ、批評が掴むべき、現代/同時代性であるはずだ。すなわち、現状の再認/追認ではなく、主体像の創出を介した「現代性の再設定」を批評の定義として、本稿の結論としたい。

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