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ファインダーを覗くきみ、分裂するぼく。〜藤子・F・不二雄が描くパラレルワールド的想像〜力

情報技術の発展によって、我々の人格は「時間」という軸において、統合されることなくバラバラにはたらきだすようになった。そしてこのような情報技術環境、人格の不一致を、このような現象がおこるはるか以前から描いてきた人物がいる。その人物とは、藤子・F・不二雄である。

 

藤子・F・不二雄(以下F)は1951年に藤子不二雄A(Aは丸囲み)と共同で「天使の玉ちゃん」を毎日小学生新聞に掲載し、マンガ家デビューした。当初は、目標としていた手塚治虫には遠く及ばないとして「足塚不二雄」などのペンネームを使っていたが、1953年以降は「藤子不二雄」というペンネームを使用している。

当初ふたりは、デビューして以降一貫して「子ども向け」マンガを作ってきた。それは彼らの意志によるところもあったのだが、マンガ映画を作ろうとの思いで、かつてトキワ荘に住んでいた、石ノ森章太郎や赤塚不二夫をはじめとするメンバーたちとともに、1963年に設立された株式会社スタジオ・ゼロによって、『オバケのQ太郎』が爆発的なブームとなりアニメ化できるようなキャラクターが主人公の連載マンガを作り続けなければならなかったという時代の要請でもあった。

しかし、スポンサー側の都合によって『オバケのQ太郎』のテレビ放映が終了。それに続く形で放映された『パーマン』も短命に終わり、そのころには個人での制作の機会が多かったFは、続く作品も劇画ブームの煽りなどをうけ、長期連載とならずに最終回を迎えていく。

このような状況に自信をなくしていたFにひとつの転機がおとずれる。1969年にFは、『ビッグコミック』の編集長であった小西湧之介に同誌に載せるために短編を書いてみないかと提案される。だがFは、この依頼に消極的であった。彼は小西に対して「デビュー以来子どもマンガ一筋。骨の髄までお子さまランチなんだから」と言って当初は断ったという。しかしそれでもと言って強引に説得され、『ビッグコミック』1969年10月10日号に「ミノタウロスの皿」という作品が掲載された。これ以降Fは、『SFマガジン』などでもSF短編を発表していく。そして、SF的想像力が込められた、これら一連の短編作品は結果として未来を描き、その未来である「現在」の社会状況を写し取っている。この文章では藤子・F・不二雄の短編作品を通して、彼が描いた、彼にとっての未来であった「現在」の問題をみていこうと思う。

 

まず、Fの作品には繰り返し登場するモチーフが多く存在する。たとえばそれは鉄道であったりジオラマであったりである。

 

その中で、ひときわ象徴的に描かれるモチーフがカメラである。

Fの短編の中でカメラが印象的に登場するのは「タイムカメラ」「ミニチュア製造カメラ」「値ぶみカメラ」「同録スチール」「夢カメラ」「コラージュ・カメラ」である。前述の通り、Fの作品の中にはさまざまなモチーフが登場するものの、それらはあくまで物語の踏み台にすぎず、それらのモチーフをきっかけとして物語が進展するものの、中心は主人公が得てしまった超能力であったり、神や悪魔、もしくはタイムトラベラーなどの人格を持った主体同士のコミュニケーションが主である。その中でカメラは、モチーフとして登場し物語にエンジンをかけた後も中心に居続け、その物語の中で重要な位置にあり続けている。では、彼が描くカメラはなぜ物語において重要なのだろうか。

それは、Fが他のモチーフと比べて、カメラというモチーフの特性を拡張しているためである。そしてその、カメラの拡張性は現在においても起きていることである。

写真を撮るという行為によって撮影者は、そこに切り取った現実を所有したかのような気になることができる。しかし、「写真撮影は本質的には不介入の行為である。ヴェトナムの僧侶がガソリンの罐に手を伸ばしている写真とか、ベンガルのゲリラが縛り上げた密通者に銃剣を突きつけている写真のような、現代写真ジャーナリズムの忘れることのできない偉業のもつ恐ろしさも、ひとつには、写真家が写真と生命のどちらかを選択するというときに、写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。介入する人間は記録することができない。記録している人間は介入することはできない」つまり、たとえカメラのシャッターを押したとしても、写真は決して現実を変えることができない。それどころか、カメラのファインダーをのぞいているあいだ、撮影者は現実に介入することができなくなる。

では、カメラは現実に対して何もはたらきかけることができないのかといえばそうではない。たしかに写真は現実を変えない。だが、撮られた写真は見るものの感情に訴えかけ、現実を変える手助けをすることはできる。「写真は道徳的立場を作り出すことはできないが、それを強化することはできるし、生まれ出ようとするものに力を貸すことはできるのである」

そして、カメラで撮られた写真は、未来に参照されたときにそのときに持っていた情報が抜け落ちてしまうということがある。たとえば、あなたが恋人を撮影した写真は、撮影された時点では「恋人の写真」という意味を持つ。他にも、知り合いであったり見慣れた風景を撮れば、それにはそれぞれ撮影者やその周りの人たちにとって、意味のある写真になるのだ。しかし、その写真が100年後、なにも知らない人に見られるとしたら、

 

Fは以上のようなカメラによって撮影された「写真」が持つ特性を拡張している。

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