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「つかみ損ね」の生成変化

國分功一郎はなぜ、「日本」を批評対象としないのか。

 

たとえば、『暇と退屈の倫理学』において、國分はアレクサンドル・コジェーヴを参照し、彼が「歴史の終わり」を幸福追求をすることなく、満足を持続させて生きる「動物」としてのアメリカ人に対して、歴史以後においても「人間」として生きる日本人を評価したことを紹介している。コジェーブは能楽や茶道、華道の他にも、ハラキリや特攻を取り上げ、日本人は形式化された価値を絶対視しながら生きているとしている。この姿勢においては、人にとって宗教も道徳も政治も必要なく、ある形式の中の価値だけを重視して生きていけばよい。そうした価値形態をコジェーブは「スノビズム」という語を与え、評価している。

しかし、『暇と退屈の倫理学』において、コジェーヴのこのような日本理解をひと通り説明したのちに、これを「勘違い」であるとして以下のように一蹴している。

 

コジェーヴがコロコロと結論を変えられるのは、彼の言う「アメリカ人」も「日本人」も実は大差ないからである。「アメリカ人」の動物性も「日本人」のスノビズムも第二形式の退屈の現れにすぎない。

 

また、『中動態の世界』においても細江逸記が中動態について、バンヴェニストに近似した定義を30年以上も前に到達していたという事実を披露するのだが、ここでも國分は、日本語の独自性から議論を発展させるというよりも、日本語の中動態的な部分というのを抽出し、これまでの議論を補強するという形をとっている。

 

しかし、ここであげた國分の2冊の著書において、「日本」についての詳細な分析が省かれた理由は容易に想像できるだろう。國分が分析のテーマとした「退屈」にしても「中動態」にしても、日本において表出しているものはたしかに西洋とは様相を異にしているが、そこに内在している意味においては差異などないのである。つまり、形こそ違えど本質においては同じであるというのが國分が日本に対してくだした判断であろう。

では、僕たちは日本について考えることに意味はないのか。はたまた、日本について考えるならば、何について考えればいいのだろうか。柄谷行人は「日本精神分析」でジャック・ラカンが日本に関心を持っていたということを紹介している。そこでラカンは、日本語に音読みと訓読みの2種類があることを特異であるとしている。しかし、柄谷はラカンのこの意見に対して、國分同様に西洋人における一方的なまなざしでの日本理解であって、「私はラカンがいっていることに賛成できません。実際、彼は半ば冗談をいっているのだろうと思」うのだとしている。

このように國分であれ柄谷であれ、ふたりは同じ結論を導いている。西洋人にとってはたしかに日本が持つ特徴は奇異であるのかもしれない。しかし、それらは本質において西洋の文化となんら変わらないのだ。

 

そうなのだとすれば、僕たちは日本が独自に生み出したものではなく、日本がはからずも温存してしまっているものに注目すべきではないだろうか。

「日本精神分析」で柄谷は、漢字の音読みと訓読みが存在することに関して、「訓読みとは、漢字を受け入れながら、受け入れない方法です」と、日本が漢字を受け入れた時点で、すでに持っていた和語の読みをそのまま漢字の読み方にも適応したことに着目している。「中国周縁の民族は漢字をそのまま受け入れた」にもかかわらず、日本は単に受け入れるのではなく、独自の読み方の体系を作り上げた。そこを柄谷は言語の「日本的」である部分であるとしている。つまり、漢字そのものを受け入れつつも、「日本的」な要素を残している。それこそが現代の日本語の特徴であると述べているのである。

しかし、この場合において注目されるべきなのは、訓読みよりもむしろ音読みなのではないだろうか。つまり、漢字に対して独自の読み方を適用したにもかかわらず、中国の読みも同様に排除しなかったことこそが日本語の特徴として重要な部分なのである。

漢字はその形と意味とがひとつひとつ対応している文字であるという認識を持っている人がいるだろうが、それでは漢字のことを半分しか理解したことにならない。漢字が生み出された中国では、形と意味がワンセットになっている漢字に対してただひとつの音声が割りあてられている。たとえば、犬の意味である「狗」という漢字は/gǒu/と発音するし、「猫」という漢字は/māo/と発音する。日本語のように「犬」という漢字を「イヌ」であったり「ケン」というように、複数の読み方をするということはなく、あくまでひとつの漢字にはひとつの読み方しかないのだ。さらに、中国語はただ漢字にひとつの読み方を与えているのではなく、ひとつの漢字にはひとつの音節のみが与えられているのだ。この一字一音節によって、漢字は表意文字化することがなかったのだといわれている。つまり、漢字は形式=形、音声=音、意味=義のそれぞれが一体となった、「形・音・義」の三位一体こそが本質であったといえるのだ。

しかし、日本において漢字が輸入される際、漢字のこの三位一体は解体された。たとえば、「山」という漢字対して日本語では唯一「ヤマ」と読むと同時に「サン」とも読む。日本では漢字を受容する際に訓読みという独自の読みの体形をあてはめたにもかかわらず、中国語本来の読みであった音読みも同時に捨てることをしなかったのである。

 

以上のような日本語における漢字輸入の失敗はどう捉えることができるだろうか。國分が研究のテーマとしても選んだことのある哲学者、ジル・ドゥルーズは、「生成変化」について思考した。日本語による漢字への生成変化。しかしこの生成変化は、本質を欠いたものであったといえる。千葉雅也は『動きすぎてはいけない』で、ドゥルーズが「犬になる」ということの説明の際に使った、モル状/分子状という区別について以下のように解説している。

 

「モル状」の犬と「分子状」犬という化学的な喩えについて。「モル」というのは、多くの分子を一括して扱う量の単位である。モル状の犬とは、粗大に定義された犬のステレオタイプのことである。反対に、分子状の犬は、犬らしさを成り立たせる関係=述語の束が限定されておらず、オープンになっている状態である。「吠える」ことは、犬のふるまいのステレオタイプであると見なせる。けれども「吠える」ことを、脱−特権化し、吠えもするという形で、他のふるまいと対等に組み合わせる−−−組み合わせの可能性をオープンにする−−−こともできるだろう。

 

このような説明を加えた上で、千葉はドゥルーズ&フェリックス・ガタリの『千のプラトー』において、ロバート・デ・ニーロが『タクシードライバー』で主人公のトラヴィスを演じる際に「カニのような歩き方」を「模倣ではな」く、したことに対して感心していることに注目している。この「カニへの生成変化は、知覚しえない作動をして」おり、デ・ニーロは「分子状のカニになっている」のである。つまり、ここではカニの「ステレオタイプ」を棄却し、「他のふるまい」を前景化させることによってデ・ニーロでいながらデ・ニーロでないかのようなズレを発生させることに成功しているといえる。

 

では、日本の漢字輸入についても、デ・ニーロのような分子状の生成変化がみられるのではないだろうか。

中国語において漢字の本質=ステレオタイプは「形・音・義」が三位一体であることであった。しかし、日本においてそれは模倣されなかった。そのため日本語は、分子状の漢字へと生成変化したといえる。デ・ニーロと日本語、両者は同じ分子状の生成変化をしたといえる一方で、ここで両者の違いも浮かび上がってきている。その違いとは、デ・ニーロがステレオタイプを「脱特権化」することによって「分子状のカニ」へと生成変化したのに対して、日本語は漢字のステレオタイプを「つかみ損ねる」ことによって「分子状の漢字」へと生成変化したのである。

では、この「つかみ損ねる」とはどういうことなのだろうか。中国語の漢字において「形・音・義」の三位一体がその本質であったことは再三にわたって説明してきた。しかし、漢字を輸入する際に日本人は、この特徴を脱特権化することによって、彼ら独自の言語を日本語でありながら日本語でない、分子状の漢字へと意図的に生成変化させたわけではない。日本人はただ単に漢字の本質を知らなかったのである。その本質をつかみ損ねたのだ。そしてそれによって日本語は、分子状の漢字へと生成変化した。

日本語は訓読みを維持したままでモル状に漢字になることも可能だった。それは、漢字の「音」すなわち音読みを全て捨てればよかったのである。「山」はただ「ヤマ」と読み、「犬」はただ「イヌ」と読む。そうであればたとえその漢字が違う発音で読まれていたとしても、「形・音・義」というステレオタイプにに沿って、「モル状」に生成変化を起こしていたはずである。しかし、日本はこのステレオタイプをつかみ損ねたまま漢字を輸入した。それによって、日本における漢字は「分子状の漢字」となったのである。

日本語は分子状の漢字になった。では、このことは結果として何をもたらしたのか。分子状の漢字はステレオタイプをとらえ損ねることによって、それとは違った特徴を温存することができたのである。

たとえば、漢字を成り立たせるための「関係=述語の束」を考えてみよう。中国語の場合であれば、一字一音節という特徴をもっている漢字が要請する述語は、たとえば「山」であれば、「山はただひとつの音節を持っている」というものにななるし、これが「犬」であっても「犬はただひとつの音節を持っている」ということになる。しかし、日本における漢字ではこの述語は定義されなかった。かわりに「山」であれば「山はヤマとも読む」といったものであったり、「犬」であれば「犬はイヌとも読む」といった述語が要請されることとなる。

このことによって、日本語は中国語が漢字についてステレオタイプとしなかった特徴を温存することとなった。

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