印刷

辞書を引くと「日比谷焼打事件」のとなりにある単語についての考察

 

数年前のぼくのようにうろたえたくなかったら、こうした場合の作法は心得ておいた方がよい。二値論理に合わせて答を出すのは共通一次試験で卒業ということにしよう。二者択一の問題には決してまともに答ないこと。できれば問題そのものをズラせてしまうこと。そんなことをすればせっかく抽出したパターンが乱れてしまうと思われるかもしれない。心配は無用だ。ひとつのパターンを後世大事に守り抜くことは寺院にこそふさわしい。大学は出来上がったパターンをズタズタに切り裂く場所でもあるのだ。画布を破り捨てる用意のある者だけがすぐれた〈かたち〉を描くことができる。

 

結局のところ批評とは、浅田彰が『構造と力』の冒頭で記述した以上のことでしかないのではないだろうか。

 

では以上の前提のもとでふたたび「批評とはなにか」と問われたときに僕たちができることはただひとつだろう。その答えとは当然「そのような問いには答えることができない」ということである。

たとえば、去年の衆議院議員選挙のことを思い出してほしい。東浩紀が積極的棄権を訴えたとき、この訴えに対する反応は大きく二分された。片方には、選挙こそが民主主義を実装するための最大の装置なのだと考える人や、単に東を気に入らない人たちはこの議論に反対し、もう片方に前回の選挙に価値を感じることができなかった人や東の熱心な読者は賛成をした。

しかし、この議論に対する批評的な実践といえば、東の発案を端緒として選挙の意味や民主主義のあり方そのものをきちんと自らで引き受けて考えるということであるはずだ。だが、この提案に対しても議論は「二者択一の問題」に矮小化されてしまった。ように見える。

「ように見える」とはどういうことか。つまりそれは、けっきょくのところ東の議論を受け取った人々が問題を矮小化させていたのか、それともきちんと批評的実践の上で回答を出したのかどうかは絶対にわからないということだ。

あなたがこの発案を受けて出した結論は、二者択一の選択肢から出したものであるのか、それともきちんと引き受けて考えた結果なのかと問われれば、人はかならずといっていいほど、考えた結果だと答えるだろう。だが、この発言が本心かどうかは他人からは検証不可能なのである。そもそも本心とはなんなのかということすらも検証できないだろう。また僕たちは、さきの発案がなされる前に、自分たちが投票というものに対してどのような考えを持っていたのか思い出すことができるだろうか。そして思い出された、それ以前の記憶は果たして本当に正しいのだろうか。しかしこれを検証することもほとんど不可能なのである。

 

批評とはいってしまえば思考のプロセスである。それはつまり、表面上にあらわれる行為では、それが批評であるのかどうか定義できないということなのである。たとえばそれはデモを例にしても説明できる。

SEALDsをはじめとする若者を政治活動に動員した一連のプロジェクトは失敗に終わったといっていいだろう。特定秘密保護法、安全保障法関連法といった法案は抵抗むなしく次々と議会で可決されていったし、これらの運動のきっかけになった反原発に関しても実現しそうなきざしすらない。

しかし、たとえば数年後、十数年後にこのような活動が突如として花開く可能性はありうる。前回、前々回の都知事選を思い出してほしい。もう誰もが太古の昔のように忘れてしまっているのかもしれないが、前回の主要三候補といわれていた「小池百合子」「増田寛也」「鳥越俊太郎」の3名、前々回の主要四候補といわれていた「舛添要一」「宇都宮健児」「細川護煕」「田母神俊雄」の4名は全員が60代、70代の候補だった。

もしも近い将来、官邸前抗議に参加していた若い候補者が都知事選に立候補して、当選しないまでも主要候補の一角を担うようなことがおこりうるのであれば、彼らの行動はすべてが失敗のプロジェクトであったとはいえないだろう。けれどもそのときも注意してほしい。その結果は彼らが特定の法案に抗議していたときも、目の前にある選択の正しさ(この場合では法案を通すことが正しいのかどうか)をいったん棚に上げ、将来の都知事選に若い候補者を当選させるための批評的な実践としてデモを行っていたかどうかということとは全く関係がないのだ。ここでもやはり、「批評」というものの判定の困難さがついてまわる。

 

なにが「批評」なのか。その問題を僕たちは解くことができない。だがやはり、これまでの議論を大きな視点に立ってみれば、「未来」の結果をみて僕たちはものごとが批評的な正しさを持っているかを判定している。そこには当時の考えはあまり考慮されていない。しかし単純に、「批評とは未来に向かって実践をすることである」とは定義しがたい。それにはどうも、「批評文」といわれるものたちの多くが小説や映画などの「フィクション」を扱っているということにヒントが隠されているように思う。

フィクションにおいてはその定義上あたりまえではあるのだが、現実世界とは別の世界の物語が語られていく。それは現実世界とほとんど変わらない場所であることもあるし、ファンタジーの世界などの物理法則や科学的知見が一切通用しない場所であることもある。だがそれらは一貫して、現実の世界とは別であるという点で一致している。

そのフィクションの物語展開についての批評がなされるとする。そのとき、批評は何について評価を下しているのかといえばそれは、現実の世界ではなくその物語が進行している世界において、起こっていることがらが評価できるかどうかということを検証しているといえる。いや、もっと厳密にいえば、その物語に照らし合わせて批評の中で再設計された世界の基準で物語をみて、それに対して評価をしているということになるのだ。

ここでもうすでに、批評ということをおこなうにあたって三つの世界が出現していることになる。ひとつめは今まさに僕たちが生きている現実の世界。ふたつめは批評対象のフィクションによって語られている世界。みっつめは批評という行為によって再設計されたフィクションの世界である。

批評とは、現実の世界以外に発生した様々な世界についても検証しなければならない。未来の結果を含めて、僕たちがものごとを批評しなければいけない理由はここにある。今という現実だけではものごとは検証することができない。そのため、僕たちは批評という営みによって再設計された世界と照らし合わせながら検証をしている。それはフィクションを取り上げるときであれ、未来について考えるときであれ同じなのである。

 

「批評とはなにか」という回答不可能な問いについて、なんとかしぼり出すことができたひとつの道筋。「批評とは再設計された世界を作り上げることである」というものはなかなかに使えるものであるように思える。これを使えば、この課題が出る以前から疑問に感じていた、ある問題が解決できるかもしれないのだ。

その問題とは「批評についての批評はなぜ存在するのか」というものである。

再設計された世界を作り上げること。この作り上げられた世界とは、批評というひとつの世界ではない。批評という行為によって作り出された世界はその行為の度ごとに作り出され、無数に出現していく。そしてその無数に作り出された世界はその世界に対してさらに、「批評という行為によって再設計された世界」を外側に持つことができる。そしてこのような無限にも思える入れ子構造を許容することによって、批評についての批評は存在しうるし、さまざまなものごとに対して批評をするということが可能になっているのではないだろうか。

思えば、フィクションや未来について考えることが批評であるとすれば、美術批評や小説や映画の形式についての批評というのもなぜ批評というくくりに入れられるのかは疑問である。しかし、もはや投機対象にしかなっていないような美術市場や助成金をどれだけ取ってこられるかだけが勝負の地域アートとは違った設計を持った世界で対象をふたたび検証すること。そしてその世界そのものをさらに検証するための世界を作り続けること。その営みが批評という単語の持つ意味なのではないだろうか。

 

現在僕たちは、あまりにも分岐しなくなった世界を生きている。週刊誌やワイドショーによって与えられた問題には二者択一どころかひとつしか与えられていない選択肢に向かって皆が突き進んでいるし、政治問題にしても左右の対立によって不気味なまでに整理された二択が並んでいるだけだ。そのような状態では世界はひとつしか存在しない。このようなことをいうと、インターネットの発達やスマホの登場によって人々は別のインターフェースを見ているのだという反論が思いつくかもしれない。たしかに僕たちは、たとえばTwitterという共通の画面を見ているのではなく、個人個人の趣味趣向によってアレンジされた別々のタイムラインを見ている。しかし、こののっぺりとした単一の世界の中ではそのような環境も、テレビのクイズ番組で○と書かれた陣地にいくか×と書かれた陣地に行くかを決めるタレントと同じである。たしかにタレントひとりひとりの立っている場所は違っているのかもしれないが、その違いに本質的な意味はない。それよりもしなければならないことは、僕たちは別の問題を立てるということができるということを自覚することだ。批評には世界そのものを立体化させる力が宿っているのだから。

文字数:3861

課題提出者一覧