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等質を溶解する糖質 〜黒沢清はなぜ「人間」を描いているようにみえるのか〜

 ショッピングモールにて立花あきら(恒松祐里)が轢死したのち、天野(高杉真宙)はあきらの買った飲み物に口をつける。その後飲み物の入ったカップは桜井(長谷川博己)の手に渡り、残りを飲み干す。思えばこの時点で、天野に憑依していた侵略者が最後には桜井の身体に乗りうつるということは決まっていた。
 黒沢清はその監督作において、人間関係を描くという情熱をまったくといっていいほど有していないと断言できる。彼はそのようなことには一切かまわず、画面に飲食物を挿入したあと、登場人物たちにどのような変化がおとずれるのかということのみを熱心に撮り続けている。冒頭で描写した『散歩する侵略者』(2017)でも、以上のように人物から人物へと飲み物がリレーされることによって、天野の死によって宇宙人の憑依先が桜井へと移りかわるというその後の展開が暗示されているのだ。このように黒沢清の映画では飲食物を媒介にして、人物同士の関係の変化が起こるのだが、通常の映画では登場人物たちが食卓を囲むことによってそこにいる人物同士を繋げるという意味において飲食物が描かれる。
 彼の映画にも、食卓を囲むシーンはたびたび挿入されている。たとえば例に出している『散歩する侵略者』では加瀬真治(松田龍平)と鳴海(長澤まさみ)夫妻の食卓のシーンが描かれている。冷めきった関係にあったふたりは、そこで囲んだ食卓によってかつての信頼を取り戻し、鳴海は真治が宇宙人であることを信用し、そしてそれでもなお彼を支えることを決意する。

 このように映画とは、食卓を描く芸術だと言い切ってしまったとしても、それに反論するだけの事実を集めるのはそう容易ではない。
 たとえば小津安二郎の『秋刀魚の味』(1962)では平山周平(笠智衆)一家とその息子夫婦(佐田啓二、岡田茉莉子)というふたつの家庭が執拗に描かれているにもかかわらず、そこで囲まれる食卓が描かれないことから、この映画は家族を描いたものではなく男同士の関係性を描いたものであることがわかる。この映画で卓を囲むのは、あくまで平山とその友人である河合秀三(中村伸郎)と堀江晋(北竜二)の3人であり、他に登場するのもこの3人を含む同窓会での場面であり、その卓に女性や家族といった、この映画のノイズに相当するものが介入する余地はない。
 キム・ギドクの『悪い男』(2001)でも、物語のクライマックス直前になるまでソナ(ソ・ウォン)はハンギ(チョ・ジェヒョン)を憎しみ続けるために、ふたりが並んで食事をとることはなく、ハンギは子分たちと、ソナはやり手ババアと食事をしたり酒を酌み交わすといったシーンが描かれるのみである。

 それならば、黒沢清の映画においても食卓を囲むシーンに注意して物語を見ていけば、その後の人間関係の変化がわかるのかといえばそうとは限らない。『クリーピー 偽りの隣人』(2016)では高倉幸一(西島秀俊)とその妻康子(竹内結子)がその自宅にて西野雅之(香川照之)と娘としていた澪(藤野涼子)との4人で食卓を囲むシーンが描かれる。しかしこのシーンによってこの4人に絆が生じ、その絆によって物語が大団円へと向かっていくかといえばそうではないということは、この映画を見ずとも黒沢清映画を多少でも見ている観客たちからすればわかりきったことである。
 それでは、黒沢清の映画では食事のシーンがその後の人間関係を決定しないのかといえばそうではない。しかし彼の映画においては、食事をする人物たちが誰と食事をとっているのかということよりも、何を食べているのかということに注意を向ける必要がある。上にあげた『クリーピー』での4人の食事シーン。高倉は食卓を離れワインを持ってきて、それを西野のグラスへと注ぐのだが、そのとき彼は西野の職業について執拗に問いただす。それについて西野は協会の理事をしていると言い、詳細をはぐらかしながらも高倉のもとへと歩み寄って行き、「今度私の自宅へ来たときにゆっくりと説明する」というのだが、そこで彼は食卓から持って来たフランスパンを食みながら高倉に対して、先の説明をおこなう。その説明が終わると、西野は食卓へと戻って食事を続けるのだが、そこでも彼はフランスパンをもう一枚つまむ。しかし、その食事のシーンにおいて、出されたフランスパンに手をつけるのは彼のみなのである。
 このフランスパンというものは、同年に公開された『ダゲレオタイプの女』(2016)でも効果的に登場していた。冒頭で誰もいない食卓が印象的に映し出されるこの映画では、階段から転落する事故が起こったのちにマリー(コンスタンス・ルソー)を自宅に住まわせていたジャン(タハール・ラヒム)が彼女に頼まれていたおつかいの品としてフランスパンを彼女に手渡す。そもそも、ステファン(オリヴィエ・グルメ)を含めたこの3人の同居人は、この転落事故以前には決して食卓を囲むことはなかったが、この事故をきっかけにして、ジャンはステファンのために食事の用意をし、マリーの作った料理をふたりで味わう。しかしながらジャンからマリーへと手渡されたフランスパンがその後ふたりの食卓に現れることはない。

 このようにして考えてみると、黒沢清の映画においては「糖質」がもっとも重要な役割を果たしているということができる。同じテーブルにいようとも、糖質を摂取している者としていない者。この両者はたとえ食卓を囲もうとも埋めがたい断絶が生まれる。
 そうしてみれば『ダゲレオタイプの女』において、ジャンがトマ(マリク・ジディ)にはじめて出会う場面でわざわざ、ご馳走になるコーヒーをごていねいにもウェイトレスを止めてまで「ブラックで」と注文をつけるのにも納得ができる。共有のされない糖質。この映画においてもこの時点で、ジャンがトマを射殺することは決まっていたのだといえる。

 かつて蓮實重彦が、小津の「僕は豆腐屋だから豆腐しか作らない」という言葉を引き受けて、彼の映画を蛋白質から論じたように、黒沢清の映画は糖質から論じられる必要がある。『悪い女』においてもソナをだまし、娼婦へと転落させるハンギが冒頭で頬張るのはソーセージであり、糖質を映画の主題に据える映画監督はやはり特異であるといえる。
 まず画面に現れる糖質としてひときわ目をひくのはビールであろう。麦から作られた、乾杯を象徴するこの飲み物であるが、彼の映画では登場人物たちを同じテーブルに座らせながらも飲む/飲まないという差異を発生させている。『アカルイミライ』(2003)では、撲殺される運命にある藤原(笹野高史)が有田守(浅野忠信)の自宅をおとずれた際、二村雄二(オダギリジョー)とともに有田が淡々と食事をとっている中、ただひとりビールを飲んでいる。その後藤原を殺した罪で投獄された有田のもとへ父親である真一郎(藤竜也)が面会をするのだがいまいち要領を得ない。そこで真一郎は守の弟である冬樹(加瀬亮)のもとに相談へ向かう。そのまさに相談をおこなうオープンテラスの喫茶店においても、真一郎がひとりビールを注文し、冬樹に対して「お前も飲むか」と提案するのだが、彼はそれを拒否してコーヒーを注文する。妻に見捨てられガラクタ修理工として働く真一郎を父とする、有田一家の家庭はすでに修復不可能であることがここで決定されるのである。
 『アカルイミライ』でこのように飲む/飲まないの差異によって登場人物同士の切断を示していたビールは『トウキョウソナタ』(2008)でも、この映画の主人公である佐々木竜平(香川照之)の一家が顔をそろえる唯一の食卓において登場する。リストラにあい、日中は公園などをふらふらと徘徊するのがすっかり日課となった佐々木は、一家4人が一堂に会する食卓でおもむろに席を離れ「ビールでも飲もうかな」と冷蔵庫にビールを取りに行く。プルトップを開け、コップに注ぎ「うまい」と言いながら彼がビールを飲んでいる間、母である恵(小泉今日子)、そして健二(井之脇海)と貴(小柳友)のふたりの息子は誰ひとりとして身動きをせず、父親の号令をじっと待っている。そしてコップに注いだビールを飲み干し、二杯目を注いだところでこの一家の大黒柱が「いただきます」と声をかけると堰を切ったように全員がテーブルの大皿に向かって箸をのばす。このかけ声の前の通夜のような沈黙は、やはり誰が見ようとも異様な光景なのだが、その後この家族が映画において一度崩壊するためには、ビールを飲む/飲まないという関係を作り出す必要があり、そのためには全員が食事をする中でビールを飲むというような画面では物足りず、会場の全員が見守る中、棺の前へと出てゆき、ひとり焼香をおこなうというような儀式めいたものとしてあのビールは飲まれなくてはならなかったのだろう。
 決して皆では飲まれないビール。そして食卓を囲んだ登場人物たちは、プログラムングをされているかのようにその後飲む/飲まないに分かれ、分断していくのである。

 そして『トウキョウソナタ』でもうひとつ印象的にあらわれる糖質といえば、次男の貴がピアノ教室にだまって通っていたことが発覚しとがめられたのち、佐々木の一方的な態度に交渉をあきらめた彼がダイニングテーブルでひとりでその封を開けるポテトチップスである。菓子とはご存知の通り糖質のかたまりであるとさえいわれるものであると同時に「個食」の象徴でもある。ここでもやはり、菓子の挿入によって関係の断絶は決定的なものとなっていく。
 また菓子は『クリーピー』にもあらわれるのだが、ここでは逆にそれは人物同士の関係の再接続をあらわしている。澪が本当の父親の死体を処理しているその最中に、西野がテレビのバラエティを見ながらぽりぽりとつまんでいるビスケットのような菓子。この場面での菓子はもちろん西野の他者との断絶をあらわしているのだが、薬を打たれたことによって眠る高倉のそばで、康子は澪に西野が食べていたものと同じ菓子の袋を手渡され食べる。ここでも西野から澪、そして康子へと個食のリレーがおこなわれることによって、断絶の溝がけっして埋まらないかのようにみえるのだが、その後康子は手にしていた菓子をベッドに横たわる、夫である高倉の口元へと持っていく。するとそれまで意識を失っていた高倉は康子が手にした菓子が口元へと触れるかどうか、まさにその瞬間に目を覚ますのである。康子のかたくななまでの個食への拒否。それによって西野は高倉の銃弾に倒れるのである。ここでもやはり糖質は、物語に先立って登場人物のその後の運命を示しているのだ。

 また、菓子とは微妙に相似しつつも別の機能をはたすのが『トウキョウソナタ』におけるドーナツである。予告編の人物紹介にて「ドーナツを作っても食べてもらえない母」という紹介文が挿入するほどにわかりやすく強調されているこの手作りという記号。この映画では恵が手作りのドーナツを作っているまさにその瞬間に、貴はピアノに夢中になり、佐々木は配給でもらった雑炊を食べ、帰宅して悪夢にうなされるのである。ドーナツに頓着しない両者はまさにその理由によって、家族を空中分解へと導くのだ。
 このように糖質の自作は、作る/食べないという人物同士の動きによってその関係性断絶を、やはり生じさせることになるのだが、一方では逆に作る/食べるという関係によってこれまた菓子と同じように再接続をはかることが可能になるのだ。
 たとえば、『岸辺の旅』(2015)では、失踪し3年間も行方不明だった薮内優介(浅野忠信)が、すでに死んだと言いながらも妻である瑞希(深津絵里)の前に姿をあらわすのも、瑞希が白玉団子を作ったためである。その後、出された団子を食べることによってふたりの関係はふたたび始まり、優介が失踪していたときに出会った人びとのもとへと旅をすることになる。また、瑞希は一度やりきれない思いから自宅へと帰ってしまい、そこで優介は消えてしまうのだが、ここでも彼女は思い出したかのように白玉団子を作り、優介はふたたび姿をあらわす。
 そう考えてみれば、『散歩する侵略者』で真治と鳴海がなぜあの食卓によって夫婦の関係を取り戻すことができたのかがわかる。真治がかつては嫌いで一切手をつけなかったにもかかわらず、「こんなうまいものが嫌いなわけがない」といって何度も箸を向ける大皿。そこに盛られているのは鳴海が作ったかぼちゃの煮付けなのである。なぜこれがピーマンや人参、セロリなどの嫌いな野菜の代表格ではいけなかったのか。なぜかぼちゃは大量の砂糖を使った煮付けという調理をされなければいけなかったのか。このような疑問も、黒沢清が糖質にひときわ着目をしている映画監督であることを鑑みれば納得がいく。糖質を多く含み、さらには砂糖で味付けをした手作り料理でなければ、彼らは関係を再接続することができなかったのである。

 このように黒沢清の映画では、糖質が重要な場面に先立って画面にあらわれる。上であげたものの他にも『アカルイミライ』で有田の父、真一郎が焼き鮭の下にびっしりと白米をしきつめた自作の弁当を二村とふたりで食べることによって、真一郎は二村を養子にするために動き出すのだし、『岸辺の旅』において町なかで島影(小松政夫)に出会った瑞希が「晩は五目ずしですよ」と声をかけながらも、実際の食事シーンは窓から見える3人のショットで処理し、食べ物が映らないようにすることで、島影とすごした時間がはたして本物だったのかは不可視であることが示されている。そして『クリーピー』での生春巻きの皮、ビール、白米、康子の手によって剥かれるナッツなどの糖質がすがたを変えて登場するたびにふたりの関係が変質していくさまや『トウキョウソナタ』での佐々木、恵、貴3人の食卓のショットで食べられる白米によって幕を開け、朝帰りをした健二がひとりでとる食事で同じく食べる白米、佐々木が配給で食べる雑炊、前述のドーナツ、佐々木とショッピングモールで偶然に遭遇しながらも恵が強盗犯のために買うサンドイッチというように糖質をめぐって家族の形が変わっていきながらも、最後には冒頭と同じ3人での食卓によって幕を降ろすさまなどは、これらの映画が糖質をめぐるスペクタクルであるといったとしても、なんら違和感のないものであるだろう。これ以上の例示は字数を増やすだけであるので控えるが、これほど不気味な映像を撮り続けながらも、黒沢清の映画が人物同士の関係性を描いているようにみえるのも、彼が食べ物、とりわけ糖質を同時に画面に映し続けてきたからである。そして、彼の映画を糖質のみによって再解釈することによって、よりはっきりとした黒沢清映画の理解がふかまることであろう。

文字数:6009

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