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『わたしの自由について』考えるときにも、国会前で反対をさけぶときにも、そこではカメラはまわってるんだろ? 〜80点を取りつづける21世紀初頭の日本の若者たち〜 あるいは、現代の魔法に取り憑かれた現在の僕たちについて

 

 この動画は、現在筑波大学大学院生で、動画が撮影された2016年3月当時SEALDs幹部だった本間信和が、平和安全法制が施行された日に国会前で行われたデモでおこなったスピーチである。僕は必ずしもSEALDsやその後に彼らが次々と立ち上げていった活動団体に対して否定的な感情を持っているというわけではなく、あのような行動の中から実際に政治を動かすようなことが起きてほしいと思っているし、彼らが将来政治家になっていくとしたら優秀な議員になるということもおおいにありえるだろう。ただ、それは全面的にSEALDsを肯定することを意味しない。今後も彼らが運動を行なっていくのであれば、その内容に賛同できるものであるか、メディアに一時的に取り上げられ注目が過熱したという状況がひと段落した後でも地道に活動を続けていくことができるのかなど、冷静な目を持って彼らを見ていく必要があるだろう。
 しかし、彼らに対して冷静な目で評価をしていると一応は自覚している僕から見ても、このスピーチはあまりにも無標すぎる。なにも言っていないに等しいといえるだろう。自衛隊はこの法制によってさらにリスクが増えるのにもかかわらず国民は黙って彼/彼女らを戦場に送り出していいのか。国会は一部の人たちのものじゃなく、国民全員のものであるはずなのに数の力だけで私物化されている現在の状況を黙って見ていていいはずがない。今の政治家をみていると政治とはドロドロしていて利害関係で全てが決まるものだと思ってしまうけれども、政治とは本来、人々の暮らしをよりよくするためにあるものなのだ。だからこんな現状を、政治を変えるために投票に行こう。と、まるで教科書のような発言である。実際SEALDsに多く寄せられている批判のひとつが、政治活動にしては行動や発言が優等生すぎるというものである。たとえば、三浦瑠麗が高村正彦との共著で出版した対談本『国家の矛盾』で彼女はSEALDsに対して「日本のいい子」であると発言している。

イメージで言うと彼らは「よくできる大学生」という感じでした。非常に真面目で、世の中についても考えたいと思っている。でも日常のことで忙しくて暇がないから、わりと軽めの本しか読んでいないし、突き詰めて物事を考えるほどの厳しさを経ていない。
 SEALDsの大きな支部、たとえば広島あたりで演説しているのは、典型的な「日本のいい子」なのかもしれない。沖縄や広島では、反戦的なスピーチをすることは先生に喜んでもらえることであり、作文で賞をもらえたりするものでもある。だから、スピーチは権力に反発するというより、「教育」の成果というか、ある種の型をなぞったものになるわけです。なので、SEALDsが反権力の勢力だっていうのは、日本社会全体の枠組みに置くと、必ずしも正しくない。

 このように三浦は、SEALDsに集まる若者たちを「日本のいい子」であるとしたうえで、彼/彼女らが優等生的な発言をするのは教育の側から要請された理想的な型に自分たちをはめているからであるとしている。
 しかし、彼/彼女らが優等生であるということを一概に「教育の成果」としていいのだろうか。より厳密に言おう。彼/彼女らは自らすすんで優等生として振舞うことを選択しているといえるだろうか。そうではなくて、彼/彼女らの身体がある種の不自由さの中にあるために優等生的な振る舞いをしなければならないのではないだろうか。ではそう考えたときに、国会前でスピーチをするSEALDsの若者たちを拘束している装具は何なのだろうか。冒頭に掲載した動画をもう一度見直してもらいたい。マイクを持ってスピーチをする彼の、本来であれば自由であるはずのもう片方の手にあるものが握られている。そう、彼らの自由を拘束するものとは、このスマートフォンなのである。
 SEALDsはデモの方式をあらゆる面で変えたとよくいわれている。ビラやプラカードのデザインにこだわったり、サウンドデモの方式を取り入れそれをより先鋭化させたりということである。そして、それと同じようにSEALDsが新しかったのは、スピーチをする際にスマートフォンに書いたスピーチ原稿をそれを見ながら読み上げるということである方法でスピーチを行なっていることである。スマホは原稿を書きつけるメディアであると同時にそれ自体が台本にもなる。この点でスマホの登場はデモというものを一歩先に進めたといえるだろう。しかし同時に、スマホはデモでスピーチを行う若者たちに優等生的な発言をさせている要因にもなっている。それはなぜか。それはスマホが、動画を撮影するメディアであると同時にそれ自体がアーカイブ機能を持ち、好きなときに撮影した動画を再生することができ、それを容易に共有することができる装置でもあるからである。

 

 スマホが登場する以前にも、動画メディアというのはいくらでも存在した。しかし、スマホが持っている動画メディアとしての特徴を全て持っているものはこれまで存在してこなかった。
 たとえば映画であれば、誰かによって撮影された映像を見るというのが前提であり、撮影者/観客というのが明確に区分されている。また、観客が見ることができる映画というのは基本的には映画館で上映されているものであり、それも映画館が閉まっている時間であればそもそも映画を見るということすらできなくなってしまう。レンタルビデオ店にいけば大量のアーカイブの中から見たい映画を選ぶことができるが、借りてきたものを自宅などの再生機能のある場所へと運び、視聴するというよく考えればとても面倒くさい手続きをふまなければ見ることができない。これがテレビになると問題が多少は解決されるものの、テレビはやはり自宅で見るプライベートなものだし撮影者/観客という境界を融解させることはできていない。
 では家庭用のビデオカメラはどうだろうか。たしかにビデオカメラの登場によって撮影者/観客という境界線をくずした。これによって誰もがカメラマンになる可能性を持ったといえるだろう。しかしやはり、ここでもビデオカメラがアーカイブの機能を持つことはできず、動画を録ったテープを自宅などで保管し、見たくなったらそこから取り出して見るという形になった。また、録ったものをその場で確認できるものの、正しい視聴環境としてはテレビやパソコンに接続し、その画面で見るということが推奨されている。では、スマホ以前の携帯電話(ガラケー)でも動画を撮影することができた。ガラケーによってこれらの問題が解決されたかといえば現在から見れば、完全には解決したとはいえない。たしかにガラケーの登場によって外部のメモリーに記録された動画を保管するということはなくなった。しかし今度はその分、撮ることのできる容量が限られてしまい、高画質で長時間の動画をとることができなくなってしまった。また、ガラケーが一般に広く流通していた当時は通信速度がまだじゅうぶんに速くなく、iモードなどで動画を見るということは今ほど気軽にするものではなかった。また、SNSなども動画をアップロードする機能を持っていなかったものが多く、ガラケーで動画を共有するということは今ほど一般的ではなかった。
 これらの動画メディアに比べれば、画面の大きさなどは別として、上であげた「動画を撮影するメディアであると同時にそれ自体がアーカイブ機能を持ち、好きなときに撮影した動画を再生することができ、それを容易に共有することができる装置」として理想的なものであるといえるだろう。
 現在のスマホで撮影する動画は非常に画質が良く、また何時間もの撮影でも記録できるほどの容量の大きさになっており、iPhoneのみで撮影された映画が上映され、スクリーンでも見るに耐える出来になっているほどである。また、通信速度も以前より格段と向上し、クラウドやSNS上にアップした動画を、ダウンロードする時間を感じることなく再生することができるし、他人があげた動画も同様に見ることができる。大山顕の『ゲンロンβ17』での「スマホにはフチがない」という議論を借りれば、フチのないスマホで撮影された動画を再生するのに適切なデバイスは撮影されたスマホ自身であるいうことになる。

 

 迂回した話を元に戻そう。デモでスピーチをするSEALDsの若者たちが優等生的な振る舞いをすることと、スマホの間にはどのような関係があるのか。それは現在の、スマホを使って人々があまりにも容易に動画を撮影しそれを共有するという環境では、今ここにある自分の身体が別の時間の身体にもなりうるという意識を常に持たなければならないためである。
 僕たちはこれまで、人前に出てなにかを表現するといったときに、その瞬間のムードや盛り上がりに耐えうるかどうかということだけを気にしていればよかった。たとえ運動会で子どもが仮装してダンスするといった、ある種その子どもにとっては黒歴史になりうるようなものがビデオカメラで撮影されたとしても、その撮影された動画は各々の家に持ち帰られそこにあるテレビなどに接続されて再生される。しかしそこには撮影者や被撮影者がいてこのときのテンションや、本当はやりたくなかったなどの言い訳をすることが可能である。また、そのような映像は家族間のみで共有されるものであり、大学生になった彼が友達にその動画を見られ、揶揄されるということはまずないだろう。
 そう考えたときに、僕たちは地図上で自分のいる地点に現在存在しているひとつの身体のみにこれまでとらわれていた。この同一平面、同一時間にあらわれる身体は二次元的なものであるといえよう。しかし現在では違う。スマホで撮影された映像はSNS上にアップされれば文脈を共有していない人の目にさらされる。また、その場のノリで撮影された動画が、時間を経てそのときの盛り上がりがすっかり冷めて冷静になった自分の目の前に突如としてあらわれるということもありえる。このような別の空間、別の時間にもあらわれうる現在の身体を「四次元的身体」と名付けよう。
 SEALDsのスピーチにも同じことがいえる。デモ参加者のスマホによって撮影された彼/彼女らのスピーチは即座にSNS上で共有され、撮影者も被撮影者もいない場所で再生される。また、SEALDsが解散した後、政治運動からは身を引いた将来にも動画は再生され、彼/彼女らとして語られることになる。実際、上の動画でスピーチをしている本間信和は2017年の衆議院選挙の公示日前日に新宿で行われた枝野幸男の演説会に参加しているため、本文が書かれている現在ではまだ政治活動を行なっているものの、現在ではスピーチで語られている内容とは違った考え方をしているかもしれないし、言い回しや語り方を反省しているのかもしれないが、そんなことにはおかまいなく、全く知らない人間に批評の対象としての俎上にあげられている。彼らは教育によってではなく、むしろこのような環境によって優等生として振る舞わされているのではないだろうか。

 

 かつての身体は二次元的であったが現在の僕たちの身体は「四次元的身体」であるために優等生的に振る舞わなければならない。このように考えてみると現在の体制/反体制(SEALDs)の動きはおもしろい。
 僕はさきほど、かつての身体は二次元的であったと書いたが、それは一般の人たちについての話である。現在のような動画メディアの環境が整えられる前から、政治家は「四次元的身体」を持っていた。彼/彼女らの発言は旧来のメディアで発信され続け、過去の発言と現在の発言との整合性を求められ続けてきた。
 しかし、もう一度上の動画を見てほしい。動画が2分を過ぎたころ、スピーチをする彼はこう抗議する。

少しずつ忘れていくことを見越しているんならそれは間違いですよ!

 つまり現在の体制側であるところの安倍政権は徹底的に二次元的な身体に回帰しようとする。それに対して政治家同様に「四次元的身体」を手に入れた反体制側は我々と同じ「四次元的身体」であり続けろと抗議する。現在の政治活動の構図はこのように説明できるのではないだろうか。思えば、最近でも南スーダンの日報破棄問題では海外派兵(派遣)した自衛隊の「四次元的身体」をめぐる議論であったし、森友・加計問題も首相のプライベートという二次元的な身体についての問題であった。

 

 僕たちはこれまで、政治家に加えて芸能活動や芸術活動などをする公共的な人たちのみが「四次元的身体」を持っていると考えてきた。しかし、現在では僕たちのような一般の人間のほうが彼/彼女らよりも、より「四次元的身体」を持っているといえるのではないだろうか。たとえば、劇場やホールにいけば、そこで見られる多くのものが現在でも撮影禁止である。もちろんこれには金銭の問題もあるだろうが、無料で行われるものに対しても撮影禁止がいわれることが多い。これは彼らが「四次元的身体」の危うさについてじゅうぶんに理解しているために、こういった措置を取っているのではないだろうか。録画された身体は一人歩きし、自分の意図を超えたところで効力を持ってしまう。人前に身体をさらし続けるからこその意識が彼/彼女たちにはあるといえる。
 その点僕たちは「四次元的身体」について、まだよくわかっていない。そのため「四次元的身体」が生成されることに抵抗がない。しかし僕たちは何気なく毎日手に持っているスマホによって、知らず知らずの間に「四次元的身体」の魔力にとらわれ、いつのまにか優等生を演じさせられているのかもしれない。その引力圏から抜け出るためには、いま一度身体というものについて、スマホを使って検索するのではなく、自分の頭を使って真剣に考えなければならない。

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