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日本に「外側」は空けられるのか

 文学部は役に立つのか。このような、いつの時代にも繰り返されている問いに対して、大阪大学文学部長が2017年3月に行われた同大学の卒業式の式辞で述べた回答が7月になりネットで話題になった。これは阪大文学部長である金水敏氏が自身のブログにあげた「卒業・終了セレモニー式辞」(http://skinsui.cocolog-nifty.com/skinsuis_blog/2017/03/post-ccef.html)で式辞を全文公開し、それが7月になってTwitterで話題になり、ニュースサイト「withnews」でインタビュー記事が公開されたことがきっかけである。金水は式辞内で、文学部で学ぶ事柄は「職業訓練ではなく、また生命や生活の利便性、社会の維持・管理と直接結びつく物ではない」としつつ、しかしそのような生命として生き延びることを超えたところにある「生活の質に直接関係している」とし、以下のように述べている。

私たちは、生きている限り、なぜ、何のために生きているのかという問いに直面する時間がかならずやってきます。もう少し具体的に言えば、私たちの時間やお金を何に使うのかという問いにも言い替えられますし、私達の廻りの人々にどのような態度で接し、どのような言葉をかけるのかという問いともつながります。逆に大きな問題に広げれば、日本とは、日本人とは何か、あるいは人間とはどういう存在なのか、という問いにもつながるでしょう。文学部で学ぶ事柄は、これらの「なぜ」「何のために」という問いに答える手がかりを様々に与えてくれるのです。いや、むしろ、問いを見いだし、それについて考える手がかりを与えてくれると言う方がよいでしょう。

 つまり、文学とは人がなにか悩んだり立ち止まったりしたときに個人の内面の「外側」に存在し、問題解決の糸口を外側から提示してくれるものであるということである。
 しかし、卒業生に対して文学を学ぶことの意味についてをといた金水であるが、彼の専門は文学研究ではない。金水の専門分野は日本語学であり「役割語」という概念を提唱した人物として有名である。金水は『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(2003、岩波書店)で役割語の定義を以下のように説明している。

ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。

 つまり、役割語とは社会の中における自分の位置を表明するために非常に使い勝手のいい言葉づかいであるといえる。役割語の他にも、日本語は位相によって使用される単語や言葉づかいに違いが生まれる言語である。これは外側に存在する選択肢によって自己の可能性を広げるという先ほどあげた文学の意味とは正反対といえるだろう。すでに存在している言葉によって、自分の振る舞いや立ち位置を定義してしまう用法は、たしかにマンガの脇役に使わせればたちどころにそのキャラクターを了解できるがその分ひとりの登場人物のキャラクターの幅を狭めてしまうことになるだろう。

 

 日本語は話者の社会的な位置を適切に示してくれるがその分人物の幅を狭めてしまう。そのような現象は日本の文化にも見られる。
 ピークを過ぎたものの今でもテレビで放送されている「漫才」という形式。その起源は平安時代から始まった芸能である「万歳」といわれている。万歳は2人一組で家々を訪れ、新年を祝う口上を述べた後に、1人片方が打つ鼓に合わせてもう1人が舞うという新年を寿ぐ歌舞である。新年というめでたい日に家々を回って万歳を行い意味、それは今日という日がめでたい日であるということをお互いに再確認し合うために行われるということである。
 欧米ではなにかおめでたいことがあると家や学校でパーティーが行われるという映像を映画でよく見かける。めでたい日には楽しいことをしてその日を祝うという当たり前の行動だろう。しかし、日本は違う。めでたい日にはそれぞれそのめでたい日に合わせたことをするのである。現在でも多くの日本人は引越しをすればそばを食べ、年が変われば御節や雑煮を食べる。そして土用の丑の日になればみなが足並み揃えてうなぎを毎年食べ続ける。それはめでたいという気分を内側から喚起させるような楽しいことをするのではない。ただ単にめでたい日にするべきことであるからするのだ。ここでもやはり、日本文化は個人の状態をその外側にある情報によって規定するものになってしまっている。
 それでも日本という国の状態が正しい方向に向かっていれば問題はないだろう。しかし、いつでもそのような状態でいられるとは限らないしこのような日本文化の中では今が正しい状態にいるのかどうかを内側から判断することができない。あまりにもよく言われることではあるが、総力戦研究所によって「必敗」という結論が出されたにもかかわらず、「戦争はするもの」という空気に誰も抗うことができずに太平洋戦争は開戦された。このような傾向は戦前に限らないし、事の大小も問わない。先ほどあげたことでいえば、絶滅危惧種に認定されたにもかかわらず「土用の丑の日には食うものである」という理由によってメディアやスーパー、さらにはファストフードチェーンでも煽られ続け、もう土用にうなぎをみなで食べるのはやめようということにはならない。
 このような日本人の行動は「空気を読む」といわれ、テレビや週刊誌によってそのことが是とされ、インターネットもそれに取り込まれていった。そのような中で冒頭であげた文学をふくめた広義の芸術が日本人や日本文化の外側となり選択肢を与えることができるのか。そしてマスメディアとインターネットがまともな批評の場として機能しない現在において日本文化をアップデートできるのか。それができないのなら文学部の役割は本当の意味で終わりを迎えるといえるだろう。

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